その恋は、まだ三月を知らない。



 病室には、夕暮れの光が静かに差し込んでいた。
 ベッドに寝転んだまま、ぼんやりと天井を見つめる。
 胸の奥に、何かが引っ掛かっている。
 名前も分からない。
 理由も分からない。
 けれど、どうしても消えてくれない感覚だった。
 失くし物をしたような。
 大切な約束を忘れてしまったような。
 そんな、説明のできない寂しさ。
 「……なんなんだろうな」
 小さく呟いてみる。
 もちろん返事はない。
 病室は静まり返っていた。
 それなのに、胸のどこかで誰かを探している自分がいた。
 誰を探しているのかも分からないまま。


 高校2年の冬。
 定期検査の日。
 担当医はいつもより真剣な表情で検査結果を見つめていた。
 そして、静かに言った。
 「ハルくん。今の状態を改善できる可能性のある手術があります」
 その言葉にハッとして顔を上げる。
 医師は続ける。
 「完全に元通りになる保証はありません。ですが、今よりもうんと長い期間、記憶を保持できる可能性があります」
 記憶。
 その言葉に、再び気持ちが釘付けになった。
 毎月失われていく日々。
 普通の人より全然積み重なっていかない思い出。
 何度も繰り返してきた「初めまして」。
 それらが頭をよぎる。
 そして同時に、胸の奥に残り続けるあの感覚も。
 説明できない喪失感も。
 しばらく黙り込んだ後、小さく口を開き、尋ねる。
「……もし、成功したら」
 医師が頷く。
「今よりも大切な人との思い出を残せる可能性があります」
 その言葉が、胸に落ちた。
 大切な人。
 なぜだろう。
 その言葉を聞いた瞬間、心臓が少しだけ強く脈打った。


 その夜。
 どことなく緊張した空気感の病室で、両親に口を開く。
 「俺、その手術を受けたい」
 母親は驚いたように顔を上げた。
 そして、すがるように息子の手を握る。
 「失敗したら、あなたの体に何があるか分からないのよ」
 そういう母親の声は少し震えていた。
 父親も、いつになく真剣な面持ちで息子を見つめる。
 「母さんの言うとおりだ。そう無理しなくしてもいいんじゃないか?」
 窓の外を見ると、夜の街の灯りが遠くに見えた。
 母親の言うことも、父親の言うことも納得できる。
 でも。
 「俺さ」
 少しだけ笑う。
 「誰かを忘れたくないんだと思う」
 自分でも不思議だった。
 誰なのか分からない。
 思い出せない。
 それなのに、その気持ちだけは確かだった。
 「ずっと大切な人と笑っていられる未来がほしい」
 母親は目を伏せた。
 父親も何も言わなかった。
 しばらくして。
 母親がそっと、また息子の手を握る。
 「……本当に受けたいの?」
 「うん」
 迷いはなかった。
 母親は涙を堪えながら微笑んだ。
 「分かった。明日、先生ともう一度話してみましょう」
 父親もゆっくり頷く。
 「お前が決めたことなら、俺たちは応援する」
 その言葉を聞いて、初めて少し安心した気がした。


 手術は冬から春にかけて行われた。
 長い検査。
 不安な日々。
 リハビリ。
 決して簡単な道のりではなかった。
 それでもいつでも前を向く。
 いつか訪れる未来のために。
 大切だったはずの、どうしても思い出したい誰かのために。