病室には、夕暮れの光が静かに差し込んでいた。
ベッドに寝転んだまま、ぼんやりと天井を見つめる。
胸の奥に、何かが引っ掛かっている。
名前も分からない。
理由も分からない。
けれど、どうしても消えてくれない感覚だった。
失くし物をしたような。
大切な約束を忘れてしまったような。
そんな、説明のできない寂しさ。
「……なんなんだろうな」
小さく呟いてみる。
もちろん返事はない。
病室は静まり返っていた。
それなのに、胸のどこかで誰かを探している自分がいた。
誰を探しているのかも分からないまま。
高校2年の冬。
定期検査の日。
担当医はいつもより真剣な表情で検査結果を見つめていた。
そして、静かに言った。
「ハルくん。今の状態を改善できる可能性のある手術があります」
その言葉にハッとして顔を上げる。
医師は続ける。
「完全に元通りになる保証はありません。ですが、今よりもうんと長い期間、記憶を保持できる可能性があります」
記憶。
その言葉に、再び気持ちが釘付けになった。
毎月失われていく日々。
普通の人より全然積み重なっていかない思い出。
何度も繰り返してきた「初めまして」。
それらが頭をよぎる。
そして同時に、胸の奥に残り続けるあの感覚も。
説明できない喪失感も。
しばらく黙り込んだ後、小さく口を開き、尋ねる。
「……もし、成功したら」
医師が頷く。
「今よりも大切な人との思い出を残せる可能性があります」
その言葉が、胸に落ちた。
大切な人。
なぜだろう。
その言葉を聞いた瞬間、心臓が少しだけ強く脈打った。
その夜。
どことなく緊張した空気感の病室で、両親に口を開く。
「俺、その手術を受けたい」
母親は驚いたように顔を上げた。
そして、すがるように息子の手を握る。
「失敗したら、あなたの体に何があるか分からないのよ」
そういう母親の声は少し震えていた。
父親も、いつになく真剣な面持ちで息子を見つめる。
「母さんの言うとおりだ。そう無理しなくしてもいいんじゃないか?」
窓の外を見ると、夜の街の灯りが遠くに見えた。
母親の言うことも、父親の言うことも納得できる。
でも。
「俺さ」
少しだけ笑う。
「誰かを忘れたくないんだと思う」
自分でも不思議だった。
誰なのか分からない。
思い出せない。
それなのに、その気持ちだけは確かだった。
「ずっと大切な人と笑っていられる未来がほしい」
母親は目を伏せた。
父親も何も言わなかった。
しばらくして。
母親がそっと、また息子の手を握る。
「……本当に受けたいの?」
「うん」
迷いはなかった。
母親は涙を堪えながら微笑んだ。
「分かった。明日、先生ともう一度話してみましょう」
父親もゆっくり頷く。
「お前が決めたことなら、俺たちは応援する」
その言葉を聞いて、初めて少し安心した気がした。
手術は冬から春にかけて行われた。
長い検査。
不安な日々。
リハビリ。
決して簡単な道のりではなかった。
それでもいつでも前を向く。
いつか訪れる未来のために。
大切だったはずの、どうしても思い出したい誰かのために。
