翌週の金曜日の放課後、茶道室に先に着いた僕は、各道具の準備をしていた。
そして棚の奥に仕舞っていた茶碗を取り出す。お盆と小皿を用意し、昨日買ってきた紅葉の饅頭の包装を開けた。食べやすいようにプラスチックのナイフで半分に切ると、断面に滑らかなこしあんが見えた。
「ま、真雅く~ん……えっと、こ、こんにちは~」
茶道室の襖がゆっくり開き、柳原がこっそりと顔を覗かせていた。
「なにそのよそよそしい態度は。さっさと入ってきなよ。君が座らないと始まらないだろう?」
「あ、うん。失礼しやすっ! そうそう、俺も例の饅頭買ってきたけど……やっぱ真雅も買ってきたよな」
靴を脱いで畳の上に足を踏み入れた柳原は、片手に小さなビニール袋を持っていた。
「良いんじゃない。今日は半年記念だし茶菓子がいつもより多くても」
僕はビニール袋を受け取ると、中に入っていた個包装されている紅葉の饅頭を取り出した。中身を取り出し、同じくナイフで切ると、こちらは緑色のこしあんが詰まっていた。
「あれ、抹茶味じゃん。嫌いなんじゃなかったの?」
「毎週のように抹茶を飲んでいたお陰で『抹茶味』は克服したから全然イケる。それにこっちの方が真雅も喜ぶかなって! ……って、そっちは普通のこしあんか」
「たまには君のおすすめも良いかなって。あと、柳原がこっちの方が喜んでくれるかなと思った、から……」
なんだよ、お互い全く同じこと考えているじゃん。なんだか嬉しいような、むずがゆいような……胸の奥からほんわりと温かい気持ちが湧き上がる。
「うん。すっげぇ嬉しい!! ありがとうな、真雅!!」
柳原は恥ずかしげもなく爽やかに笑ってくれる。いつもの、よく知っている眩しい笑顔。だけどこの顔が何よりも安心させてくれる。
君と一緒に過ごす日々の中で次第に芽生えていったこの気持ちを、最近ようやく理解した。分かると尚更、この時間が尊く感じる。僕の心の未熟さのせいで少しこじれてしまったけど、再び戻ってきたこの時間をもっと大切にしたい。今度は二度と手を振り払わないように。
◆◆◆
お点前は、茶道口のふすまを開けて挨拶するところから始まる。決められた順番、歩き方で茶釜の前を往復して道具を運んだ後、茶をたてる前に各道具を清める。袱紗と呼ばれる布で撫でるように拭いていく。
「その一連の動作ってさ、やっぱり何か意味があるの?」
珍しく正座をしている柳原が訊ねてくる。手には半分に切った抹茶味の紅葉の饅頭を持っていた。口の中に放り込んでいるその顔は、抹茶味への抵抗感が一切感じられない。克服したのは本当のようだ。
「あるよ。無駄な動きに見えるだろう?」
「いや、無駄だとは思わない。所作が美しいなって思う。見ていると心が洗われるというか、気が引き締まる感じもする」
「それは良かった。お点前っていうのはね、お客様のためにお茶をたてる一連の作法だ。だから君が感じたことは正解の1つだと思う。君がそう思ってくれるだけで、この面倒くさい動作にも意味があるってものだ」
「面倒くさいって言っちゃったよこの茶道部員……」
「事実だ。こんなの1人じゃいちいちやってられない」
僕は袱紗を畳み直しながら横目で柳原を見る。真剣な双眸は、僕の手元に向けられている。全ての動きを捉えようとしている鷹の目がじっと袱紗を折る指の動きを追っている。
そうだ、いつものようにしっかり見てくれ。部活の練習の成果を……今これを見るのは君しか居ないのだ。僕は君のためだけにこの面倒なお点前をやっているんだ。強い視線を感じるからこそ、こちらも指先にまで気持ちが宿るというものだ。
「水曜日の部活動の時は講師の方が来られる。先週の金曜日にね、久しぶりに本当に1人でお茶をたてて思った。茶道って1人じゃ……なんか成り立たないなって」
僕は抹茶の粉を掬いあげて茶碗の中に入れた。自分好みの分量ではなく、いつもより少なく。でもちゃんと抹茶の風味と味は分かる量に。その上からお湯を注ぐ。
「だから金曜日のお茶会は、君が来ないと駄目だ」
「真雅……」
「でも今は部活じゃないんだ。ちょっとくらい自由で良いよな」
いつもならここで茶筅を持ってこのお茶をたてるが、その前に僕は制服のポケットから小さなポーチを取り出した。
そしてポーチの中に詰めた練乳をひとつ摘まみ上げる。小さなプラスチック容器に入った、使い切りの練乳だ。それの蓋をぺりっと捲り、中身を全て茶碗の中にひっくり返した。
「ええっ、それって有りなの?」
「さあ? でもこの道具も茶碗も僕が買った物だし良いんじゃない?」
抹茶とお湯と一緒に、ねっとりとした濃厚な練乳が混ざる。プラスチックの容器はポーチの中に畳んで入れていた小さなビニール袋に捨て、茶筅を持っていつものように混ぜ合わせていく。濃緑の抹茶に練乳の白が合わさり、優しい薄緑色になった。
いい具合に混ざり合ったところで茶筅を畳の上に置いて、茶碗を持ち上げた。立ち昇る香りはいつもと違い、ミルクの甘さを含んでいる。茶碗を回して向きを調整し、柳原の前に置いた。
「はい。口に合うと良いけど」
「うん、頂きます」
柳原は両手で茶碗を受け取ると、いつものように時計回りに2度回した。
僅かに開いた唇が、茶碗の縁を食む。今まで感じた事のない緊張感が全身に走り、ごくんと柳原の喉仏が上下に動くのと同時に、僕も唾を飲み込んでいた。
「美味しい……!! 真雅にとってはちょっと複雑な気持ちかもしれないけど、今まで飲んだ抹茶の中で一番美味しい!! 抹茶の苦味も勿論感じるけど、練乳の甘みがかなり和らげてくれている。自販機の抹茶ラテとは違って抹茶特有の風味や香りもしっかり残っているのが良い!!」
柳原は口元に手を添えて、感動したように弾んだ声をあげながら力説する。中身が半分ほど減った茶碗の中を見る目は、驚きと感動で輝いている。その声色はいつもの抹茶を飲んだ時とは全然違う。きっと心から美味しいと言ってくれている時の声なのだろう。
「そっか、良かった……!!」
緊張の糸がするりと解かれ、嬉しくて思わず正座が崩れそうなほど脱力してしまった。柳原は残りの抹茶も飲んでくれている。いつもよりゆっくりと、しっかり味わってくれるかのように。
