金曜日の放課後、チャイムが鳴り終わった瞬間から楽しみで胸が高鳴る。
休日に何をするか語り合う生徒たちの後ろを素早く通り抜け、僕は玄関とは真逆の方角にある渡り廊下を渡った先にある別館へ向かった。目的地はその1階の奥にある小さな和室……部員1人しか居ない、小さな茶道部の部室だ。
金曜日の放課後は、ささやかなティータイムの時間なのだ。
◆◆◆
茶釜からお湯が沸騰し始める小さな音と、湯気が立ち上る。生徒が残っているであろう本館と運動部の活動範囲から離れたこの茶道室は、洋館である校舎から切り取られた別世界のようだ。木の香り、畳の感触が心地いい。僕の大好きな空間だ。
「なあ真雅、ずっと前から思っていたんだけど何で茶菓子から先に食べるんだ?」
上機嫌な気持ちにメスを入れる様に、間抜けな声が割り込んできた。首を横に向けると、串に刺した羊羹を持っている同じ学年の男子生徒……柳原翼がこっちを見ていた。
整えられた艶やかな短い黒髪に、程よく筋肉が付いた長身細身の体型。目はぱっちりして大きめだが、鼻筋が通った可愛い系のイケメンだ。
正座が疲れたからか行儀悪く胡坐をかいている。彼にマナーを期待していないが、もうちょっとなんとかならないだろうか。
「抹茶は苦いからね。だから先に甘い物を食べて、舌に甘みを残した状態で苦い抹茶を飲むんだと」
「ええ……それなら尚更抹茶を飲んだ後に茶菓子の方が良くないか?」
「メインはあくまでも抹茶だろう? 茶菓子はあくまでも抹茶の引き立て役。最後に茶菓子の味で締めくくってどうする?」
「へー、そんなもんか」
茶道部では週に1度、水曜日に学校外から来られる講師に作法を習う。
今日は金曜日、つまり本来なら部活が休みの日だ。だがいろいろあって僕は茶菓子や抹茶、道具を自腹で買う事で、特別に金曜日も練習する許可を貰った。
そして僕の横にいる柳原はバスケ部のエースだ。バスケ部は金曜日は休みらしく、金曜日は毎週抹茶を飲みにやって来てくれる。
低身長の特に際立った特徴のない顔つきの僕と、住む世界の違いを感じさせる。
「そもそも抹茶に甘さを求めるなら粉から作る茶道部の抹茶は口に合わないだろう。自販機に売ってある抹茶ラテでも飲めば良い」
そう言いながら僕は抹茶の粉を茶杓で2杯半掬い、茶碗の縁を叩いて粉を落とす。そこに茶釜の湯を茶碗の下半分ほどまで入れていく。このくらいの割合が僕の好みの味だ。それを茶筅という道具で混ぜて抹茶をたてる。
「どうぞお客サマ、自販機のでは満足出来ない僕たち用の抹茶だぞ」
「あ、ああ。頂きまーす」
そう言って柳原は、左の手のひらに置いた茶碗を右手で時計回りに2度回して抹茶を啜る。そのままゴクゴクと一気に飲み込み、ぷはーと息を吐き出した。
「ふー、ご馳走さん!」
「相変わらずオッサンみたいだな君は。この風情ある茶道室に居ても、その品のない図太い態度はある意味天晴れだよ」
「えー、俺の家、居間に畳敷いてあるからよく分かんねーわ! ははっ!!」
悪びれる様子もなく頭を掻く柳原にやれやれと肩をすくめる。パッと見は接点が無いし、彼は風情もない存在だが、こんな奴でも数少ない抹茶好き仲間なのである。それに彼がここに来ているきっかけも僕だ。
僕は昔から抹茶が好きだ。特に粉から自分で作った抹茶は味も香りも別格である。抹茶は苦味が強い。世間で売られているアイスやお菓子などの『抹茶味』なんかとは全然味が違う。
「真雅がたてる抹茶、めっちゃ濃いよな。先に食べた茶菓子が死ぬくらい」
「茶道ではこれくらいが普通だよ。まあ、僕が満足できる濃さの抹茶を提供してくれる店は滅多にないからな。今のところ近場では駅の地下街にある喫茶店くらいだ」
「へ? 真雅ずっと外で飲む味じゃ満足できないって言ってなかったっけ?」
「最近出来た新しい店らしい。濃い抹茶好きには朗報だぞ、喜べ」
今でも一部の和食屋や旅館で抹茶を飲むことも出来るが、大半は大衆向けに飲みやすいよう調整された薄い抹茶だ。僕はそれには満足できず、自分で買って作るようになった。
だが最近近場にいい店が出来たのだ。同じ抹茶好き仲間として情報共有くらいはしといてやる。感謝しろ。
「あー……そりゃどうも。でも俺、普段部活帰りはバスケのチームメンバーとファミレスのドリンクバー飲むし、抹茶は毎週ここで飲む分で十分かな」
「む、そうか」
まあ学生にとっては値段的にもファミレスのドリンクバーの方が手を出しやすいよな。食べ盛りの運動部のチームメンバーと抹茶の相性は良くなさそうだし。
「ところでこの余った羊羹もらって良い? めっちゃ美味いわこれ」
こういう所は本当に残念だな君は。
「調子乗るな馬鹿が。それは僕のだ」
「ちぇー……まあいっか。いつも通りならもう終わるよな。片付け手伝うよ」
だけど毎週来てくれるし、片付けも手伝ってくれる。今日は僕が持ってきたが、柳原が茶菓子を持って来てくれることも多い。
入学時は先輩が居たが、茶道部は年々部員が減っており、今では部員は僕1人だ。だからいつも講師の方と茶を飲み合っている。彼はそんな日々の中で現れた変化。不満は無いわけではないが、それ以上に言葉にできない満足感がある。
残った湯を捨て、使った茶碗は洗い、水気を拭いて元の場所に戻す。もう置き場所をいちいち言わなくても、柳原はちゃんと正確な位置に綺麗に片付ける。茶碗を棚に戻し、扉を閉めて一息ついた。隣に居る柳原がこっちを向いて、ニカっと爽やかな満面の笑みを浮かべた。
「今日の抹茶をたてている真雅も、すげー格好良かったぞ。来週も楽しみにしている!」
そうそう、最近少し困った事がある。
この笑顔を見ると何故か少しだけ顔が熱くなる。心拍数が上がり、じっとしていられないような……身体がこそばゆい感じがする。
初めて会った時はこれほどではなかったのに、今では顔を真っ直ぐ見るのが気まずいと感じるようになった。でも同時に、この感覚は不思議と心地いい。
僕はそっぽを向いて『うん』と小さな声で返事をしながら頷いた。
