帰っていく部員たちの群れの中、逆らうようにコートへ向かう男が一人。
こういうところは嫌いになれないんだよなぁ、と俺は思った。
「漣、球出ししてやろうか」
加藤との会話をぶった斬り、大きな背中に声をかける。
「いいんすか」
漣は振り返り、嬉しそうに笑った。
「げーっ、まだやんの?」
加藤が呆れたように顔をしかめる。確かに、全国前のハードな練習メニューのおかげで疲れきっているし腹も減ってる。でも、漣がやるというのなら、やらない理由はない。
「もちろん。ペアだからな」
「はいはい、仲が良いこって」
「槇原ー」
部長の五十嵐が振り向いて、部室の扉を指し示してきた。
「戸締りよろしくなー」
「りょうかーい」
ボールの詰まったカゴを一つ、持ち上げ、コートの右側にそっと下ろす。漣はもうベースライン際にスタンバっている。
「クロスで五十本だけな」
「はい!お願いします!」
俺は古びたカゴから黄色いボールを掴み、テンポよく漣の手前へと弾ませていった。シュパッ、シュパッ、と乾いた音が、夕闇の迫るコート内にこだまする。漣の打球は、どれもベースライン際でいきなり落ちて急角度で弾んだ。相変わらずのコントロール……と言いたいところだが、今日はあまり調子が良くないらしい。スイートスポットを外した鈍い音が十本に一本くらいの割合で混じっている。
「……五十!」
漣が最後のボールをコーナーに叩き込んだところで、俺はラケットを下ろした。
「はい、終わり。さっさと片付けて帰ろうぜ」
「……はい」
物足りない、という顔。しかし、休むのも練習のうちだ。それに、七時までに部室の鍵を職員室に返さなければ守衛さんに怒られてしまう。
二人でボールを拾い集め、コート整備をしてから部室へ向かった。ボールが百個詰まった重いカゴは、当然、漣が持ってくれている。
「腹減ったなー」
「っすねー」
扉を開けて電気をつける。室内へと足を踏み入れた途端、汗と制汗剤の混ざり合ったような匂いと、生温かい空気がじっとりと肌にまとわりついてきた。
「窓、全開にして良い?」
「はい」
お互いに背を向けて着替え始める。
ユニフォームを脱いで、ボディシートで身体を拭いて、制服を取り出して……とか、やってる間もずっと無言で……やっぱ気まずい。俺、いつもなに話してたっけ?なにも話してなかったんだっけ?さっさと帰りたい。けど、『恋愛のことテニスに持ち込むのは禁止』とか自分で言っちゃった手前、絶対に態度を変えるわけにはいかない。
俺は汗だくのユニフォームをビニール袋に突っ込み、努めて明るく声をかけた。
「最近、熱心だな」
「まぁ……当たり前でしょ」
「そりゃそうだけどよ」
「………………」
「………………」
「………………」
秒針の進む音がやけにうるさく響いてくる。
えーと、えーと、えーと、続き。ゴールデンウィーク何してた?とか……いや、練習しかしてないだろ。俺もそうだし。あっ、勉強の話は?こいつ意外と頭良いんだよな。来月末のテスト
「先輩」
「はっ、はい!?」
振り向くと、制服に着替え終わった漣がまっすぐにこちららを見つめていた。
ドキリとする。
まさか、また――?
「俺、絶対全国行きますから。先輩もそのつもりでいてくださいね」
「……え」
俺はポカンと口を開け――
「っ……なに言ってんだ!当たり前だろ!」
思いっきり漣の背中をぶっ叩いた。
「いっ、てぇっす」
「お前こそレギュラー落ちすんなよ!」
「しません」
「どーだか。お前けっこうムラっけあるからなー」
「先輩は、詰めが甘いですよね。慎重なのは良いと思うんですけど、たまに変に日和って出遅れてるっていうか……前の試合でも、ネット出れば決まるのに後ろに残って」
「わーかったわかった」
「機動力はあるはずなのに――」
「その話、五回は聞いた!」
ラケットバックを背負い、漣の背中を押して部室の外へと追い出していく。
小窓を閉め、電気を消して鍵をかけている間も漣は何やら話していたが(こいつの話は長い上に失礼なので、いつもほどほどに聞くようにしている)「行くぞ」と声をかけた途端、急に黙って俺のことを見つめてきた。
「なんだよ」
「いえ……とにかく、先輩の取り柄は粘り強いところなんですから、ちゃんとそこ見せてくださいね」
「うるせーよ」
「信じてますよ」
真剣な表情だった。胸が、じわりと熱くなってくる。
俺は黙って歩き始めた。後ろから響いてくる漣の足音。涼しい風。職員室に部室の鍵を返し、静まり返った校門を出る頃には、もう辺りはすっかり真っ暗になっていた。
――ぐぎゅるるるるっ。
あ、と思って腹を押さえる。漣が、「腹減りましたね」と笑って俺の隣に並んできた。
「……コンビニ寄るか」
「良いですね」
「なんか奢ってやるよ」
「やった」
少し歩いて、明るい店内に入っていく。
ホットスナックのケースを覗き込んで、俺は迷わず唐揚げを選んだ。隣に立つ漣は、新作と謳われている辛味チキンを注文している。
「ありがとうございましたー」
コンビニを出て、夜道を歩く。俺は唐揚げの香ばしい匂いを胸いっぱいに吸い込み、その大きな一塊にかぶりついた。
「……んんっ」
サクサクの衣を破った瞬間、閉じ込められていた熱い肉汁が、じゅわっと口いっぱいに溢れ出してくる。
「うめぇ……!」
思わず天を仰いでしまった。うまい。うますぎる。今日一日、頑張ってきて良かった……!
「そんなにうまいすか」
「うまい」
隣を見ると、漣も豪快に衣を鳴らしながら真っ赤なチキンを頬張っている。
「そっちはどう?」
「食べますか」
「いいの?」
漣が差し出してきたチキンを、俺は遠慮なく一口もらった。唐辛子のピリッとした刺激と、肉汁の甘みが舌の上で弾ける。これもこれでめちゃくちゃうまい。
「俺のもやるよ」
お返しにケースを差し出すと、漣は少し身を屈めるようにして、俺の手のつけていない特大の唐揚げを綺麗に半分齧り取った。
「……ふふ」
「なんすか」
「いやー……お前、丸くなったなぁと思って」
そう言うと、漣は怪訝そうに俺のことを見つめてくる。
俺は唐揚げを持っていない方の手を広げ、
「この状況だよ」
と笑った。
「一年前なら、一緒に帰ったりしなかっただろ?飯奢るっつっても断ってただろうし、食いもんのシェアなんか絶対やらなかった。お前、成長したんだよ人として」
「……そうなんですかね」
「そうそう」
「だとしたら、先輩のお陰です」
ざぁっと風が吹き抜けていった。
……あ。
住宅街の明かりの下、漣の真剣な表情が浮かび上がる。
俺はしまった、と思い、慌てて視線を唐揚げに落とした。
「先輩」
「……っ」
背中がカーッと熱くなって、よくわからない汗が滲んでくる。
つ、ついにくるか……!?
思わず後退りしそうになったその時。漣は鞄の中から何かを取り出して――
「口、めっちゃテカッてますよ」
と言ってきた。
「………………は?」
顔を上げ、差し出されたポケットティッシュを呆然と見つめる。
「唐揚げの油。子どもみたいっす」
そう言って、ニヤニヤと俺の顔を覗き込んでくる漣――。
「うるせーよ!」
俺はひったくる勢いでティッシュを受け取り、ゴシゴシと雑に口元を拭った。
自意識過剰な自分が恥ずかしい。さっきまでの数分間、最初から全部やり直したい……!
「ありがとな!」
ポケットティッシュを突っ返し、またいつものスピードで歩き始める。漣はそれ以上何も言わなかった。なので、俺も黙って歩き続けた。
静かな夜の一本道。自分の心臓が妙なリズムを刻み続けていることには、気づかないふりをして。
……げっ。
校舎の曲がり角を曲がった途端、俺は身体を硬直させた。
漣だ。部室棟に繋がる渡り廊下を、悠々とした足取りで歩いている。
まぁ、目的地同じなんだから会っても仕方ないんだけどよ……。
なんとなく気まずくて歩みを遅くしていると、漣は急に振り返って――
「誠司先輩!」
――素早く俺に駆け寄ってきた。
「お疲れ様です!」
「なんで気づいた!?」
「あそこに映ってました!」
と、部室棟の窓ガラスを指差す漣。俺は顔を歪めて、漣を押し除けるように歩き始めた。
「今日あっついですねー」
「……そうだな」
五月半ばの放課後。空はまだまだ青くて、これから日が落ちるなんて信じられないほど。
「昨日はごちそうさまでした」
「あぁ……いいよそんなの」
「新作の辛味チキンめっちゃうまかったっす。先輩も辛いのいけるんすね」
「ちょっとならな」
「もしかして舌の方もお子ちゃまですか?」
「……なんだと〜!?」
漣の脇腹を軽く小突いた。そんなくだらない応酬をしながら部室棟への階段を上ろうとしていた、その時。
「あのっ……高峰君!」
背後から、高く上擦った声が響いてきた。
振り返ると、二年の女子が顔を真っ赤にして、じっと漣を見つめている。
状況は一瞬で理解できた。たぶん――いや、間違いなく告白だ。
そう思った瞬間、みぞおちにジリッとした嫌な熱が広がった。
なんだこれ……っつーか空気読めよ、女子。これから部活あんだぞ。
急激にイライラしてきた自分に戸惑いながらも、先輩としての顔を取り繕って、漣の背中をぽんと叩く。
「行ってこい」
「……え。でも、もうすぐ練習が」
「いいから」
促すように言うと、漣は信じられないものを見るような目で俺を見つめた。
思わず視線を逸らして後退りする。
「……本当にいいんですか」
「あぁ」
ハッキリとした口調で言ってやると、漣は
「わかりました」
と小さく唇を噛み、女子生徒の方へと歩いていった。
一人で部室へ向かう道すがら、その去り際の漣の顔が頭から離れなかった。
帰り道。居残り練習をしていたみんなと校門で別れて、二人きりになった途端、漣は焦ったように口を開いてきた。
「告白、ちゃんと断りましたよ」
「……へぇ」
イラッとした。あの女子となに話したんだろう、とか、可愛い子だったな、とか、そういうくだらないことは考えないようにしてたのに、わざわざ蒸し返してくんなよ。
「先輩、怒ってますか?」
「怒ってねぇよ」
早足で夜道を歩いていく。
俺には、怒る資格なんてない。
「ウソだ。怒ってる」
「……怒ってるとしたら、お前が俺のこと見過ぎだからだ。みんなに変に思われるだろ」
「そんなつもりは」
「ってかさ、告白断ったとか、いちいち俺に言わなくていーよ。めんどくせぇ」
言ってから、『やべ』と思った。
漣がピタリと足を止めたからだ。振り向けば、強張った顔の漣が拳を握りしめて立っている。
俺も足を止めて、正面から漣に向き直った。
「……なんだよ」
「俺は……俺は気になります。先輩が誰かに告られてないか、誰かを好きになっていないか……もしそうなんじゃないかって思うと、気が狂いそうになります」
「知らねぇって」
あぁ、止まらない。
真っ黒なアスファルトに視線を落として、きつく唇を引き結ぶ。
「……そんな言い方ないじゃないですか」
漣のトーンが一段下がった。
「俺はただ好意を伝えたくて」
「それが……迷惑だって言ってるんだよ。わからないのか?」
ため息と共に言葉を続ける。
「全国前だぞ。もっとテニスに集中しろ」
「してます!集中……俺は先輩たちを全国に連れて行くつもりだし、優勝するつもりで毎日必死で練習してます!」
「本気なんだな」
「はい」
「恋愛より?」
ぐっと漣が言葉に詰まった。
首筋を冷たい風が吹き抜けていく。
「……先輩」
「お前、最近調子悪いよな」
形の良い眉がわずかに動いた。
心臓が、バクバクしてきて息が苦しい。声が震える……。
「そんなことありません」
「じゃあ、なんであのスライス取れなかった?前のお前だったら取れてたはずだろ。あのコースに刺さったフラットも、岡野のサーブも、なんで……っ」
「誠司先輩」
「俺のせい……?」
漣が、スッと表情を消して目を逸らした――それが答えだった。
「もう頭がぐちゃぐちゃだ……」
地区予選まであと二週間。恋愛どころじゃない。時間が足りない。引退、したくない……っ。
頭を掻きむしるようにして目をつむり、深い深いため息を吐く。
「お前が告白なんかするから……俺は……」
「………………」
「どうすりゃ良いんだよ……」
「俺が全部悪いんですか」
低く、重たい声だった。
ハッとして顔を上げると、苦しげな表情の漣と目が合って。胸がぎゅうっと苦しくなる。
「確かに、俺も急ぎすぎてたと思います。でも、こっちだって必死で抑えてるのに、そんな風に言われたら……」
漣は悔しそうに斜め下の地面を見つめて、それから、ジロリと俺のことを睨みつけてきた。
「どうすりゃ良いんだよって……それは、こっちのセリフです」
一歩、大きく踏み出してくる。
「先輩、返事保留にしてくれたじゃないですか。考えるって、言ってくれたじゃないですか」
「……それは」
「ちゃんと待っててくださいよ。俺、本気ですから。全国優勝も、誠司先輩も……だからこそ、どうしたら良いのかわからないんです……!」
ふらふらと二歩、後退りした。
先輩として、一人の男として、何も返せない自分がもどかしい。
漣はゆっくりと顔を上げ、力なく笑って俺を見つめる。
「俺たち、良いコンビでしたよね」
「……漣?」
「後悔してます。好きなんて……言わなければ良かった」
それだけ言って、漣は夜の闇の中へと走っていってしまった。
あとに残されたのは、遠ざかる足音と、静まり返った住宅街の冷たい空気だけ。
心臓まで、ぽっかり穴が空いてしまったように冷たくなってくる。
俺、なんで…………バカみたいだ。
中途半端に伸ばしていた手を下ろし、再び深いため息を吐く。無駄に綺麗な夜空を見つめながら、俺はただ立ち尽くすことしかできなかった。
