あかねいろ 忍び恋物語

 時は流れて数年後――。
 すっかり一人前の忍に成長した雪乃は、任務の最中だというのに人知れずため息をついた。
 後頭部の上のほうでひとつに束ねた長い黒髪が、頭の傾きに合わせてさらりと肩に落ちる。

(もう! 任務じゃなかったらすぐにでも返り討ちにしてやるのに!)

 陽も昇らぬうちから叩き起こされたのが昨日の話。そのまま任務に駆り出された雪乃は単独で、里からほど近い苧環(おだまき)城へと登城した。
 苧環城城主――実継(さねつぐ)が、父親の居城へ出向く道中の護衛を依頼されたのである。
 任務自体はそれほど難しいものではない。
 護衛には雪乃以外にも、実継お抱えの家臣団の精鋭が随行している。

 だが雪乃にとって盲点だったのは、依頼人の実継自身だった。

(なんなのこいつ! 城主だかなんだか知らないけど、ただの変態野郎じゃない!)

 頭領から「くのいち指名での依頼だ」と告げられたときから、なにかおかしいと思っていた。
 初対面で馴れ馴れしく手を握られただけならまだしも、彼は道中ことあるごとに雪乃をそばに呼びつけ、不必要なまでに肩を抱き腰まわりをなでまわし、挙げ句の果てには一夜の共寝を乞うてきたのである。

(ほんっとにあり得ないんだけど! この色ボケデブ!)

 胸中で依頼人に悪態をつきながら、雪乃はななめ向かいに座る男を盗み見た。
 同乗した牛車の揺れに合わせて、ぜい肉の塊、否、実継が心地よさそうに巨漢を波打たせている。

(だいたい、護衛の忍が同乗するなんて聞いたことないんだけど!?)

 行きこそ牛車のうしろを随行していたが、帰路について早々に屋形への同乗を命じられたのだ。
 非常識だとは思いつつも依頼人に逆らえるはずもなく、また家臣団も諌めるそぶりもない。
 おかげで雪乃は、不本意ながらこうして牛車に揺られている次第である。

「雪乃、雪乃や。近う」

 実継の汗ばんだ太い腕が、微動だにしない雪乃の手を取る。
 締まりのない脂肪をまとった指が、手甲を装着したままの雪乃の手のひらをすー……っ、となぞった。

「ほんにそなたは美しいのぉ」
(おそ)れ多く」

 視線を合わすことすら不快だとばかりに、雪乃は豪華な内装の一点を見つめたまま。
 背すじに悪寒が走るのを感じながらも、雪乃は表情を崩さず当たりさわりのない返事をして手を引いた。

「つれないところも()いのぉ。ほれ、もっと近う」

 そう言ってにじり寄ってきた巨漢に、雪乃はおもわず頬を引きつらせた。
 肉厚の手のひらが腰にまわされ、尻を這う生暖かさが気持ち悪くて仕方がない。

「どうじゃ、このまま余とともに来んか?」
「ご依頼は道中の護衛ですので、苧環城ご到着まではお供させていただきます」
「のほほっ、城までとは言わず……のう?」

 声に出さない先の言葉を言外ににおわせながら、実継の湿った吐息が耳をかすめる。
 とたんにぞわぞわとした嫌悪感が頭のてっぺんまで突き抜けた。

(きいいいいいっ! なんなのなんなの!? こいつホントに気持ち悪いんだけど!)

 おもわず殴りかかりそうになったこぶしをぐっと抑える。

(これは仕事これは仕事これは仕事)

 まるで呪文のように同じ文句を頭の中で唱えながら、雪乃は静かに深呼吸をした。
 心を無にすることに集中していないと、今にも手が出てしまいそうだ。それだけはなんとかして避けなければならない。
 相手は依頼人、苧環城城主である。

(仕事仕事仕事仕事)

 無心で実継をあしらっているうちに、牛車の揺れが止まる。
 ゆっくりと御簾(みす)が上げられ、西日が差し込んで雪乃の顔を照らしていた。

(もう日暮れか……)

 陽射しの弱さに時間の経過を感じながらも、雪乃はわずかに安堵の息を漏らした。
 ようやくこの拷問のような空間から脱出できそうである。

「殿、ご無事のご帰還、なによりでございます」
「なんじゃ、もう着いてしまったのか? つまらんのぉ」

 牛車の外で(うやうや)しく頭を下げた側仕えの翁が、顔を上げるなり憐れむような視線を雪乃に向けていた。
 屋形の中で実継に寄り添われる彼女の引きつった表情に、道中の子細を瞬時に把握したのだろう。

(誰も動揺してないってことは、こんなこと初めてじゃないってことじゃない……)

 実継に続いて護衛の忍が屋形から降りてきても顔色ひとつ変えない家臣たちに、雪乃はもはやため息すら出なかった。

「それでは、私の任務はこれにて。お約束のものを確認させていただきたく存じます」

 翁に軽く会釈をして、雪乃は任務の完了を促す。
 状況を把握したのなら早く帰らせてほしいと視線で訴えれば、翁はわかっているとでも言いたげに深くまばたきをしてみせた。

 だが言外のやりとりを気づかぬままに遮ったのは、ほかでもない実継自身である。
 不満を全身に漂わせながら、実継は雪乃の肩に腕を伸ばした。

「なんじゃ、もう帰ってしまうのか? もう少しゆっくりしていけば良かろう?」

 強引に抱き寄せられるも、相手は権力だけはある城のあるじである。
 感情を優先して抗うわけにもいかず、雪乃はひかえめに両手を胸の前で突っぱねることしかできなかった。
 背中にまわされた腕も、目の前に迫るたるんだ輪郭もなにもかもが受け入れがたい。

「お気遣いいただきありがとうございます。ですが謹んで遠慮させていただきます」

 当たりさわりのない受け答えでかわそうにも、それが通じる相手ならばそもそもこんな事態にはなっていないだろう。
 ただ派遣されてきただけの忍に対してこうも周囲の目も省みずに迫ってくるほど、実継はずいぶんと雪乃のことをお気に召した様子である。
 そのことに気がつきながらも苦言を呈することのできない家臣たちがそっと視線を伏せるのを、雪乃は忌々しい気持ちで視界の端に捉えていた。

「そう焦って帰らずとも、一夜くらいならば良かろう? そうじゃ! 日頃では味わえぬような豪勢な(めし)を用意させよう! ふかふかの布団もじゃ! 城で一番の部屋をそなたにやろう! どうじゃどうじゃ?」
「いえ、ですから」

 引くことを知らない実継が、あれよあれよと思いつくままの贅沢を雪乃に与えようとする。
 しかしそんなものに心が揺らぐ雪乃ではない。

 仮にもくのいち。任務を逸脱することも、個人的な報酬を受けとることも自身の矜持が許さない。
 それ以上に、抱き寄せられたまま下腹部に押しつけられる実継の腹の肉の感触が、彼女の嫌悪感にさらに拍車をかけていた。

(ええい! 鬱陶しい! わたしは一刻も早く帰りたいの!)

 鼻息荒く体を寄せてくる実継に、雪乃の我慢の限界が迫っていた。さすがにそろそろ訴えを起こしてもいいのではなかろうか。