◇◇◇
「ねぇ、雪乃のやつ、まだ帰ってこないけど大丈夫かなぁ?」
里のはずれの清流に糸を垂らしながら、巨岩の上に座ったまま丹治が言った。
雪乃が啖呵をきって山に入ってからしばらく経つが、まだ彼女は里に戻ってきていないようだった。
それを思うと、気弱な丹治はとたんに不安になってきたのである。
「なんだお前、あいつの心配なんかしてんのかよ」
「そういうわけじゃないけど……でももし雪乃になにかあったら、どやされるのはぼくたちだよ?」
もうすぐ日暮れの時間帯だ。
雪乃が帰ってこない、なんてことになれば、彼女をけしかけ一人で山に行かせた自分たちが咎めを受けるのは目に見えている。
「危ないから、子どもは一人で渓谷に行っちゃいけないって決まってるのに……」
丹治が小さく首をすくめれば、本吉が彼を小馬鹿にするように鼻で笑った。
「ビビんなよ。あのチビがおいらたちのせいにするはずがねぇじゃねぇか。あいつは自分の意志で行ったんだ。構うこたぁねぇよ」
本吉の言葉にうんうんとうなずきながら、武安が勢いよく糸を引き上げる。
先端に結びつけた手製の針には、活きのいい小魚がぶら下がっていた。針を口の端に引っ掛けたまま、小魚はピチピチと体を踊らせている。
「けどさぁ、幻の花なんて、本当に咲いてるの? 誰も見たことがないんでしょ?」
「へぇ~? その話、もっとくわしく聞かせてくれない?」
「「「っ!?」」」
なんとはなしに軽くたずねた丹治の質問に、返ってきたのは武安の声ではない。
唐突に現れた第三者の声に肩を揺らし、安本丹はおそるおそる背後を振り返った。
「幻の花が、どうしたって?」
にこにこと、笑みを張りつけた直景がそこにいた。
「な、直景っ……!?」
「なんでここにっ……!?」
驚く武安たちを尻目に、直景が一歩前に出る。
「雪乃がさぁ、見当たらないんだよねぇ。畑も荒らされたまんまだし。あ、これお前の巾着だよね? 雪乃んちの畑に落ちてたよ。それでさぁ」
小さな巾着袋の紐を指にひっかけて円をえがく直景が、まばたきもせずに武安を見遣る。
「雪乃、知らない?」
武安たちが雪乃にちょっかいをかけたことなどお見通しだと言わんばかりに、直景の視線がゆっくりと三人を捉える。
三人は上体をのけぞらせて、懸命に直景から距離を取ろうとした。
だがそこはせまい岩の上。逃げ場などあろうはずもない。
「っあ、あいつが悪いんだ! チビのくせに調子に乗るから!」
細くひらかれた直景のまなざしに気圧されて、武安がなかば自棄になって叫んだ。
「そ、そうだ! 怒られて痛い目見れば、少しはおとなしくするかと思ったんだ!」
逃れられぬと悟ったのか、本吉も堰を切ったように言い訳に加勢する。
「あいつは親なしだから生意気なんだって! だったら頭領とかババ様に叱られるようなことをさせればいいってたけちゃんが!」
「ばっか!? 余計なこと言うなよ!」
「ふーん。それで? 雪乃はどこ?」
小首を傾けた直景の声色に、丹治が小さく悲鳴を上げた。
直景が納得していないのはあきらかである。
いくら御託を並べたところで、彼は雪乃の居場所を突き止めないかぎり、この場を去ってはくれぬのだろう。
岩の上で身を寄せ合いながら、本吉と丹治は中心にいる武安の顔色をうかがった。
事の発端である当の武安は、唇を震わせながら音を出せぬままパクパクと口を開閉させるばかり。
「もう一度聞くよ? 『雪乃はどこ?』」
言い淀む三人に追い打ちをかけるように、直景は再度問いかける。
笑っている口元とは裏腹に、冷たい視線がまっすぐに三人を射抜いていた。
「し、知らな……!」
「っ! 渓谷だよ!」
「たけちゃんが、渓谷に幻の花が咲いてるって言って!」
「おいバカ! それはっ……!」
直景の圧に堪えきれなかった本吉と丹治の、叫びにも似た自白が響き渡る。
咄嗟に武安が二人の口を止めようとするが、時すでに遅し。
供述はしっかりと直景の耳に届いていた。
「ふーん。で? 幻の花は、本当に咲いてるの?」
直景が、腰を折って武安に顔を近づける。
顔面蒼白になりながら、武安は乾いた空気を飲み込んだ。
「っ……! し、知らない! だって、あそこには近づくなって父ちゃんが……! ひいっ!?」
目の前で煌めいた苦無の鈍い光に、三人の思考が停止する。
「そうだよねぇ。知るわけないよねぇ? 子どもだけで渓谷に行っちゃいけない決まりだもんね?」
直景の声色が、一段と低く鼓膜に響いた。
「危険だとわかってるのに、雪乃を行かせたの? 花が咲いているかも知らないのに? たったひとりで?」
放たれる殺気に、武安はこくこくと首だけを上下させた。声を発する余裕などない。
次の瞬間、自分の意思とは無関係に体がうしろに傾いていった。
清流が立て続けに三度、大きな水しぶきを上げる。
「次、雪乃をいじめたら……わかってるよね?」
頭上から影を落とす直景の視線が、全身に被った水よりも冷たい気がした。
「わかったらさっさと帰りなよ。大人たちには黙っといてあげるからさ」
直景に蹴り落とされたのだと理解したときには、彼はそう言い残して姿を消していた。
放り投げられた巾着袋が、重力に従って武安の頭上にポトリと落ちた。
「ねぇ、雪乃のやつ、まだ帰ってこないけど大丈夫かなぁ?」
里のはずれの清流に糸を垂らしながら、巨岩の上に座ったまま丹治が言った。
雪乃が啖呵をきって山に入ってからしばらく経つが、まだ彼女は里に戻ってきていないようだった。
それを思うと、気弱な丹治はとたんに不安になってきたのである。
「なんだお前、あいつの心配なんかしてんのかよ」
「そういうわけじゃないけど……でももし雪乃になにかあったら、どやされるのはぼくたちだよ?」
もうすぐ日暮れの時間帯だ。
雪乃が帰ってこない、なんてことになれば、彼女をけしかけ一人で山に行かせた自分たちが咎めを受けるのは目に見えている。
「危ないから、子どもは一人で渓谷に行っちゃいけないって決まってるのに……」
丹治が小さく首をすくめれば、本吉が彼を小馬鹿にするように鼻で笑った。
「ビビんなよ。あのチビがおいらたちのせいにするはずがねぇじゃねぇか。あいつは自分の意志で行ったんだ。構うこたぁねぇよ」
本吉の言葉にうんうんとうなずきながら、武安が勢いよく糸を引き上げる。
先端に結びつけた手製の針には、活きのいい小魚がぶら下がっていた。針を口の端に引っ掛けたまま、小魚はピチピチと体を踊らせている。
「けどさぁ、幻の花なんて、本当に咲いてるの? 誰も見たことがないんでしょ?」
「へぇ~? その話、もっとくわしく聞かせてくれない?」
「「「っ!?」」」
なんとはなしに軽くたずねた丹治の質問に、返ってきたのは武安の声ではない。
唐突に現れた第三者の声に肩を揺らし、安本丹はおそるおそる背後を振り返った。
「幻の花が、どうしたって?」
にこにこと、笑みを張りつけた直景がそこにいた。
「な、直景っ……!?」
「なんでここにっ……!?」
驚く武安たちを尻目に、直景が一歩前に出る。
「雪乃がさぁ、見当たらないんだよねぇ。畑も荒らされたまんまだし。あ、これお前の巾着だよね? 雪乃んちの畑に落ちてたよ。それでさぁ」
小さな巾着袋の紐を指にひっかけて円をえがく直景が、まばたきもせずに武安を見遣る。
「雪乃、知らない?」
武安たちが雪乃にちょっかいをかけたことなどお見通しだと言わんばかりに、直景の視線がゆっくりと三人を捉える。
三人は上体をのけぞらせて、懸命に直景から距離を取ろうとした。
だがそこはせまい岩の上。逃げ場などあろうはずもない。
「っあ、あいつが悪いんだ! チビのくせに調子に乗るから!」
細くひらかれた直景のまなざしに気圧されて、武安がなかば自棄になって叫んだ。
「そ、そうだ! 怒られて痛い目見れば、少しはおとなしくするかと思ったんだ!」
逃れられぬと悟ったのか、本吉も堰を切ったように言い訳に加勢する。
「あいつは親なしだから生意気なんだって! だったら頭領とかババ様に叱られるようなことをさせればいいってたけちゃんが!」
「ばっか!? 余計なこと言うなよ!」
「ふーん。それで? 雪乃はどこ?」
小首を傾けた直景の声色に、丹治が小さく悲鳴を上げた。
直景が納得していないのはあきらかである。
いくら御託を並べたところで、彼は雪乃の居場所を突き止めないかぎり、この場を去ってはくれぬのだろう。
岩の上で身を寄せ合いながら、本吉と丹治は中心にいる武安の顔色をうかがった。
事の発端である当の武安は、唇を震わせながら音を出せぬままパクパクと口を開閉させるばかり。
「もう一度聞くよ? 『雪乃はどこ?』」
言い淀む三人に追い打ちをかけるように、直景は再度問いかける。
笑っている口元とは裏腹に、冷たい視線がまっすぐに三人を射抜いていた。
「し、知らな……!」
「っ! 渓谷だよ!」
「たけちゃんが、渓谷に幻の花が咲いてるって言って!」
「おいバカ! それはっ……!」
直景の圧に堪えきれなかった本吉と丹治の、叫びにも似た自白が響き渡る。
咄嗟に武安が二人の口を止めようとするが、時すでに遅し。
供述はしっかりと直景の耳に届いていた。
「ふーん。で? 幻の花は、本当に咲いてるの?」
直景が、腰を折って武安に顔を近づける。
顔面蒼白になりながら、武安は乾いた空気を飲み込んだ。
「っ……! し、知らない! だって、あそこには近づくなって父ちゃんが……! ひいっ!?」
目の前で煌めいた苦無の鈍い光に、三人の思考が停止する。
「そうだよねぇ。知るわけないよねぇ? 子どもだけで渓谷に行っちゃいけない決まりだもんね?」
直景の声色が、一段と低く鼓膜に響いた。
「危険だとわかってるのに、雪乃を行かせたの? 花が咲いているかも知らないのに? たったひとりで?」
放たれる殺気に、武安はこくこくと首だけを上下させた。声を発する余裕などない。
次の瞬間、自分の意思とは無関係に体がうしろに傾いていった。
清流が立て続けに三度、大きな水しぶきを上げる。
「次、雪乃をいじめたら……わかってるよね?」
頭上から影を落とす直景の視線が、全身に被った水よりも冷たい気がした。
「わかったらさっさと帰りなよ。大人たちには黙っといてあげるからさ」
直景に蹴り落とされたのだと理解したときには、彼はそう言い残して姿を消していた。
放り投げられた巾着袋が、重力に従って武安の頭上にポトリと落ちた。

