◇◇◇
人々がすっかりと眠りにつく夜分。
満月の下で目を覚ました喧騒は、町の一角を華やかに照らし出していた。
いくつも並ぶ赤提灯にいざなわれ、往来を行くのは男たちの姿ばかり。
外界とを隔てる高い壁に囲われた花街は、今が盛りとばかりに飲めや歌えやとひとときの夢に彩りを添えていた。
艶やかな喧騒の中を、則影はひとりのんびりと歩を進める。
装いはいつもの忍装束ではない。
腰に大小を差し袴姿の彼は、ひしめきあう見世のひとつを前に足を止めた。
「野風はいるかい?」
張り見世には目もくれずに暖簾をくぐった則影は、帳場を前に開口一番にそう言った。
待ってましたとばかりに二階の座敷へと促され、彼は慣れた足取りで目的の部屋へと向かう。
「邪魔するよ、野風」
手をかけた襖を静かにひらけば、部屋にはうしろ姿のひとりの遊女。
艶やかな黒髪は高く結い上げられ、飾られた簪とべっ甲の笄が華を添えていた。
抜かれた後ろ襟から白いうなじが甘い色香を放つ。
則影の声にゆっくりと腰から振り返った女は、彼の顔を見るなりとたんに表情をほころばせた。
「則之様!」
彼女が口にしたのは則影の名ではない。
だが彼はそんなことなど気にも留めずに、後ろ手に閉めた襖を背に野風のそばへと膝をついた。
「野々っ……!」
すばやく野風――野々の肩を抱き寄せて、則影は彼女の体を抱きすくめる。
「満月が待ち遠しかったって言ったら、あきれる?」
「まさか。あたしも焦がれていたもの……」
則影が訪れたのは、野々が諜報活動のために遊女として潜入している見世。
彼女が集めた情報をまとめて持ち帰るのが、則影に与えられた任務のひとつである。
二人が落ち合うのは満月の晩と決まっており、その間の接触は断固禁止。それはひとえに、野々が楓谷のくのいちであることが露見せぬようにするためである。
それゆえに、あえて則影は一介の侍『則之』として、遊女『野風』のもとへ通っていた。
「則、逢いたかった……!」
「僕も…………ねぇ野々?」
やんわりと身を離した則影が、野々の目尻に小さく唇を落とす。
「だめ……?」
こつん、とひたいを合わせた則影の瞳は、すでにわずかな熱をはらんでいる。
二人にとっては満月の一夜に限られた儚い逢瀬。
あり余るほどの想いをかかえたまま過ごす日々のなんと長いことか。
「だめじゃないわ……」
則影の頭を抱き寄せて、野々はふれるだけの口づけで応えた。
肩口に顔をうずめて首すじをなぞる彼のぬくもりに心が満たされる。
二人が吐き出した濡れた吐息は、熱を帯びて虚空へと溶けていった。
◇◇◇
「やっぱり茂七にゃ、まだ早かったんじゃねぇか?」
「そ、そんなことは……!」
男たちの欲望が渦巻く夜の町。
往来の人混みに半分流されつつも、茂七は先輩たちのうしろでおどおどとしながら周囲を見回した。
いくつも列をなす真っ赤な提灯の明かり。
鼻息荒く品定めをする男たち。
四方八方から聞こえる浮かれた喧騒に、茂七の心も自然と浮き足立つ。
「俺たちゃ贔屓の女がいるからよ。おめぇも早いとこ、いい女見繕えよ」
「え、え……?」
「帰りは一人で帰れるよな」
「じゃあな。楽しんでこいよー」
そそくさとそれぞれが目的の見世へと足を伸ばしていく先輩たちの姿が、あっという間に人混みにまぎれていく。
ひとりその場に残された茂七は、どうしていいかわからずに張り見世の前でうろたえていた。
なにせ彼は女を買うのは今日が初めてなのである。
道中あらかじめ勝手は教えてもらったが、いざとなると緊張のほうが勝ってしまい、茂七はきょろきょろと視線を泳がせることしかできなかった。
「そこのお兄さん?」
「っ……!」
唐突にかけられた女の声に、茂七の肩が大げさに跳ねる。
吐息だけで短く笑った声に振り返れば、張り見世の格子越しにひとりの遊女が小首をかしげて彼のことを見つめていた。
惜しげもなくさらけ出された肩口の、なんと艶めかしいことか。
ふんわりと鼻腔をくすぐる甘い香り。
口角の端にある小さなほくろのなんとも言えぬ色香。
真っ赤な唇が弧をえがくのを、茂七はまばたきもせずに見つめていた。
「こういうところは、初めて?」
「は、はい!」
とたんに背中を硬直させて返事をする茂七に、女は腰をくねらせながら格子のすきまから腕を伸ばした。
しなやかな指先が、茂七の鎖骨のあたりをつー……っとなぞる。
「うふふっ、かわいい人。お姉さんが、いろいろと教えてあげる」
女に促されるままに、茂七は吸い込まれるように見世の暖簾をくぐった。
人々がすっかりと眠りにつく夜分。
満月の下で目を覚ました喧騒は、町の一角を華やかに照らし出していた。
いくつも並ぶ赤提灯にいざなわれ、往来を行くのは男たちの姿ばかり。
外界とを隔てる高い壁に囲われた花街は、今が盛りとばかりに飲めや歌えやとひとときの夢に彩りを添えていた。
艶やかな喧騒の中を、則影はひとりのんびりと歩を進める。
装いはいつもの忍装束ではない。
腰に大小を差し袴姿の彼は、ひしめきあう見世のひとつを前に足を止めた。
「野風はいるかい?」
張り見世には目もくれずに暖簾をくぐった則影は、帳場を前に開口一番にそう言った。
待ってましたとばかりに二階の座敷へと促され、彼は慣れた足取りで目的の部屋へと向かう。
「邪魔するよ、野風」
手をかけた襖を静かにひらけば、部屋にはうしろ姿のひとりの遊女。
艶やかな黒髪は高く結い上げられ、飾られた簪とべっ甲の笄が華を添えていた。
抜かれた後ろ襟から白いうなじが甘い色香を放つ。
則影の声にゆっくりと腰から振り返った女は、彼の顔を見るなりとたんに表情をほころばせた。
「則之様!」
彼女が口にしたのは則影の名ではない。
だが彼はそんなことなど気にも留めずに、後ろ手に閉めた襖を背に野風のそばへと膝をついた。
「野々っ……!」
すばやく野風――野々の肩を抱き寄せて、則影は彼女の体を抱きすくめる。
「満月が待ち遠しかったって言ったら、あきれる?」
「まさか。あたしも焦がれていたもの……」
則影が訪れたのは、野々が諜報活動のために遊女として潜入している見世。
彼女が集めた情報をまとめて持ち帰るのが、則影に与えられた任務のひとつである。
二人が落ち合うのは満月の晩と決まっており、その間の接触は断固禁止。それはひとえに、野々が楓谷のくのいちであることが露見せぬようにするためである。
それゆえに、あえて則影は一介の侍『則之』として、遊女『野風』のもとへ通っていた。
「則、逢いたかった……!」
「僕も…………ねぇ野々?」
やんわりと身を離した則影が、野々の目尻に小さく唇を落とす。
「だめ……?」
こつん、とひたいを合わせた則影の瞳は、すでにわずかな熱をはらんでいる。
二人にとっては満月の一夜に限られた儚い逢瀬。
あり余るほどの想いをかかえたまま過ごす日々のなんと長いことか。
「だめじゃないわ……」
則影の頭を抱き寄せて、野々はふれるだけの口づけで応えた。
肩口に顔をうずめて首すじをなぞる彼のぬくもりに心が満たされる。
二人が吐き出した濡れた吐息は、熱を帯びて虚空へと溶けていった。
◇◇◇
「やっぱり茂七にゃ、まだ早かったんじゃねぇか?」
「そ、そんなことは……!」
男たちの欲望が渦巻く夜の町。
往来の人混みに半分流されつつも、茂七は先輩たちのうしろでおどおどとしながら周囲を見回した。
いくつも列をなす真っ赤な提灯の明かり。
鼻息荒く品定めをする男たち。
四方八方から聞こえる浮かれた喧騒に、茂七の心も自然と浮き足立つ。
「俺たちゃ贔屓の女がいるからよ。おめぇも早いとこ、いい女見繕えよ」
「え、え……?」
「帰りは一人で帰れるよな」
「じゃあな。楽しんでこいよー」
そそくさとそれぞれが目的の見世へと足を伸ばしていく先輩たちの姿が、あっという間に人混みにまぎれていく。
ひとりその場に残された茂七は、どうしていいかわからずに張り見世の前でうろたえていた。
なにせ彼は女を買うのは今日が初めてなのである。
道中あらかじめ勝手は教えてもらったが、いざとなると緊張のほうが勝ってしまい、茂七はきょろきょろと視線を泳がせることしかできなかった。
「そこのお兄さん?」
「っ……!」
唐突にかけられた女の声に、茂七の肩が大げさに跳ねる。
吐息だけで短く笑った声に振り返れば、張り見世の格子越しにひとりの遊女が小首をかしげて彼のことを見つめていた。
惜しげもなくさらけ出された肩口の、なんと艶めかしいことか。
ふんわりと鼻腔をくすぐる甘い香り。
口角の端にある小さなほくろのなんとも言えぬ色香。
真っ赤な唇が弧をえがくのを、茂七はまばたきもせずに見つめていた。
「こういうところは、初めて?」
「は、はい!」
とたんに背中を硬直させて返事をする茂七に、女は腰をくねらせながら格子のすきまから腕を伸ばした。
しなやかな指先が、茂七の鎖骨のあたりをつー……っとなぞる。
「うふふっ、かわいい人。お姉さんが、いろいろと教えてあげる」
女に促されるままに、茂七は吸い込まれるように見世の暖簾をくぐった。

