あかねいろ 忍び恋物語

◇◇◇


 とうの前に大木へと到着した雪乃たちを遠目に見ながら、則影は膝に手をつき息を切らした。
 なだらかな斜面の先にある目的の大木までは、まだわずかばかり距離がある。
 気持ちはすぐにでも三人に追いつきたい思いでいっぱいなのだが、どうやら体のほうが先に音を上げてしまったらしい。
 カサカサカサ……と音を立てて揺れる木々の葉擦れが、則影を急かすように周囲からこだましていた。

「っはぁー…………やっぱり、にいさまにはかなわないや……」

 頭に浮かぶのはいつだって、兄――直景のうしろ姿ばかり。
 足の速さも体の大きさも、腕の力だって、先を行く兄たちに比べれば遠くおよばない。木登りだって、誰かに手を引っ張ってもらわなくてはならないのが現実だった。

 則影は幼いながらに感じた不甲斐なさとくやしさを、再度ため息にして吐き出した。

(こんなことじゃ、またババさまにしかられる……)

 前かがみのまま湿った地面を見つめて、則影はきゅっと唇を噛んだ。

 たった二年。
 されど二年。

 どんなに追いつきたくとも縮めようがない年齢差が、則影にとっては大きな差となって立ちはだかる。

「則? 疲れちゃった? 大丈夫?」

 眉間にしわを寄せ足を止めた則影の鼓膜を揺らしたのは、鈴を転がしたような軽やかな響きだった。
 その声に顔を上げた彼の数歩先で、野々が長い黒髪を風になびかせて小首を傾けている。

「ののちゃん……」
「あともうちょっとだよ。がんばろ?」
「ののちゃん、さきに行っていいよ? ぼく、おそいから」

 則影が困ったように眉を下げて言えば、野々は小さく首を左右に振った。
 そうして手のひらを上に向けて則影へと差しのべると、彼女はふんわりと表情をやわらげた。

「あたしが則と一緒に行きたいの。ね?」
「ののちゃん……」

 野々は雪乃と直景よりもひとつ上。則影とは三つも離れていれば、姉のような立ち位置になるのも自然の流れである。
 直景たち三人が競うほどに、必然的に置いていかれてしまう則影に野々が付き添うのが馴染みの光景となっていた。

「則、一緒にがんばろ」

 目を細めて自分を見遣(みや)る野々の笑顔に、則影は沈みかけていた気持ちが軽くなったような気がした。
 いつだって自分に向かってまっすぐに差し出される野々の手を、則影は小さな手に力を込めてしっかりと握る。

「ありがとう、ののちゃん」
「うん!」

 握り返された手のぬくもりに、自然と二人の頬がほころぶ。

 いくら兄たちに置いていかれようとも、必ず野々が待ってくれているという安心感。
 それが、則影の劣等感を少しだけ軽くしてくれる。

「野々ー! 則影ー!」

 雪乃の声が山あいに響く。

「早くー! おやつにしよー!」

 大木の下で待つ三人が、野々と則影に向かって大きく手を振っていた。
 二人は互いに顔を見合わせて、手をつないだまま笑顔で待つ彼らのもとに駆けていく。
 あんなに重たかった足の運びが、嘘のように軽くなった気がした。



「わあっ! いっぱい実ってる!」
「ちょうど食べ頃だな。上のほうがよく熟れてるぞ」

 見上げた大木に実る果実を見るや、とたんに口内に唾液があふれて腹がすいてくるのだから、本能とは正直なものである。
 小さく鳴った腹の虫が誰のものかなど追求するまでもなく、五人はそれぞれ赤紫色の実に手を伸ばした。

「ぐぬぬ……!」

 だが勇んで手を伸ばしたものの、雪乃の口から漏れたのはくやしさに満ちたうめき声である。
 懸命に腕を伸ばせども、指先は一向に目当てのものに届かない。
 つま先立ちをしたふくらはぎが、そろそろ限界を迎えようとしていた。

「なんっで、上にばっかり……!」

 スルスルスル……と大木の枝に絡みつく蔓は、太陽の光を求めて上へ上へと伸びている。
 手の届く距離にあるのは茶色の蔓ばかりで葉もほとんどないとくれば、それすらも嫌味ったらしく思えてくるのだから不思議なものである。

「ゆきちゃんちっちゃいからね~。取ってあげようか?」
「チビじゃないもん! 自分で取れるもん!」
「そ? じゃあがんばってね~」

 悠々と枝に跳び乗った直景が、そう言うなりいともたやすく果実を手にする。
 彼がよく熟れた赤紫色の実にかじりついた瞬間、甘いにおいがふんわりと鼻腔をくすぐった。

「ぐぬぅ……!」

 素直に取ってほしいと言えれば簡単なのだが、それができないのが雪乃である。特に相手が直景となればなおのこと。
 雪乃は唇をとがらせて頬をふくらませながらも、意地になってその場でぴょんぴょんと飛び跳ねた。
 だが指先にわずかにかすめるのは大木の硬い樹皮だけ。
 直景のように枝を掴んで、くるりと体を持ち上げて跳び乗ることはできそうにない。

「むぅー、もう少し背が伸びたらわたしだって!」
「うんうん、くやしいね〜。ゆきちゃんちっちゃいんだから諦めなって~」
「チビじゃない!」
「こら直景。あんまり雪乃をいじめてやるな。ほら雪乃」

 軽々と枝から枝に跳び移った弥助が、地面に着地すると同時に雪乃に向かって果実を放り投げた。

「種はちゃんと出すんだよ?」
「わあ! 弥助、ありがとう!」

 弧をえがくそれを両手ですくうように受け止めて、雪乃は満面の笑みで果実にかじりついた。
 素朴ながらもほんのりとした甘さが、口の中いっぱいに広がる。

「弥助ってば、ゆきちゃんにはずいぶん甘いじゃない」

 枝の上から雪乃と弥助のやりとりを眺め、直景はつまらなそうに視線を細めて唇をとがらせた。

「そんなことはない。野々と則影のぶんも、ほら」

 小さくあごをしゃくる弥助の視線を追えば、野々と則影が仲よく木の根に腰かけて、ひとつの果実を分け合っている。

「お望みなら、お前のぶんも取ってやろうか?」
「やめてよ、気色悪い」

 弥助が真顔でそんなことを言うものだから、直景はお断りだとばかりに舌を出す。大げさに身震いして、これ見よがしに両腕を大きくこすってみせた。

「はははっ。さあ、陽が落ちる前に帰ろうか」

 西の空を遠くに見ながら、弥助が笑ってそう言った。