あかねいろ 忍び恋物語

◇◇◇


 里のはずれ。山あいの小川のそばに腰を下ろして、雪乃はゆっくりと息を吐き出した。
 それに呼応するかのように、周囲の木々が風に揺れてさざめきあう。
 清流を生み出している小さな滝が虹をえがいて、涼やかな音色を奏でていた。

(わたしが口を出していいことじゃない。それは、わかってるけど……でも、なんか……)

 釈然としない感情をいだきつつ、雪乃は浮かない表情で唇を噛んだ。

 考えごとをしたいとき、ひとりになりたいとき、雪乃は決まってこの水辺に足を運ぶ。
 この場所が雪乃のお気に入りの場所だと知っているのは、ただ一人だけ。

 水のせせらぎに合わせて、小さな蝶々が風に乗って踊っていた。

「…………」
「ゆーきちゃん♪」

 誰にも邪魔をされたくないからこの場所にいる。
 だけども心のどこかでは、彼にだけは見つけてほしいと願っている。

 矛盾する感情に揺れる気持ちを押し隠して、雪乃はわずかに首だけで振り返るそぶりを見せた。
 だが声の主を視界に捉えるよりも先に、背後からぬくもりに抱きすくめられる。

「ゆきちゃん、朝から元気ないじゃない。悩みごとなら、俺が聞いてあげるよ~?」

 軽い口調で横顔を覗き込む直景に対して、雪乃は表情を変えずに唇を引き結んだ。

 言葉にするべきか、否か。

 己の立場を考えれば、口を出していい事案ではないのはあきらかで。
 それでもこのもやもやとしたわだかまりを吐き出さなければ、心が疲弊してしまいそうだった。

「ゆーきちゃん?」

 わずかに抑揚を落とした声色とは裏腹に、直景の腕に力がこもる。

「俺には、言えない?」

 沈黙が流れた。
 ふれあった背中越しのぬくもりが、有無を言わせぬ雰囲気をまとう。

「……雪乃?」

 徐々に強くなる拘束に、雪乃は観念したかのように小さく息を吐き出した。
 やはり直景には隠しごとができそうにない。
 雪乃は清らかに流れる水面を見つめたまま、つぶやくようにかすかに唇をひらいた。

「……明日、見合い、するんだってね」
「ありゃ、情報が早いねぇ」

 驚いてみせると同時に、直景は腕の力をゆるめて小さく肩をすくめてみせた。
 そのいかにもわざとらしい物言いに一瞬だけ腹が立って、雪乃は当てつけのように弾みをつけて彼に寄りかかる。

「昨日の夜、ババ様がうちに来たの。わたしも知っておくべきだからって」
「ふ~ん……ほかには?」
「なにも。直が見合いすることになったって。それだけ」

 相手が誰だとか、どこの出身だとか、そもそもくのいちなのか一般人なのか。
 ババ様は知りたい情報をなにひとつ教えてはくれなかった。

 だが雪乃は詮索する立場にない。
 彼女はあくまでも、直景の幼なじみの一人にすぎないのだ。
 ほとんど無意識のまま「わかりました」と返事をして、気づけば早朝からこの場所で物思いにふけっていた次第である。
 昨夜をどう過ごし、いつ眠ったのかも定かではない。

「……さみしい?」
「……べつに」

 言葉ではそう言いつつも、心は「嫌だ」と叫んでいた。
 だが楓谷のくのいちとして、里の決めたことには従う義務がある。
 里のためを思うならば、個人的感情など気がつかなかったふりをして切り捨てるしかない。

「ゆきちゃんが反対するなら、俺、行かないよ?」
「……そ、んなこと……」

 言えるわけがない。

 それきり雪乃は、ぼんやりと川面を見つめたまま黙り込んでしまった。
 水のせせらぎが鼓膜を揺らし、ひんやりとした空気が風に乗って肌をかすめる。
 ふれあった互いの熱が、ひりひりと心を焦がしていく。

「……ねぇゆきちゃん」
「……なに?」

 沈黙を破った直景に、雪乃も短く返す。
 直景の腕に捕らわれたまま、ゆるんでいたはずの拘束が雪乃の体を引き寄せるように強まる。
 肩口に顔をうずめた直景の吐息が、絡みつくように首すじをかすめた。

「俺より先に死んだら、オシオキね?」
「はあ? なにそれ?」
「ハイ、約束~」

 目の前を横切る直景の小指が、ぴんと天に向かって伸ばされていた。
 それを雪乃が泣きそうなまなざしで見つめていることなど、直景は知る(よし)もなく。

「……じゃあ、わたしにも約束して。先に、死なないって……」
「ん、いいよ」

 たかが口約束。されど。

 忍を生業(なりわい)としている以上、いつ死ぬかなんてわからない。
 常に死と隣り合わせの前線での任務に駆り出されることもある二人ならなおのこと。

「約束ね、ゆきちゃん」

 遠慮がちに重ねられた雪乃の小指を、直景はいともたやすく絡め取る。
 軽い口調とは裏腹に、絡み合った指の力は強い。
 小指を絡めたまま雪乃の右手を握り込んで、直景は彼女の小柄な体を抱きすくめた。そうしてそっと、花の香をまとう黒髪へと唇を寄せる。

「ゆきちゃんは、なにも心配しなくていいんだよ」

 吐息だけでつぶやかれたひと言は、鼓膜に届く前にやわらかい風にさらわれていった。