話の出鼻をくじかれ鍋に気を取られたせいですっかり忘れていたが、今夜は吐き出したい愚痴が山のようにあるのだ。
おもにあの不愉快な依頼人について。
「あのね! 依頼人がそりゃもうほんっとに気持ち悪くてね!」
前振りもなくそうのたまう雪乃の隣から、直景が「昨日の朝から単独で護衛」と口を添える。
その言葉に野々と則影は、雪乃の話に「うんうん」と相づちを打ちながら納得の表情を見せた。
「くのいちってだけで、なにか勘違いしてる人って多いものね」
「くのいち指名って時点でおかしな話じゃないですか」
「それは俺も思ったんだよね~。だから親父には言っといた~」
「頭領にそれ言えるのは直だけだって」
なんでもないことのように軽く言ってのける直景に、三人はそろって苦笑する。
里の代表者たる頭領にもの申せる忍など、そういるものではない。
息子である則影ですら、頭領に意見することは憚られるくらいなのだ。
だがそれを簡単にやってしまえるのが直景なのである。
「それで、誰の護衛に行ったんですか?」
話の続きを促すように則影がたずねた。
依頼人の愚痴となれば、それがどこの誰なのか知りたくなるのは自然の摂理だろう。
すると、雪乃はこれでもかと眉間にしわを寄せて表情をゆがめた。
「……苧環城の実継」
名を口にするのも不快だとばかりに吐き捨てる。
すると、野々が「あ~……」と間延びした声を漏らした。
「あのでぶっちょの肉だるまね。そいつ花街じゃ有名よ? うちの見世にもよく来るし」
「見世に、って……野々の客なの!?」
おもわず腰を浮かして身を乗り出す雪乃に、野々は苦笑いを浮かべて手のひらをひらひらと振る。
「違うわよ。姐さん方がよく愚痴ってるの。あたしの客じゃないわ」
そう言って野々はぬるくなった湯呑みに小さく口をつけた。
「色専任のくのいちの間でも、厄介者だってもっぱらのうわさ。わりに合わないんですって」
諜報活動のため、花街に潜入しているくのいちは少なくない。
彼女たちにとって重要なのは、客となる男が有益な情報を持っているかどうかである。
「忍の世界は情報がすべて。ときに里の収入源となり、ときに仲間の命を左右することもある。労働のわりに対価がないんじゃ、やってらんないもの」
「肉だるま大した情報持ってなさそうだもんね~。バカそうだし」
「そういうこと。情報を持ってない男に価値はないわ」
「だってさ。よかったねぇ、則」
「なんで僕に振るんですか」
「さあ?」
割りきったように肩をすくめる野々の隣で、則影はなんとも言えないあいまいな笑みを浮かべていた。
「それにしても雪乃、単独で城まで行って、よく戻ってこれたわね。一度気に入られたらしばらく離してもらえないってうわさよ?」
それゆえに、花街での実継の評判はよろしくない。
とはいえ彼が太客であることに変わりはなく、莫大な見返りがある以上見世も見て見ぬふりを貫いているらしい。
「側仕えの翁が帰らせてくれたの。あの様子は絶対に慣れてる」
「さすがに産まれる前から世話になってる翁には逆らえないのかしらね」
あの翁がいなかったら、雪乃も城内へと連れ込まれ里に帰れていなかっただろう。
野々の話を聞くかぎり、一夜で済んでいたかどうかも怪しいところである。
そう考えると身の毛もよだつ思いがする。
「バカのお守りも楽じゃないよね~」
「兄さん、仮にも依頼人ですから」
軽口を叩く兄に向かって、則影は立てた人差し指を自分の唇に当てて「しーっ」と声をひそめた。
どうせ店内には里の人間しかいないのだから、聞かれたところで支障はないのだが外聞というものもある。
「ところでさ、野々はいつまで里にいられるの?」
「あたし? そうねー、こっちにいる間は代わりの子が見世に詰めてくれてるけど……」
野々は空中を見上げて、わずかに考えるそぶりを見せた。
「みんな自分の任務があるからね。あさってには戻らなくちゃ」
「そっかー。けど今回はとんぼ返りじゃなくてよかった」
「しばらく帰ってこれなかったから、たまにはね」
野々の返答に、則影もわずかに顔をほころばせる。
一瞬だけ視線を交わらせて笑みをこぼす野々と則影を、直景は食台に肘をついてにこにこと眺めていた。
「則、うれしそうだね~」
「なっ、そんなんじゃないですよ! 僕はただ、野々ちゃんがゆっくりできるなと思って」
「じゃあそういうことにしといてあげようかな〜」
思わせぶりな笑顔のまま、直景が小さく肩をすくめた。
生暖かい兄のまなざしに耐えきれず、則影は耳の先を赤くしながら直景に小さく悪態をついた。
なにか言いたげに目を弓なりにする直景の視線を、手のひらをかざして遮る。
「もう、なんなんですか」
「べっつに~?」
「言いたいことがあるならはっきりと、あ、やっぱり言わないでください」
「というか、雪乃はさっきから口とがらせてどうしたのよ?」
食台越しに戯れる兄弟を横目に、野々は目の前の雪乃を見遣る。
神妙な面持ちで茶碗を見つめる雪乃が、表情を崩さぬまま静かに顔を上げた。
眉間にしわを寄せ、唇をとがらせたまままっすぐに野々を見つめる。
何事かと小首をかしげた野々に対して、雪乃は間を置いて重たい口をひらいた。
「………なんでわたしには、花売りの任務が来ないの?」
「「「はい?」」」
おもにあの不愉快な依頼人について。
「あのね! 依頼人がそりゃもうほんっとに気持ち悪くてね!」
前振りもなくそうのたまう雪乃の隣から、直景が「昨日の朝から単独で護衛」と口を添える。
その言葉に野々と則影は、雪乃の話に「うんうん」と相づちを打ちながら納得の表情を見せた。
「くのいちってだけで、なにか勘違いしてる人って多いものね」
「くのいち指名って時点でおかしな話じゃないですか」
「それは俺も思ったんだよね~。だから親父には言っといた~」
「頭領にそれ言えるのは直だけだって」
なんでもないことのように軽く言ってのける直景に、三人はそろって苦笑する。
里の代表者たる頭領にもの申せる忍など、そういるものではない。
息子である則影ですら、頭領に意見することは憚られるくらいなのだ。
だがそれを簡単にやってしまえるのが直景なのである。
「それで、誰の護衛に行ったんですか?」
話の続きを促すように則影がたずねた。
依頼人の愚痴となれば、それがどこの誰なのか知りたくなるのは自然の摂理だろう。
すると、雪乃はこれでもかと眉間にしわを寄せて表情をゆがめた。
「……苧環城の実継」
名を口にするのも不快だとばかりに吐き捨てる。
すると、野々が「あ~……」と間延びした声を漏らした。
「あのでぶっちょの肉だるまね。そいつ花街じゃ有名よ? うちの見世にもよく来るし」
「見世に、って……野々の客なの!?」
おもわず腰を浮かして身を乗り出す雪乃に、野々は苦笑いを浮かべて手のひらをひらひらと振る。
「違うわよ。姐さん方がよく愚痴ってるの。あたしの客じゃないわ」
そう言って野々はぬるくなった湯呑みに小さく口をつけた。
「色専任のくのいちの間でも、厄介者だってもっぱらのうわさ。わりに合わないんですって」
諜報活動のため、花街に潜入しているくのいちは少なくない。
彼女たちにとって重要なのは、客となる男が有益な情報を持っているかどうかである。
「忍の世界は情報がすべて。ときに里の収入源となり、ときに仲間の命を左右することもある。労働のわりに対価がないんじゃ、やってらんないもの」
「肉だるま大した情報持ってなさそうだもんね~。バカそうだし」
「そういうこと。情報を持ってない男に価値はないわ」
「だってさ。よかったねぇ、則」
「なんで僕に振るんですか」
「さあ?」
割りきったように肩をすくめる野々の隣で、則影はなんとも言えないあいまいな笑みを浮かべていた。
「それにしても雪乃、単独で城まで行って、よく戻ってこれたわね。一度気に入られたらしばらく離してもらえないってうわさよ?」
それゆえに、花街での実継の評判はよろしくない。
とはいえ彼が太客であることに変わりはなく、莫大な見返りがある以上見世も見て見ぬふりを貫いているらしい。
「側仕えの翁が帰らせてくれたの。あの様子は絶対に慣れてる」
「さすがに産まれる前から世話になってる翁には逆らえないのかしらね」
あの翁がいなかったら、雪乃も城内へと連れ込まれ里に帰れていなかっただろう。
野々の話を聞くかぎり、一夜で済んでいたかどうかも怪しいところである。
そう考えると身の毛もよだつ思いがする。
「バカのお守りも楽じゃないよね~」
「兄さん、仮にも依頼人ですから」
軽口を叩く兄に向かって、則影は立てた人差し指を自分の唇に当てて「しーっ」と声をひそめた。
どうせ店内には里の人間しかいないのだから、聞かれたところで支障はないのだが外聞というものもある。
「ところでさ、野々はいつまで里にいられるの?」
「あたし? そうねー、こっちにいる間は代わりの子が見世に詰めてくれてるけど……」
野々は空中を見上げて、わずかに考えるそぶりを見せた。
「みんな自分の任務があるからね。あさってには戻らなくちゃ」
「そっかー。けど今回はとんぼ返りじゃなくてよかった」
「しばらく帰ってこれなかったから、たまにはね」
野々の返答に、則影もわずかに顔をほころばせる。
一瞬だけ視線を交わらせて笑みをこぼす野々と則影を、直景は食台に肘をついてにこにこと眺めていた。
「則、うれしそうだね~」
「なっ、そんなんじゃないですよ! 僕はただ、野々ちゃんがゆっくりできるなと思って」
「じゃあそういうことにしといてあげようかな〜」
思わせぶりな笑顔のまま、直景が小さく肩をすくめた。
生暖かい兄のまなざしに耐えきれず、則影は耳の先を赤くしながら直景に小さく悪態をついた。
なにか言いたげに目を弓なりにする直景の視線を、手のひらをかざして遮る。
「もう、なんなんですか」
「べっつに~?」
「言いたいことがあるならはっきりと、あ、やっぱり言わないでください」
「というか、雪乃はさっきから口とがらせてどうしたのよ?」
食台越しに戯れる兄弟を横目に、野々は目の前の雪乃を見遣る。
神妙な面持ちで茶碗を見つめる雪乃が、表情を崩さぬまま静かに顔を上げた。
眉間にしわを寄せ、唇をとがらせたまままっすぐに野々を見つめる。
何事かと小首をかしげた野々に対して、雪乃は間を置いて重たい口をひらいた。
「………なんでわたしには、花売りの任務が来ないの?」
「「「はい?」」」

