あかねいろ 忍び恋物語

 あとをついてくる直景に、雪乃は再度「行かない」と返す。何度誘われても、到底出かけられる気分ではない。
 雪乃は玄関の式台に腰を下ろして、そそくさと草鞋(わらじ)の紐を結んだ。

「……直、重い。離れてよ」

 ずっしりと背中にのし掛かる重みに、雪乃は手を止めて淡々と告げた。
 背後にしゃがみこんだらしい直景が、雪乃の頭の頂点にあごを乗せて背中に寄りかかってくる。
 前のめりになる体に体重をかけられて、雪乃は迷惑そうにわずかに上体を起こした。

 しかし直景は、雪乃の願いを聞き入れる気はないらしい。
 さらに体を預けてきた直景に、雪乃は早くどいてくれと言わんばかりに前方にだらりと突き出された彼の手をぺしぺしと叩いた。

「そっか~、残念だなぁ。せっかく野々ちゃんが帰ってきてるのに」
「えっ!?」

 彼の言葉に、雪乃は直景が背中にもたれているにもかかわらず勢いよく立ち上がった。
 反動で下あごをぶつけたらしい直景が「ぁいたっ」と発するのも気に留めず、雪乃は玄関の引き戸に手をかける。

「それを先に言いなさいよ! ばか!」

 野々が帰ってきているなら話は別。任務柄めったに里に帰ってこないひとつ歳上の親友の帰還とあらば、行かないわけにはいかないではないか。
 はやる気持ちで引き戸を開ける雪乃に、直景は眉を下げて小さく息をこぼした。

「ありゃ、元気になったみたいだね~」
「直! なにしてるの! 早く行くよ!」
「はいは〜い、っと」

 先ほどまでの不機嫌が嘘のように破顔する雪乃に急かされるがまま、直景も草履を引っかけて彼女のあとを追った。



 こじんまりとした飯屋の軒先で、小さな赤提灯が風に揺れている。
 暖簾をくぐって建てつけの悪い引き戸を開ければ、店内には胃袋を刺激する香ばしいにおいが広がっていた。

「野々も則影も、もう来てるんだよね?」
「たぶんね〜」

 だがぐるりと店内を見渡してみても、先に来ているはずの野々と則影の姿はどこにも見当たらない。いるのは大将や女将と談笑している数名の常連客だけである。
 雪乃は訝しむように、うしろにいる直景を振り返った。

「ねぇ直、ほんとに野々帰ってきてる?」
「あれ~? もしかして俺を疑ってる?」

 よろこび勇んで店に来たというのに、肝心の野々がいなくては話にならないではないか。

 わずかに唇をとがらせる雪乃に、直景は腰を曲げてずいっと顔を近づけた。
 鼻先がふれそうな距離に、雪乃はおもわず呼吸を止める。

「俺がゆきちゃんに、嘘ついたことないでしょ~?」
「そっ、だけど……」
「雪乃ー、こっちこっちー」

 店の奥から聞こえた声に、雪乃は反射的に体ごと振り向いた。
 ふたつしかない半個室の食台席。藍色の暖簾を片手で上げる則影の手前から、野々がひょっこりと顔を覗かせて手を振っていた。

「野々!」

 長く艶やかな黒髪を背中に流して小首を傾ける親友の姿を見るや否や、雪乃は一足飛びに野々に駆け寄って勢いのままに彼女に抱きついた。
 わずかによろけた野々の背を、則影が笑みを浮かべたままさりげなく支える。

「野々! おかえりなさい! いつぶりだろ!? 半年!? 半年ぶりかな!? 元気だった!? 町はどう!? こっちはね! もうね! いろいろあってね!」
「ふふふっ、雪乃、落ち着いて?」

 抱きついたまま小さくその場で跳ね、ひと息でまくし立てる雪乃に、野々は鈴の音を鳴らしたような声を奏でて笑った。
 互いの変わらぬ雰囲気や仕草(しぐさ)に、なつかしさと同時に安心感を覚える。

「だってうれしくって!」
「ふふっ、ただいま、雪乃」

 最前線に身を置く雪乃からの抱擁は力強い。それでも野々は苦しそうなそぶりなど一切見せずに、彼女の背に腕をまわして抱きしめ返した。
 久方ぶりの友との再会をよろこんでいるのは、なにも雪乃だけではないのだ。

「ゆきちゃんてば、さっきまであーんなにふてくされてたのにねぇ~」
「直! うるさいよ!」

 野々に抱きついたまま首だけで直景を見遣れば、彼は笑みを浮かべたまま小さくため息をついていた。

「ほら、ゆきちゃんはそろそろ野々ちゃんから離れようね~。通路で騒いでたら迷惑でしょ」

 しぶしぶ野々から離れる雪乃を、直景は四人掛けの食台の奥へと促した。反対側には野々と則影が順に腰を落ちつける。

「それで? 雪乃はなんでふてくされてたの?」
「嫌なことでもあったんですか?」

 野々と則影にそろって問われ、雪乃は食台に両手をついてわずかに腰を浮かせた。

「野々! 則影! 聞いてくれる!?」
「はいはい、なぁに?」
「あのね! 依頼人がね!」
「あ、お鍋がきたみたいですよ」

 直景の余計なひと言のおかげで思い出した不愉快なできごとについて訴えようとした矢先。
 雪乃の言葉を遮ったのは、野々と一緒に話を振ってきたはずの則影だった。
 かつての兄のように伸ばした長い襟足を首のうしろでひとつに結った彼は、自分に非はないとばかりに暖簾の向こうを指さしている。

「お待たせしましたねぇ。熱いからね。気をつけるんだよぉ」

 年配の女将が運んできた鉄の鍋が、食台の中央に置かれる。
 木製のふたを取れば、もわっ……と広がった白い湯気が天井へ向かって立ちのぼった。

「わあ! おいしそう!」
「あ、僕ごはん大盛りで」

 たっぷりと入った採れたての旬の山菜と、出汁の豊かな香りが合わさって食欲を促す。
 とたんに空腹を訴える腹の虫に、四人は顔を見合わせてくすくすと笑い合った。

「冷めないうちにいただきましょう」

 こんもりと白い山を作る茶碗を手に取った則影に続いて、雪乃たちも次々に箸を手にする。
 こうしてそろって食台を囲むのも半年ぶりのことである。いつもの食事がいつも以上においしく感じるのは、やはりみんなが一緒だからだろう。

「で? 雪乃、話の続きは?」

 熱々の山菜鍋を咀嚼しながら雪乃が頬をほころばせていれば、野々が催促するように言った。