あかねいろ 忍び恋物語

「実継様、あまり忍殿を困らせてはなりません。お戯れもそこまでに」

 それまで黙っていた翁が、さっと実継の目の前に腕をかざした。
 遮られた視界に不服そうに表情をゆがめる実継だったが、側仕えの翁には逆らえぬものがあるのだろう。

 しぶしぶ拘束を解いた実継が、名残惜しそうに雪乃から離される。

(はぁー、助かった……)

 ようやく解放された体全体で深呼吸をして、雪乃もまた実継から距離を取るように後ずさった。

「殿をお部屋へお連れしなさい。忍殿への約束の品をこれへ」

 翁の指示で実継が城内へ戻されるのを横目に、雪乃は居住まいを正して翁に向きなおる。
 小姓とおぼしき若者が膝をついて差し出した朱塗りの盆の上には、一巻の巻物と漆塗りの小箱が鎮座していた。

「改めさせていただきます」

 翁が短く返事をしてうなずくのを確認すると、雪乃は巻物の紐をほどいた。
 上質な紙に記されたのは、今回の任務完了の証文。
 実継の署名と花押が(つづ)られたそれには、任務内容とともに報酬額も記されていた。
 次いで小箱の中を確認し、雪乃は「たしかに」と短く告げて、持参した風呂敷に巻物と小箱を包む。

「道中ご苦労様でした。感謝いたします」

 深々と頭を下げる翁に会釈を返して、雪乃は風呂敷包みを背負ってそそくさと苧環城をあとにした。
 傾きかけた陽光が、地面に長い影をえがいていた。



 雪乃が楓谷の里に戻るころにはすっかり陽も落ちて、辺りは暗闇に包まれていた。
 脇目もふらずに一直線に高台にある頭領の屋敷へと向かった雪乃は、通い慣れた廊下をずかずかと遠慮なく進んでいく。
 明かりの漏れる襖を勢いよく開け放てば、床の間を背にした景隆が巻物と帳簿の山を前に顔を上げた。

「おお、雪乃。戻ったか」

 雪乃を見遣(みや)るなり、景隆は表情をやわらかくして筆を置いた。

「急な任務ですまなかったな。どうだった? 滞りなく終わったか?」

 景隆の言葉に無言を貫いたまま、雪乃は敷居をまたいで景隆の前に両膝をつく。
 そうして背負った風呂敷包みから取り出した巻物と小箱を、叩きつけるようにして文机に置いた。

「ゆ、雪乃……?」

 不機嫌を絵に描いたようなむくれた表情の雪乃に、景隆もおもわずたじろぐ。
 任務に対して不満を口にするような子ではないのだが、これはあきらかに事情を聞いたほうがよさそうな雰囲気である。

「どうした? なにかあったのか?」
「……別に。なんでもありません」

 そうは言いつつも、目に見えて雪乃の機嫌は芳しくない。
 虫の居所の悪さを無理やり抑えこんだ彼女の眉間のしわは、ますます深くなるばかりである。

「あー……不快な思いをしたなら俺が謝ろう。事と次第によっては正式に上申しても」

 頭を下げようとする景隆を、雪乃は首を左右に振って制した。
 こんな言い方をするからには、おそらく頭領は実継がどういう人間かを知っていたのだろう。雪乃の不機嫌の原因にも見当がついているはずだ。
 とはいえ、彼女が任務中のことについて自分から発言しないかぎりは、あえて景隆から追求する理由はない。

 相手は苧環城城主。かたやこちらは一介の忍にすぎないのだ。
 今後も城からの依頼がないとはかぎらないし、里にとっては友好的にしておきたい取引先のひとつである。
 任務を請け負う雪乃としても、給金が出ている以上あまり強く文句も言えない。

「いえ、大丈夫です。失礼します」
「おう、おつかれさん。気をつけて帰れよ?」

 景隆の声を背に受けながら、雪乃は静かに部屋をあとにする。
 閉めた襖に向かってどっと息を吐き出せば、とたんに怒りが息を吹き返した。

(任務じゃなきゃ、あんな変態の相手してられるかっての!)

 来た道を戻りながら、雪乃は内心で盛大に悪態をついてやった。
 景隆にはぶつけられなかった憤りを、これからどう発散しようか。
 簡単には収まりそうにない不快感が、まだ腰のあたりにまとわりついているような気がしてならない。

「あっれ~? ゆきちゃん?」

 小さく舌を鳴らした瞬間、長い廊下の奥にひょっこりと直景が姿を見せた。
 短くなった襟足の髪と、たった数年でずいぶんと伸びた背丈。もともと整っていた顔立ちは成長するにつれより洗練され、色気と凛々しさを両立させていた。

「おかえり、ゆきちゃん」

 両袖に手を入れ腕を組んだまま、彼はのんびりとした歩調で雪乃に向かって歩み寄る。
 だが雪乃は相手をしている余裕はないとばかりに、無言のまま彼の脇をすり抜けようとした。

「ゆーきちゃん♪」

 軽い口調のまま、直景の左肩が壁にもたれかかる。
 行く手をふさがれた雪乃がわずらわしそうに顔を上げれば、直景は顔に笑みを張りつけたまま彼女を見下ろしていた。
 子どもの頃より遠くなってしまった頭の位置が、どういうわけかもどかしく感じる。

「おかえり」
「…………」
「お・か・え・り」

 目を細める直景は、どうやら雪乃が返事をするまで通す気がないらしい。
 笑顔なのに笑っている気がしないのは、きっと雪乃の勘違いではない。

 小さくため息をついてしぶしぶ「ただいま」とつぶやけば、直景はまとった冷気をあっさりと手放して、小柄な雪乃の頭をわしゃわしゃとなでた。

「うんうん、よくできました~。愚痴ならみんなで聞いてあげるからさ。ごはん食べに行こ?」
「行かない」

 間髪入れずに答えれば、返ってきたのは直景の両手のひらだった。
 体温の低い手で顔の輪郭を包み込まれ、むにむにと頬をもてあそばれる。

「もぉー、そんなにふてくされてたら、かわいい顔が台無しだよ?」
「別にふてくされてないもん」

 唇をとがらせる雪乃は、ばつが悪そうに直景から視線をそらした。
 機嫌が悪いのは承知しているが、それを直景にからかわれるのはおもしろくない。

 ふるふると顔を振って直景の手から(のが)れると、雪乃はすいっと頭をかがめて彼の脇をすり抜けた。

「ゆきちゃん、本当に行かないの~?」