あかねいろ 忍び恋物語

「はぁ、はぁ……!」

 鬱蒼(うっそう)と生い茂る木々の合間を、小さな人影が颯爽と走り抜ける。
 落ち葉に覆われた地面を蹴る草鞋(わらじ)のこすれる音は最小限。それこそ木の葉のさざめきにすらかき消えてしまいそうである。
 むき出しになった太い木の根を軽々と飛び越えれば、蹴り上げられた乾いた落ち葉がはらはらと宙を舞った。

 ここは忍の隠れ里のひとつ――楓谷(かえでだに)の里からほど近い山あいである。
 人の手がほとんど入らず、腐り落ちた倒木もそのままに、幾重にも積み重なった落ち葉の層が山肌を覆いつくしている。
 道、とはとても言いがたい獣道が、どこへ向かっているのか無作為に山の深みへと延びていた。

「はあ、っはあー……」

 雪乃(ゆきの)は肩口で切りそろえられた黒髪を振り乱しながら、一気に斜面を駆け上がる。
 ひらけた山肌の中心にそびえ立つ、ひときわ大きな木の根元で足を止めた。
 ごつごつとした木肌の太い幹に絡みつく蔓が上へ上へと伸び、彩りを添えるように赤紫色の果実を実らせている。

「ふぅー……」

 幹に両手をつき、地面に向かって深く息を吐く。
 何度か大きく肩を上下させると、雪乃は顔を上げてぐるりと周囲を見回した。
 艶やかな黒髪が、陽光に照らされて藍色に(きら)めく。

「…………」

 辺りには誰の姿も見えない。
 聞こえるのは自然の営みと、木々の間を吹き抜ける風の音だけ。
 遠くから聞こえた小鳥の鳴き声が、雪乃にとっては祝福の音色に聞こえてならない。
 勝利を確信した雪乃は、口角をついっと上げた。

「……やっ、たぁー! いっちばーん!」
「と、思うよねぇ~」
「うぇっ!?」

 雪乃が両手を天高く突き上げた瞬間だった。
 唐突に頭上から声が降ってくる。

(この声……まさか……!)

 空を仰いだまま大木のほうへと顔を向ければ、声の主はこれ見よがしに枝の上でかかとに座っていた。

「遅かったね、ゆきちゃん」

 こてんと首を傾けた直景(なおかげ)が、雪乃を見下ろしながらにこにこと笑みを浮かべていた。
 うなじの上で小さくひとつに結われた青みがかった黒髪が、彼の首の動きに合わせて揺れる。

「もおー! また直に負けた! くやしい!」

 いつも負けてばかりの直景にやっと勝てたと思ったのに、とんだぬかよろこびではないか。
 しかもそれを本人にすべて見られていたのかと思うと、歯ぎしりをしたい気持ちも倍増である。
 直景のことだから、どうせわざと太い幹の裏側にひそんでいたに違いない。

 案の定、くやしがる雪乃の様子を眺めながら直景は声を上げて笑っていた。

「そうやってすぐバカにするんだから! 先に着いてたのに隠れてるなんてずるい!」
「俺だけじゃないもんね~」
「はあ!?」
「残念ながら俺もいるよ、雪乃。ちなみに直景は二着だ」
弥助(やすけ)!」

 直景のいる枝よりも上の枝から姿を見せた年上の幼なじみの姿に、雪乃はおもわず声を上げていた。

「直景が『隠れろ』なんて言うもんだから、つい、な。すまない」

 音もなく彼女のそばに降り立った弥助は、雪乃や直景よりもふたつほど年上である。
 仲間内では一番背も高く頼れる兄貴分は、まんまるの瞳を向けて見上げてくる雪乃の頭にふわりと手を伸ばした。

「雪乃、この前より速くなったんじゃないか?」
「えへへー、でしょでしょ? いっぱい走って鍛練したもん!」

 雪乃はおもわず破顔した。
 加えて直景が一着ではなかった事実に、内心静かにほくそ笑む。
 本当は自分が彼を負かして吠え(づら)をかかせてやりたかったのだが、弥助のおかげで先ほどまでのくやしい気持ちが少しは晴れたようだ。
 直景が一着でなかったのなら、それはそれで気分がいい。

「あっれ~? な~んかゆきちゃん、弥助に褒められてうれしそうじゃない?」
「そ、そんなことないもん!」
「そう? ならいいけど~」

 軽々と地面に着地した直景が、おもしろくなさそうに雪乃の顔を覗き込む。
 普段なら大して気にならない頭ひとつぶん違う身長差も、こうされるととたんに嫌みったらしく思えてしまうのだから不思議なものだ。

「いつかぜったい負かしてやるんだから! 覚悟しときなさいよ!」
「うんうん、がんばってね~」

 直景の鼻先に向かってぴしゃりと人差し指を突きつける。
 だが彼は(ひる)むこともなくまるで他人事のように笑うばかりである。

「むっ、かつく! 笑ってられるのも今のうちなんだからね!」

 頬をふくらませてそう言い放つと、雪乃は直景の返答を待たずに大木を背にした。

 振り返った視線の先、三人が駆けてきた斜面の奥に、小さな人影がふたつほど揺れている。
 雪乃は両手のひらで顔の前に弧をえがいて、大きく吸い込んだ息を音にして一気に吐き出した。

野々(のの)ー! 則影(のりかげ)ー!」