匿名希望の恋文

 文化祭から2ヶ月。冷たく吹きすさぶ風に、布に覆われていない顔の皮膚が悲鳴を上げる。すっかり木は葉を落とし、からりと晴れた空には雲ひとつ浮かんでいない。
 全国高等学校弓道選抜大会という大きな垂れ幕に、ピンと張りつめた空気が痛い。
 この大会が、天羽にとって高校最後の全国大会だ。これから、天羽や僕は受験戦争や就職試験に立ち向かっていかなくてはならなくなる。部活はこの冬で引退するのがセオリーだった。
 暗い色ばかりの中で、ひと際目立つ金の髪がふわりと浮いて、天羽が立ちあがった。真剣な蒼い瞳が揺らぐことなく前を見つめて、足袋に包まれた音もなく定位置へと移動していく。
 アクアマリンが一瞬こちらを向いて、僕の視線を絡めとる。
 これだけ観客がいて、僕のことをピンポイントで見つけられるはずがない。きっと勘違いだ。そう思うのに、かじかんだ手が、頬が、ぶわりと熱くなる。
 天羽からの視線は一瞬で的に戻っていったというのに、僕がカメラを構えるのには少し時間がかかった。
 小さく震える手でカメラを構え、覗き込む。天羽をブライトフレームに収め、ズームすると、白い息がぽわっと上がった。
 耳が痛くなるほどの静寂。弓を引いた天羽にシャッターを切ると、ほぼ同時に矢が空を切る音が響いた。


 だが、結果は惨敗。天羽は、最後の一射を大きく外してしまった。的に当たらなかった矢は鈍い音を立てて安土に突き刺さる。
 だが、天羽は笑った。いつもの、義務感から浮かべられた笑顔ではない。すべてのプレッシャーから解放されたように笑う天羽は、今まで見た中で一番いい顔をしていた。彼の中で何かが吹っ切れたのだろう。
 そして、それをまるで自分のもののように清々しく感じられるのは、ひとえに彼と気持ちを重ねたから。

 あぁ、この人を好きになってよかった。

 天羽にとって、ひとつの転換点となったところに立ち会えたことが嬉しくて、口角が上がってしまう。
 これは記事にしない。自分で後から見返すだけ。
 そう自分に言い聞かせながら、僕はまたシャッターを切った。

 ***

 夕方。茜色の日が横殴りに新聞部の部室に入ってくる。
 いったん学校に戻った僕は、弓道部の遠征バスが戻ってくるのを部室で待っていた。
 タイミングが合えば一緒に帰宅したいと考えたからだ。僕と天羽は、2ヶ月間ですっかり一緒に帰ることが日課になるほど、時間を共にすることが増えていた。
 一応、部室で待っていることは天羽に連絡済みだったが、既読がついただけで返信は何もない。今頃、弓道部の方で盛り上がっているのかもしれない。
 いつ天羽が来るかは分からないが、それまでにできることをやっておこうかな。リュックに手を伸ばし、カメラと取材メモを取り出した。
 メモの間から、今日書いたばかりのメモが一枚、はらりと床に落ちる。拾おうと前屈みになり、指先を伸ばした。

『弓道部エース、天羽唯翔、最後の一射は外れた。けれど彼は、誰よりも晴れやかな顔で笑っていた』

 メモに記された僕の言葉。それはなんだかひどく天羽への気持ちに満ち溢れていて、恥ずかしかったけれど、それ以上の言葉が思いつく気もしなかった。
「これはこのまま使ってしまうか……」
 拾い上げた紙が紛失しないようにメモ帳に挟んで、PCに向かおうとすると、きぃ、と小さな音を立てて部室の戸が開いた。
 ぱっと顔を上げる。その姿を視認する前に、天羽の声が飛んでくる。
「何か使えそうなものがあったのか?」
「いえ、その……まぁ。それより、早かったですね」
 天羽が来る前に少しでも記事を書けるかと思っていたが、少しのんびりしすぎてしまったようだ。
「そうか? 他の奴らはみんなで今から打ち上げらしい」
「えっ? それ、天羽くんも行かなきゃだめなんじゃ……」
 弓道部のエースは天羽だ。間違いなく部内の中心人物。今回、大会では最後の一射を外して敗退してしまったが、それを労うための打ち上げだとしたら、天羽に行かないという選択肢はないだろう。
「いや、俺はいい。反省会より颯真といたい。……なぁ、颯真」
 天羽が近づいてきて、僕の座った椅子を回した。金属がこすれる小さな音が響いて、天羽と相対させられる。ぐうっと天羽が腰を曲げて、顔を近づけてくる。茜色に染め上げられた整った顔が暴力的だ。
 長い睫毛が上下して、蒼い瞳が僕をじっと見つめる。
「今日、外した」
「し、知ってます……。見てました、から」
 僕の言葉に、天羽は少し微笑む。ドスッという重い音を立てて、天羽の方からスポーツバッグが滑り落ちていった。だが、それを本人が気にした様子はない。
「慰めてくれないの」
「悔しそうだったので。……それとも、慰めてほしいんですか」
 冗談のつもりで言ったのに、天羽は満面の笑みで僕に抱き着いてきた。ふわりと香る天羽の匂いと、少しの汗の匂い。今日頑張った彼の、ひとつの勲章。
 天羽の背中に手を回すと、そっと抱きしめ返す。今日は一般生徒は冬休みだ、どうせ誰にも見られないだろう。
「……お前、ほんとよく見てる。笑って誤魔化したつもりだったのに」
「誤魔化されませんよ、そんなことで」
「颯真に見られてるとさ……やっぱり、ちょっとかっこつけたいじゃん」
「なんですかそれ。どれだけ貴方を追ってきたと思ってるんですか」
 僕の言葉に、天羽は「それもそうだな」と耳元で小さく呟いた。ゆっくり、僕の体にかかっていた重さが離れていく。
 天羽が、顔がはっきり見える位置まで下がって、それから、小首を傾げた。
「ねぇ、颯真。慰めて」
「え……っと、そう言われましても……。天羽くんが誰よりも真剣に練習してきたのは僕が一番よく知っています。その練習がすべて無駄だったわけではないですし、その、元気出してくださ──」
「──そうじゃなくて」
 気の利かない自分なりに気遣った言葉を遮られ、天羽を見上げると、彼は少し唇を突き出して、そこを指差した。
「ん」
 そんなはしたないことはできない。そういって突っぱねてしまうことは簡単だったが、天羽が僕からの接触を要求してきたのは初めてだった。
 目を閉じた綺麗な顔に、そっと顔を近づける。目を開けたままするのはなんだか恥ずかしくて、瞼を閉じて、一気に唇にスタンプをした。

 ──ちゅ。

 小さなリップ音がして、天羽が目を開ける。光を反射してきらきらするアクアマリンが、幸せそうにこちらを見つめていた。その視線から逃れたくて、僕は顔を背けると口元を覆う。
 別に汚いと思っているわけでもないのに、ごしごしと袖口でこすってみせた。すべては恥ずかしさ故。
「き、今日だけ……ですから」
「ん、一生大切にする」
 僕の小さな抵抗も虚しく、天羽は満足そうにまた僕を抱きしめた。

 ***

「あ、颯真」
「……何ですか」
 冬休みが終わって数日経った頃。薄暗くなってきた時刻。正月に降った雪がまだ残る道を歩きながら、僕は天羽の顔を見上げた。
「新聞の、最新号、さ。読んだんだけど……」
「? どうしました?」
 何か変な記事があっただろうか。僕が確認した限りでは、誤字脱字も、見られてまずい表現もなかった気がするのだけれど。
「あれ、俺のこと好きすぎない?」
「な……っそ、そんなこと」
 ないとは言い切れない。だが、認めてしまうのもたまらなく恥ずかしかった。

 この気持ちについて、文章にしてみようと試みたことは何度もあった。自分の得意な文筆であれば天羽に齟齬なく伝えられるのではないかと思ったからだ。
 結果は惨敗。一度も天羽への気持ちをきちんと言葉にできたことはなかった。
 好きだとか、愛してるとか、そんな浮ついた気持ちを書くことには戸惑いがあり、どうしても天羽のようにストレートに感情表現をすることができない。
 何も返せていないことはわかっていたが、それならば新聞で少しでも天羽のことを発信できるようにしよう。そう決めたのは昨年の大会が終わってからだ。

「顔、赤い。何考えてんの?」
「さ、寒いからです……っ」
 手で頬を覆うと、天羽は、ふは、と笑って僕の前に立った。冷たくかじかんだ手が、僕の手袋を覆って、顔から引きはがす。
「今度は、匿名じゃなく言って」
「な、何を……ですか」
「俺のこと、どう思ってるか。この口で、言ってみて、颯真」
 くいっと顎を持ち上げられる。蒼い目は迷いなく僕のことを捕えていて、逃げ出すことはできそうになかった。
「天羽く──」
「──唯翔。ほら、呼んで」
 甘い空気に心臓がバクバクと音を立てる。この緊張は、天羽まで伝わっていったりしていないだろうか。
 空気が乾燥していて、その冷たさに涙が滲む。それでも顎を掴んだ手は緩められない。
 絶対に僕の気持ちを聞き出したいという天羽の強い意志を感じる。
「ぼ、ぼく、は」
「うん」
 優しい返事に、ぐっと手を握りしめた。今言えなかったら、きっと一生言うことはできない。覚悟を決めなければ。

「唯翔くん。ぼくは……僕は、唯翔くんのことが──」