文化祭当日。新聞部が企画した『匿名恋文コーナー』は大盛況だった。学校中にいつの間にか記事の内容が噂となって広まり、恋文を宛てられた学校の人気者たちは学年問わず話題の中心になっていた。
取材をし、ひとつの記事を書いた部員として誇らしい気持ちはもちろんあった。いや、本来であれば誇らしい気持ちだけを感じていたはずだった。
それなのに、どうしてこんなにもやもやしなくてはならないんだろう。今頃、天羽もたくさんの女子に囲まれているのだろうと考えると、会いたくないという気持ちが募っていく。
先日のように、ばったり会ってしまわないように。万が一にも、目が合ったりなんてしないように。
そう思って、床を見つめて移動していたのに。
新聞を貼って回っていた僕に、女子の集団が近づいてきた。ぶつからないように体を反らせて避けると、その中から「天羽くん」という名前が聞こえ、ばっと顔を上げる。
途端、ばちっとアクアマリンと目が合ってしまった。きゅうっと心臓の奥が締め付けられるように痛んで、目を逸らさなければと思うのに逸らすことができない。吸い寄せられるかのように天羽のことを見つめてしまう。
天羽はあの時のように僕を呼ぶことはせず、話しかけてくることなく僕から近くの女子へと視線を移した。その行動になぜかひどく傷ついたような気持ちになって、僕はいてもたってもいられなくなってしまった。
まだ貼り終えていない新聞の残りを掴んで、今僕を追い抜いて行った女子の集団の脇を駆け抜ける。
これ以上何も見たくない。聞きたくない。女子相手にへらへら笑顔を振りまく天羽のことも、天羽を囲む女子の黄色い声も届かないところに行ってしまいたい。
途中、先生の「廊下を走るな!」という怒鳴り声が聞こえたような気がしたが、そんなものどうでもよかった。普段なら気にしただろうが、今は構っている余裕はなかった。
走って走って走って、人がいない方へ駆けてきた僕が辿り着いたのは人気のない校舎裏。こんなにもいい天気なのに、影が落ちていてどこかじめじめしている。今の僕の気持ちにはぴったりかもしれない。
天羽に匿名恋文を送った女子たちは屈託のない笑顔で天羽のことを囲んで話しかけられるのに、僕はそれにもやもやするばかりで、天羽の名前ひとつ満足に呼ぶこともできない。
見つめて、目が合って、逃げだして。
「……何やってるんだろう、僕」
校舎に背中を預けて、ずるずると座り込む。手に握りしめていた残り少ない新聞には皺が入ってしまっていた。あとで吉田に謝って新しいものを刷り直した方がいいかもしれない。
僕はどうしてしまったんだろうか。
弓道部の、天羽の記事だけ上手く書けなくなって。僕に対して素の顔を晒してくれる天羽に、友達とは違う感情を抱いてしまった。
天羽の笑顔にばかり集中する称賛の声にもやもやして、耐えられなくなって、ついには匿名恋文に自分の気持ちを潜り込ませたりして。
目が合っただけでこんなにも動揺して、逃げてきてしまった。
天羽が女子に囲まれていることなんて、今までに何度もあったことであるはずなのに。
ただ、見つめあってしまった視線を先に外されただけなのに。僕は何を狼狽えているんだろう。
こんなの、まるで──。
「捕まえた」
突然左腕を掴まれて、びくりと体を揺らす。声の主を見上げると、少し息を切らした天羽が立っていた。
「……どうして、こんなところにいるんですか」
「探したんだよ、あんな顔して走って行ったから」
あんな顔? 僕はいったいどんな顔をして天羽の傍から逃げ出したんだろう。必死だったからか、何も思い出せない。
そんなことより、息が上がるほどに懸命に僕を探してくれていただなんて。女子に囲まれていない天羽と話せることは嬉しいような気もしたが、もやもやしたまま相対したくなかったという気持ちもあった。
「僕に、何かご用ですか」
「雨溜さ、俺のこと見すぎ」
会話が成り立っていない。そう文句を言いたくなったが、そのあとすぐに言葉の意味を理解して冷や水を浴びたような感覚になる。
僕は、そんなにも天羽のことを見つめていただろうか。本人に気づかれてしまうほど。……この気持ちが、天羽に伝わってしまうほど。
「し……新聞部なので。取材対象ですから」
そんな言葉で天羽が誤魔化されてくれるだろうか。取材していない時も、ついさっきだって、天羽のことを見つめてしまっていたのに。
「へえ。じゃあ、今日の俺はどうだった?」
「きょ、今日は見ていませ……っ」
「──さっき。じっと見てただろ、俺のこと」
逃げなければ。そう思うのに、腕を振りきれず、立ち上がる。すぐそこにある天羽の顔にひゅっと息を飲んだ。
掴まれたままの左腕が痛い。問いに答えたら解放されるんだろうか。でも、適当に流してしまう気持ちにはなれそうもない。
「……ちょっと、疲れて見えました。今日の天羽くん……」
そう返すと、天羽はふっと微笑んで、僕の体を引き寄せた。突然のことに足に力が入らず、天羽の胸に倒れこんでしまう。ぐしゃりと手に持ったままだった新聞が音を立てた。
接触している胸が、肩が熱い。少し見上げると、長い睫毛が上下しているのがよく見えた。とんでもない距離感だ。
ややあって、自身が天羽の胸に抱きしめられていることを自覚した。こんな、いつ人が来るかもわからない校舎裏で、僕はいったい、何を。
「あ、あ、あもう、く……っ」
新聞がくしゃくしゃになることも厭わず、慌てて天羽の胸を押すが、離してくれるどころか、一層強い力で抱きしめられてしまった。
「正解。……やっぱり、雨溜が一番俺をちゃんと見てる」
一番、天羽のことをちゃんと見ている。そんなこと、天羽自身から言われなくても自覚していた。
僕以外、笑顔を振りまく天羽のことしか、みんな見ていないのだと、匿名恋文企画で嫌というほど思い知ってしまったから。
「なぁ、雨溜」
「な、何、ですか……」
「匿名恋文書いたの、お前だろ? 『誰も見ていないときの貴方の表情が忘れられません』ってやつ」
天羽の言葉に、ぎゅっと力が入って体が硬くなる。嫌な気持ちにさせてしまっただろうか。新聞部員が、こっそり私情である自分の気持ちを記事に混ぜ込んでしまうだなんて。
「どうして、僕だって……」
「雨溜の文章を、いつも読んできた。俺にお前の文章を見分けることくらい簡単だよ」
黙り込むしかなかった。何を言ってもぼろが出てしまいそうで。天羽のことを特別に思っているというこの気持ちが、どんどん口から溢れ出ていってしまいそうで。
しばらく沈黙が続き、天羽が痺れを切らしたのか、口を開いた。匿名恋文の一部が僕の捏造だったと知って怒らせてしまったのではないかと思ったが、怒っていないどころか、むしろ彼は嬉しそうに、ふっ、と息を漏らした。優しい声が、鼓膜を揺らす。
「なぁ、雨溜、俺にこうされるの、嫌か? ……抱きしめられて、辛い?」
最初はただの取材対象だった。
笑顔を振りまく天羽に対して苦手意識を持っていたはずだった。
彼の表情が、本音が、僕の心をじわじわと侵食してくる。本当の『天羽唯翔』は自分だけが見ているのではないかという錯覚。自分だけが見ているんだという、優越感にも近い独占欲。
僕は、いつの間にこんな感情を抱くようになってしまったんだろう。
「僕は……」
口を開いたものの、言葉が続かなかった。記事であればあんなに軽快にキーボードを叩くことができるのに。直接伝えることは、どうしてこんなにも難しいのだろう。
「……俺は、雨溜だから全部見せた」
「へ……?」
「雨溜が相手だから、弱音も吐いたし、しんどい時の逃げ場にもした。雨溜なら受け止めてくれると思ったから」
肩を掴まれて、そっと体を離される。先ほどまで触れていた体温はすっかり僕に移っていて、体がぽかぽかと温かい。
夢見心地とはこういうことを言うのだろうか。
「でも、俺の勘違いだったなら申し訳ないと思ってる。なぁ、雨溜。俺と抱き合うのは嫌か?」
人にここまで接触されるのは初めてだった。人間と話すことすら苦手な僕が、天羽に抱きしめられて全然嫌ではないなんて。これが天羽でなかったら、きっと違う感情を抱いていたはずだ。
つまり、僕は、天羽のことを──。
改めて自覚するとぶわっと体が熱くなって、恥ずかしさのあまり視線を地面に落とした。しかし、それを阻止するかのように天羽の手が伸びてきて、僕の頬を包み込み、上を向かせる。
目の前にある、朱に染まった顔を、僕はぼぅっと見つめるしかなかった。
「雨溜、好きだ」
避けようのないほど真っ直ぐな言葉に、唾を飲み込む。答えなくてはと思うのに、声が喉に張り付いて何も出てこなかった。
長い睫毛が伏せられて、そっと顔が近づいてくる。
あ、これは、と羞恥のあまりすぐに逃げ出したくなったが、天羽が逃がしてはくれなかった。ぎゅっと目を瞑ると、温かくて柔らかなものが唇に触れる。たった一秒のことだったが、僕は少し顎を上げて、息を止めるので精一杯だった。
「……嫌か? 雨溜」
「……颯真です。……颯真」
好きだとは言えない。自分も実はずっと同じ気持ちだったなんて、口が裂けても言えそうになかった。
ただ、今の自分に言える一番の愛情表現が、名前だと思っただけだ。
「ふ、は。颯真……颯真、好き」
あまり親しい人を作ってこなかった僕にとって、名前呼びはとても新鮮だった。親以外が呼んだことはない僕の名前を、天羽が噛み締めるように何度も呼ぶ。
あぁ、ここに他に誰もいなくて本当に良かった。
頬を染めて、恥ずかしそうに笑いながら僕の名前を呼ぶ天羽に、僕も恥ずかしくなって視線を逸らす。
「……はい、唯翔くん」
これが、今の僕にできる精一杯の返事。
尻すぼみに声が小さくなってしまったが、それでも天羽は幸せそうに微笑んで、僕のことをまた強く抱きしめた。
取材をし、ひとつの記事を書いた部員として誇らしい気持ちはもちろんあった。いや、本来であれば誇らしい気持ちだけを感じていたはずだった。
それなのに、どうしてこんなにもやもやしなくてはならないんだろう。今頃、天羽もたくさんの女子に囲まれているのだろうと考えると、会いたくないという気持ちが募っていく。
先日のように、ばったり会ってしまわないように。万が一にも、目が合ったりなんてしないように。
そう思って、床を見つめて移動していたのに。
新聞を貼って回っていた僕に、女子の集団が近づいてきた。ぶつからないように体を反らせて避けると、その中から「天羽くん」という名前が聞こえ、ばっと顔を上げる。
途端、ばちっとアクアマリンと目が合ってしまった。きゅうっと心臓の奥が締め付けられるように痛んで、目を逸らさなければと思うのに逸らすことができない。吸い寄せられるかのように天羽のことを見つめてしまう。
天羽はあの時のように僕を呼ぶことはせず、話しかけてくることなく僕から近くの女子へと視線を移した。その行動になぜかひどく傷ついたような気持ちになって、僕はいてもたってもいられなくなってしまった。
まだ貼り終えていない新聞の残りを掴んで、今僕を追い抜いて行った女子の集団の脇を駆け抜ける。
これ以上何も見たくない。聞きたくない。女子相手にへらへら笑顔を振りまく天羽のことも、天羽を囲む女子の黄色い声も届かないところに行ってしまいたい。
途中、先生の「廊下を走るな!」という怒鳴り声が聞こえたような気がしたが、そんなものどうでもよかった。普段なら気にしただろうが、今は構っている余裕はなかった。
走って走って走って、人がいない方へ駆けてきた僕が辿り着いたのは人気のない校舎裏。こんなにもいい天気なのに、影が落ちていてどこかじめじめしている。今の僕の気持ちにはぴったりかもしれない。
天羽に匿名恋文を送った女子たちは屈託のない笑顔で天羽のことを囲んで話しかけられるのに、僕はそれにもやもやするばかりで、天羽の名前ひとつ満足に呼ぶこともできない。
見つめて、目が合って、逃げだして。
「……何やってるんだろう、僕」
校舎に背中を預けて、ずるずると座り込む。手に握りしめていた残り少ない新聞には皺が入ってしまっていた。あとで吉田に謝って新しいものを刷り直した方がいいかもしれない。
僕はどうしてしまったんだろうか。
弓道部の、天羽の記事だけ上手く書けなくなって。僕に対して素の顔を晒してくれる天羽に、友達とは違う感情を抱いてしまった。
天羽の笑顔にばかり集中する称賛の声にもやもやして、耐えられなくなって、ついには匿名恋文に自分の気持ちを潜り込ませたりして。
目が合っただけでこんなにも動揺して、逃げてきてしまった。
天羽が女子に囲まれていることなんて、今までに何度もあったことであるはずなのに。
ただ、見つめあってしまった視線を先に外されただけなのに。僕は何を狼狽えているんだろう。
こんなの、まるで──。
「捕まえた」
突然左腕を掴まれて、びくりと体を揺らす。声の主を見上げると、少し息を切らした天羽が立っていた。
「……どうして、こんなところにいるんですか」
「探したんだよ、あんな顔して走って行ったから」
あんな顔? 僕はいったいどんな顔をして天羽の傍から逃げ出したんだろう。必死だったからか、何も思い出せない。
そんなことより、息が上がるほどに懸命に僕を探してくれていただなんて。女子に囲まれていない天羽と話せることは嬉しいような気もしたが、もやもやしたまま相対したくなかったという気持ちもあった。
「僕に、何かご用ですか」
「雨溜さ、俺のこと見すぎ」
会話が成り立っていない。そう文句を言いたくなったが、そのあとすぐに言葉の意味を理解して冷や水を浴びたような感覚になる。
僕は、そんなにも天羽のことを見つめていただろうか。本人に気づかれてしまうほど。……この気持ちが、天羽に伝わってしまうほど。
「し……新聞部なので。取材対象ですから」
そんな言葉で天羽が誤魔化されてくれるだろうか。取材していない時も、ついさっきだって、天羽のことを見つめてしまっていたのに。
「へえ。じゃあ、今日の俺はどうだった?」
「きょ、今日は見ていませ……っ」
「──さっき。じっと見てただろ、俺のこと」
逃げなければ。そう思うのに、腕を振りきれず、立ち上がる。すぐそこにある天羽の顔にひゅっと息を飲んだ。
掴まれたままの左腕が痛い。問いに答えたら解放されるんだろうか。でも、適当に流してしまう気持ちにはなれそうもない。
「……ちょっと、疲れて見えました。今日の天羽くん……」
そう返すと、天羽はふっと微笑んで、僕の体を引き寄せた。突然のことに足に力が入らず、天羽の胸に倒れこんでしまう。ぐしゃりと手に持ったままだった新聞が音を立てた。
接触している胸が、肩が熱い。少し見上げると、長い睫毛が上下しているのがよく見えた。とんでもない距離感だ。
ややあって、自身が天羽の胸に抱きしめられていることを自覚した。こんな、いつ人が来るかもわからない校舎裏で、僕はいったい、何を。
「あ、あ、あもう、く……っ」
新聞がくしゃくしゃになることも厭わず、慌てて天羽の胸を押すが、離してくれるどころか、一層強い力で抱きしめられてしまった。
「正解。……やっぱり、雨溜が一番俺をちゃんと見てる」
一番、天羽のことをちゃんと見ている。そんなこと、天羽自身から言われなくても自覚していた。
僕以外、笑顔を振りまく天羽のことしか、みんな見ていないのだと、匿名恋文企画で嫌というほど思い知ってしまったから。
「なぁ、雨溜」
「な、何、ですか……」
「匿名恋文書いたの、お前だろ? 『誰も見ていないときの貴方の表情が忘れられません』ってやつ」
天羽の言葉に、ぎゅっと力が入って体が硬くなる。嫌な気持ちにさせてしまっただろうか。新聞部員が、こっそり私情である自分の気持ちを記事に混ぜ込んでしまうだなんて。
「どうして、僕だって……」
「雨溜の文章を、いつも読んできた。俺にお前の文章を見分けることくらい簡単だよ」
黙り込むしかなかった。何を言ってもぼろが出てしまいそうで。天羽のことを特別に思っているというこの気持ちが、どんどん口から溢れ出ていってしまいそうで。
しばらく沈黙が続き、天羽が痺れを切らしたのか、口を開いた。匿名恋文の一部が僕の捏造だったと知って怒らせてしまったのではないかと思ったが、怒っていないどころか、むしろ彼は嬉しそうに、ふっ、と息を漏らした。優しい声が、鼓膜を揺らす。
「なぁ、雨溜、俺にこうされるの、嫌か? ……抱きしめられて、辛い?」
最初はただの取材対象だった。
笑顔を振りまく天羽に対して苦手意識を持っていたはずだった。
彼の表情が、本音が、僕の心をじわじわと侵食してくる。本当の『天羽唯翔』は自分だけが見ているのではないかという錯覚。自分だけが見ているんだという、優越感にも近い独占欲。
僕は、いつの間にこんな感情を抱くようになってしまったんだろう。
「僕は……」
口を開いたものの、言葉が続かなかった。記事であればあんなに軽快にキーボードを叩くことができるのに。直接伝えることは、どうしてこんなにも難しいのだろう。
「……俺は、雨溜だから全部見せた」
「へ……?」
「雨溜が相手だから、弱音も吐いたし、しんどい時の逃げ場にもした。雨溜なら受け止めてくれると思ったから」
肩を掴まれて、そっと体を離される。先ほどまで触れていた体温はすっかり僕に移っていて、体がぽかぽかと温かい。
夢見心地とはこういうことを言うのだろうか。
「でも、俺の勘違いだったなら申し訳ないと思ってる。なぁ、雨溜。俺と抱き合うのは嫌か?」
人にここまで接触されるのは初めてだった。人間と話すことすら苦手な僕が、天羽に抱きしめられて全然嫌ではないなんて。これが天羽でなかったら、きっと違う感情を抱いていたはずだ。
つまり、僕は、天羽のことを──。
改めて自覚するとぶわっと体が熱くなって、恥ずかしさのあまり視線を地面に落とした。しかし、それを阻止するかのように天羽の手が伸びてきて、僕の頬を包み込み、上を向かせる。
目の前にある、朱に染まった顔を、僕はぼぅっと見つめるしかなかった。
「雨溜、好きだ」
避けようのないほど真っ直ぐな言葉に、唾を飲み込む。答えなくてはと思うのに、声が喉に張り付いて何も出てこなかった。
長い睫毛が伏せられて、そっと顔が近づいてくる。
あ、これは、と羞恥のあまりすぐに逃げ出したくなったが、天羽が逃がしてはくれなかった。ぎゅっと目を瞑ると、温かくて柔らかなものが唇に触れる。たった一秒のことだったが、僕は少し顎を上げて、息を止めるので精一杯だった。
「……嫌か? 雨溜」
「……颯真です。……颯真」
好きだとは言えない。自分も実はずっと同じ気持ちだったなんて、口が裂けても言えそうになかった。
ただ、今の自分に言える一番の愛情表現が、名前だと思っただけだ。
「ふ、は。颯真……颯真、好き」
あまり親しい人を作ってこなかった僕にとって、名前呼びはとても新鮮だった。親以外が呼んだことはない僕の名前を、天羽が噛み締めるように何度も呼ぶ。
あぁ、ここに他に誰もいなくて本当に良かった。
頬を染めて、恥ずかしそうに笑いながら僕の名前を呼ぶ天羽に、僕も恥ずかしくなって視線を逸らす。
「……はい、唯翔くん」
これが、今の僕にできる精一杯の返事。
尻すぼみに声が小さくなってしまったが、それでも天羽は幸せそうに微笑んで、僕のことをまた強く抱きしめた。
