夢の続きの話をしよう(上)【期間限定再録】

 ぼそぼそと抑揚のない声で進む老教授の講義は、どんなに中途半端なところでも、チャイムと同時に終了となる。本日も例に漏れることなく、チャイムが鳴り始めるなり「では、今日はこれまで」と宣言して教壇を降りていった。
 途端にざわめき出した大講義室の一席で、小さく身体を伸ばす。ろくでもないことを考えないようにと必要以上に集中していた自覚はあるが、肩がこった。普段、真面目に受けていないからだろうかと内省して、いやと思い直す。たぶん、それでもこいつよりはマシだ。
 終業のベルが鳴ったことにも気づかず、となりで庄司は机に突っ伏している。
 このまま放っておくべきか、起こすべきか。迷っているうちに、人波に逆らって入ってきたふたりと目が合った。栞と真知ちゃんだ。満面の笑みで栞が駆け寄ってくる。
「ねぇ、佐野! 持ってるんでしょ!」
 なにをとも言わず眼前に突き出された手に、真知ちゃんに助けを求める視線を送ってしまった。嫌な予感しかしない。その彼女が「無理、無理」と苦笑いで首を横に振る。栞の勢いあふれる行動力に勝てるわけがないと言わんばかりだ。
 このあいだもそうだったんだよなぁと思い返す。栞の猛烈な勢いに押し負けて、あんな場所に行ってしまった。
「持ってるってなにをだよ」
 諦め半分で問いかけると、栞が変わらない笑みのまま大きく頷いた。
「なんでもっと早くに教えてくれないかなー、もらったんでしょ? 日曜の試合のチケット!」
 上機嫌の理由がわかったのと同時に、なんで知っているのかと、ある種の脱力感に襲われた。なんでもなにも、心当たりはひとつしかないが。
「なんで」
「なんでって。一緒に行こうよ。あたしと真知と庄司と四人で。あ、それとも、もうほかの誰かと行く予定とか立てちゃった?」
「いや、そうじゃないけど。というか、二枚しか持ってないし」
 だから、これやるから、庄司とふたりで行って来いよ。続けるつもりだった台詞は、栞が鞄から取り出した封筒で消し飛んだ。
 じゃじゃーんと調子のいい効果音つきで、栞がチケットを顔の前に掲げる。二枚。
「なんで、おまえが、それ持ってんの?」
 返ってくる答えはわかっていたのに、聞かざるを得なかった。なんで、持ってんの、そんなもの。
「昨日、練習を見に行ったときに、折原くんがこっそりくれたんだ。すごくない?」
「だったら、もう、それで、こいつとデートでもなんでもしてこいよ」
 真知ちゃんには悪いような気もするが。だしに使おうと、いまだに眠りこけている庄司の茶色い頭を揺らす。わりと乱暴に揺すったにもかかわらず、一向に目覚める気配はない。
「駄目だよ。真知も行きたいって言ってるんだから。それに、折原くんに、あんたと一緒に来てねって念押しされてもらったやつだし」
「俺が行っても行かなくても、あいつにわかるわけねぇだろ。だから、――ほら、これやるから、三人で行ってきたら?」
 鞄に入ったままになっていたチケットを、これ幸いと栞に押し付ける。捨てるのは忍びなかったので、ここでもらってもらえるならありがたかったのだ。
「だから、それは駄目だってば」
 受け取るまいと一歩下がった栞が、「それにしても」と首を傾げる。
「なんでそんなに行くのいやなの? いまさら用事があるって言っても信じないからね、あたし」
 口にしないだけで真知ちゃんも同じような疑問を抱いているのか、返答を期待している雰囲気がある。
 ――だから、べつに、そんな御大層な理由も、言えるような話も、なにもないんだって。
「まぁ、いろいろ」
 後輩に嫉妬しているとでも、なんとでも解釈すればいい。
 投げやりに応じた俺に、真知ちゃんと栞が顔を見合わせる。気を使ってもらう必要は一切なかったのだが、栞が眉を下げた。
「折原くんもさ、渡したはいいけど、たぶんあんたは来てくれないからって言ってたんだよね。先輩はなんでもひとりで決めるし、後ろ向きな決断が多いからって」
 そう言われるとたしかにあんた根暗だよねと、栞が肩をすくめる。
「だから、あたしに連れてきてほしかったんじゃないかなと思って。ひとりだと後ろ向きでも、周りに背を押してもらったら、また違う考え方もできるでしょ? ほら、あんた、押しに弱いし」
「詳しいことはよくわからないけど。でも、せっかくなんだし、行けるなら行こうよ。みんなで」
 いつもと同じ癒し系の笑顔のはずなのに圧を感じるのは、気のせいだろうか。
 沈黙を了承と取ったふたりが、楽しみだねとはしゃぎ出す。
 まぁ、もう、べつになんでもいいけど。
 なるようになれという気分で、無言のまま机の上を片付けにかかる。これだけ話していたあいだも無反応だった庄司に、「ごはん行こうよ」と栞が飛びかかった。さすがに衝撃が大きかったのか、うめき声とともに頭が持ち上がる。のんきに寝やがってと思ってしまったのは、いいがかりでしかない。
「あ、ねぇ、佐野」
「……なんだよ」
「折原くんさ、よく佐野のこと見てたんだね。佐野のこと、ちゃんとわかってる。大事にされてんだよ」
 だからと取りなす調子で栞が笑った。
「あんたも、もっと折原くんのこと大事にしてあげたらいいのに」
 手にしていたルーズリーフの束にぐっと皴が寄った。栞は気がついていない。そのことに安堵しながら曖昧に頷く。
 ――してるんだよ、大事に。こう見えても。おまえが想像しているのとは、ぜんぜん違うベクトルで。
 だからと思った。そんなことをこの場で言えるわけもないけれど。だから。堪え切れなかった溜息が零れる。
 ――だから、俺はあいつに会いたくなかったんだ。