夢の続きの話をしよう(上)【期間限定再録】

 俺は先輩に会いたかった。そう言ったきり黙り込んだ折原に、どう応じればいいのかわからなくなった。
 けれど、悩んでいられたのも、そう長い時間ではなかった。立ち止まっているあいだにも、また視線は集まり始めていた。人通りが少ないといっても皆無ではない。このままでいられるわけがなかった。しかたないと自身に言い聞かせる。
 この後輩は、昔から俺の言うことになんでも「はい、はい」と頷くようでいて、自分が曲げないと決めたことは絶対に変えなかった。
「場所、ちょっとは考えろよ」
 おまえは目立つんだよ。深山にいたころとは違うんだよ。続けて言おうとした台詞は、なぜか口にできなかった。
 数秒の沈黙のあと、強張っていた顔を折原がゆるめた。
「車なんです、俺」
 声はまだ固かった。俺も人のことを言える状態ではなかっただろうから、お互い様だったかもしれない。
「用事があるんだったら、そこまで送りますけど」
 掴まれたままの手首に視線を落として、逡巡する。けれど、ただのポーズだ。答えは出ていた。
「あんまり時間ないからな」
 ほっとした顔で折原が笑った。罪悪感が萎んでいくことを自覚して、痛感する。
 折原は決めたことを曲げないから。離せと抗議したところで押し問答になるだけだから。
 言い訳はいくらでもできた。けれど、どれも後付けの理屈だ。結局のところ、何年経とうとも俺は、折原の言葉を断ることができないらしかった。


 こんなつもりじゃなかったというのは、さすがに責任転嫁が過ぎるだろうか。
 当たり障りのないことを話しかけてくる横顔を、助手席からちらりと窺う。逃げどころのない車内での沈黙はさぞ気詰まりだろう。そんなふうに懸念していたのも俺だけだったのか、折原は拍子抜けするほど普通だった。
 普通というと語弊があるかもしれないが、俺の記憶にある中高生だったころの折原と変わらない態度。そのとなりは居心地がよかったことまで思い出しそうになる。
「それで、アルバイトって、なにしてるんですか?」
「塾」
「塾? 先輩が?」
 信じられないとばかりに繰り返されて、応じる声が下がった。「悪かったな、似合わなくて」
「いや、そんなことないですよ。ほら、先輩、面倒見もよかったじゃないっすか」
「べつに面倒見なんてよくねぇよ、俺は」
「そうですか? 俺、先輩にはお世話になったなぁって本当に思ってますけど」
「そんなこと言うのも、おまえくらいしかいねぇよ。だいたい面倒見がよかったのは、どう考えても富原だろ」
「まぁ、富原さんは富原さんで。先輩は富原さんとは、また違うというか。……なんか、難しいですね、説明するの」
 それは思い当たることがないからじゃないのか。言いかけて口を噤む。そんな昔話をしたいわけでもない。運転をする折原というものが見慣れなくて、窓の外に視線を向けた。もう五分も走らないうちに到着するはずだった。
「そういえば、先輩」
 沈黙は、長くは続かなかった。
「なんで、あの子にサッカー下手だって言われてたんですか?」
 ただの世間話だ。運転席に視線を戻す気にはならなかったが、正直に答える。
「べつに。ひさしぶりだったから、感覚狂って強く蹴り過ぎただけ」
「フットサルでしたっけ。なにやったんですか?」
 栞が喋っていた、どうでもいいようなことだ。そんなもの、覚えていなくていいだろうに。
 フットサルのサークルに入った理由は、庄司に強引に誘われたからだった。それも体育会系の部活でもなんでもない、飲みサーのようなゆるいサークル。それなのに、なにかの話の流れで入会したことを伝えたときの富原も、やたらとうれしそうだった。
 理解できないと思った。まったくもって、理解できない。
「べつに」
 言ってしまってから、あまりにもおとなげがなかったかと付け加える。本当に、どうでもいい話だ。
「味方の顔面にぶち込んで。その日、そいつ駄目にさせたから」
 入学して間もなかったころだ。庄司たちとサークルの試合の観戦に行った。ほとんど義理だった。当然、試合に出るつもりはまったくなかった。それなのに、出場するはずだったメンバーのドタキャンが相次いでいたらしく、先輩たちに拝み倒されてコートに放り込まれた。
 思い返しても奇妙な感覚だった。かつて自分がしていたサッカーとは、コートの広さも、プレーしている選手の能力も本気度も、なにもかもが違う。
 それなのに、足元にボールが飛んできた瞬間、世界が過去に戻った気がした。サッカーをやめてからボールに触ったのも、そのときがはじめてだった。
「うわ、痛かったんでしょうね。先輩が本気で蹴ったんだったら、飛んでくる凶器ですよ」
 サッカーしてない人からすればと折原が笑う。いや、あれはどう考えても、あの距離で蹴る球威ではなかったから、俺のミスだった。あえて言う必要も感じなかったので、言いはしないが。
「でも、もったいないな。俺だったら、絶対に決めるのに。先輩からのパス」
 ――そりゃ、おまえだったら、決めるだろ。
 べつに俺からのパスじゃなくても、誰からの、どんな拙いものでも。
 溜息を押し殺して、車窓に意識を集中させる。
 過去に戻ったような気がした、あの瞬間。パスを要求している相手が、高校生の折原に見えた。馬鹿な錯覚。だから、思い切り蹴ってしまっていたのだ。折原まで、届くように。
 その結果が、栞のあれだ。「佐野は下手」とその光景を見て認識したらしい。哀れに思った庄司が何度か訂正を試みてくれていたのだが、思い込みの激しい栞の記憶が上書きされることはなかった。
「でも、先輩、また始めたんですね、サッカー」
「サッカーじゃねぇけど」
「うん。でも、なんか、ちょっとだけ、ほっとしました」
 そういう顔してたよ、おまえ。あのときも。窓の外を見つめたまま、心のなかでだけ応じる。練習場で栞が口を滑らせたときも、そんな顔をしていた。安心したような、けれど、どこまで踏み込んでいいのかはかりかねたような。
「先輩、俺ね」
 少しの間のあと、折原が呼びかける。静かな声だった。
「俺、あのころから、ずっと、先輩からもらうパスは、どんなコースでも、ぜんぶ取りたかった。先輩からのパスには、いろんなものが詰まってるような気がしてた。だから、絶対、決めたかった。それで、先輩が褒めてくれるのがうれしかった」
 その言葉に引きずられるようにして浮かんだのは、ゴールを決めた直後の折原の笑顔だった。ゴールネットに球が吸い込まれると、いつも折原は振り返って俺を探していた。目が合うとうれしそうに頬をゆるめて飛びついてくる。
 その姿をほかの部員たちは「褒めて、褒めて」と尻尾を振る大型犬みたいだとからかっていたけれど。
「でも、もうねぇよ」
 断ち切るために吐き出した否定は、予想以上に重たく響いた。
「俺は、あんなふうにはもうできねぇし、まして、おまえと一緒に試合に出るようなことは絶対にねぇし」
「でも、べつに、本格的なものじゃなくても、俺は先輩と一緒だったら……」
 訴えてくる台詞を、「折原」と一声で遮った。
 もう「ない」のは、サッカーだけじゃない。それはきっと折原もわかっているはずだ。それなのに、なんで、こんな馬鹿なことを言い募るのか。
「もうねぇよ、無理。あんな長い時間も走れねぇし、おまえとは違うんだって」
 だから、なにも期待するなと言外に匂わせる。折原が気がつかないわけがない。
「もう、この近くだから」
 適当にとめてとだけ告げて、目を伏せる。
 ――なんで、いまさら、そんなことを言うんだよ、おまえは。
 発散しようのない感情が身体のなかで渦巻く。この三年、連絡を取ろうともしてこなかっただろうが。それで、お互いになんの不都合もなかっただろうが。
 懐かしいというだけでかき回そうとしているのならば、本当にやめてほしい。そう思った。俺は望んでいない。なにも、望んではいない。
 ウインカーが光って、路肩に車がとまる。すぐにでも降りてしまいたかったのに、「先輩」と呼ぶ声を無視できなかった。諦めて、視線を運転席に向ける。
「あのころの俺と先輩をつないでいたものって、先輩からしたらサッカーがほとんどだったでしょ?」
 違いましたかと、ひさしぶりに絡んだ視線の先で折原が笑った。どこか困ったように。
「そりゃ、そうだろ。サッカーやってなかったら、そもそもおまえのことなんて知らなかっただろうし。それに、あのころの生活は九割がサッカーだっただろ」
 朝から晩までサッカー漬けの日々だった。サッカー部専用の寮にいたこともあいまって、過ごしていたメンバーもいつも同じだった。サッカーを通してできたつながりで、すべてだった。
「そうかもしれないですけど、少なくとも、俺はそれだけじゃなかったですよ」
 折原の瞳が寂しそうに見えるのは、俺の心情を反射しているからなのだろうか。なんだかなと、不自然にならない程度に視線を外す。
「俺には、そんなふうにほかのことを考えてる余裕なんてなかったからな」
「そういうことじゃなくて。というか、やだな。わかってるくせに、先輩はいつもそうやってはぐらかす」
 それは、おまえがはぐらかさないといけないようなことばかり言うからだろう。話を切り上げようとしたタイミングで「先輩」と折原が呼んだ。逃げるなと乞うような強さで。
「あのときも、先輩は俺になにも言わせてくれなかったけど。――俺も言えなかったけど。でも今日くらい、かわいい後輩の話、最後まで聞いてくれてもいいじゃないですか」
 目が合ってしまったと後悔した。軽いのは口調だけで、その瞳は真剣そのもので。認識すると、また無視できなくなる。
「先輩との話は、どうやったってサッカーが入ってくるけど、でも、俺はそれだけじゃなくて」
 言葉を区切って、折原が視線を落とした。けれど、またすぐに持ち上がる。昔から変わらない強い視線。実力に裏打ちされた強者のそれは、どうしたって俺には手に入らないものだった。
「俺は先輩と普通に会いたい」
 明言されて、返事に迷った。普通ってなんだよ、お友達ごっこでもしたいのかよ。そう笑い飛ばしてしまえばよかったのかもしれない。でも、できなかった。
「普通に会って、喋って、関係をつくりたい。サッカーがなくても」
 ――だから、なんで、そんな真剣な顔してんだよ、おまえは。
 おかげで笑い飛ばせなかっただろうが。ただの気まぐれだのなんだのと体のいい理由を並べることもできなくなるだろうが。
 零れた溜息に、「すみません、引き留めて」と折原が眉を下げた。それだけで、どこか張り詰めていた車内の空気がゆるむ。
「あの、これ」
 いらないと跳ね除けるより先に、折原が笑って続けた。懐かしい顔で。
「今の時期には、ちょっとしたプレミアですよ、それ」
 そりゃ、そうだろうけど。黙ったまま、押し付けられたものに目を落とす。国際Aマッチの観戦チケット。
「先輩は、あのころの俺しか知らないじゃないですか。俺が、あのころの先輩しか知らないのと同じで。だから、今の俺を見て」
「折……」
「ね、約束。見に来てくださいよ」
 それで俺が断れないとわかっているのか、いないのか。にこと人懐こい後輩の顔で笑ったのが、駄目押しだった。
 なにもはっきりとしたことを言えないまま、俺は車を降りた。
 俺が立ち止まったままでいることは、折原に指摘されなくとも、自分が一番よくわかっていた。けれど、一歩目の踏み出し方がわからない。時間薬だと思っていたけれど、違ったのだろうか。
 歩き出したくない理由は、いくらでも思い当たる。あの当時を忘れたいと言っているくせに、忘れたくないと心の底では思っているからではないか、だとか。
 愛おしい時間だったような気がしてしまうのは、あいつがいたからじゃないのか、だとか。
 あるいは、今とは違って、俺にもまだ見ることを許された夢があって、同じように夢を追う仲間がいて。そして、すぐ近くで折原が笑っていたからではないのか、だとか。
 思い当たるものはいくらでもある。ただ、そのどれをも認めたくなかった。とどめなく落ちていきそうになる思考を捨てて、メッセージの画面を閉じる。返信はできなかった。