会いたくなかったのは、顔を見て話せば、決意なんてなし崩しに流されそうな自覚があったからだ。
「佐野先生、さよならー」
「もう暗いから気をつけて帰れよ、また来週な」
受け持ちの生徒を玄関先で見送って、小さく息を吐く。大学に入ってすぐに始めたアルバイト先の個人指導塾だ。長く受け持っている生徒ばかりの楽な授業日だったのに、つまらないミスを量産した気がしてならない。先生、それさっきも聞いたという台詞を俺も五回は聞いた。
……せめて、夏休みの講習の準備くらいはして帰るか。
アルバイトを始めてから、もうすぐで三度目の夏だが、塾業界の夏休みは忙しい。今年は受験生の受け持ちが多いからなおさらだ。そんなことを考えながら、講師用の休憩室に向かっていた足が止まる。感じたのは、もの言いたげな空気だった。
「山藤さん?」
壁にもたれていた女子高生の顔がぱっと上がる。自分の受け持ちの生徒ではないが、小規模な塾だ。時間外に積極的に喋りかけてくるタイプではないから話したことはあまりないが、お互いに知らない顔じゃない。
「どうかした? 授業の質問だったら、まだ武内先生いると思うから呼んでこようか」
「あ、えっと、違うんですけど。……ちょっと、佐野先生に聞きたいことがあって」
「俺に?」
なんだろうと視線を合わせる。「あのね」とほかの生徒が近くにいないことを確認して尋ねられた内容に、立ち止まらなければよかったと思ったが、後の祭りだ。
「見てたの、山藤さん」
「見てたっていうか。ちょうど、うちのすぐ近くだったんですよ、先生が車から降りたのが。それで、たまたま運転席が見えたっていうか。あの人、サッカーの折原選手ですよね。佐野先生、折原さんとお友達なんですか?」
期待に輝く瞳に苦笑する。なんであいつは無駄に目立つんだとぼやきたくなるのは八つ当たりに近い。
「高校のときの後輩。今日はたまたま会って、話してるうちに、こっちに遅れそうになって。それで送ってもらったんだ。でも、それだけで、普段はぜんぜん会わないよ」
誤魔化そうかとも考えたが、周囲に聞かれないように配慮をしてくれる子なら問題ないだろう。
予想どおり、山藤さんは「そうなんですか」と応じただけだった。落胆の色は滲んでいるものの、追及のそぶりもない。
「気をつけて帰ってね、また来週」
講師の顔で会話を切り上げると、弾かれたように小さい頭が下がる。出入り口へと消えていったのを見届けて、なんだかなと首を捻ってしまった。もやもやとした悪感情が腹に溜まる。あの子が悪いわけではないし、折原が悪いわけでもない。
あいつの車に乗ることになったのは不可抗力だったと思うし、人目を気にして、目的地だったアルバイト先から距離のあるところにとめさせたのは俺だ。ただ。溜息を呑み込んで、歩き出す。
昔はこうじゃなかった。たしかに高校生だったころから目立っていたけれど、こんなふうではなかった。今となっては、次元が違う。
学内で女の子に囲まれることはあっても、見ず知らずの誰かに声をかけられることもなければ、勝手に写真を撮られるようなこともなかった。
それなのにと思う。それなのに、なにをあいつはまた血迷っているんだか。
――俺は先輩のこと、そういう意味で好きでしたよ。たぶん、今も、ずっと。
勝手に頭のなかで、その声が何度も再生される。苦しそうな瞳も一緒に。
いまさらだったはずで、捨てたはずだった。あの日に終わらせたはずのものを、なんでそうして突き付ける。
苛立ったのは事実だ。馬鹿だろうと思ったし、実際に言った。けれど、俺は嫌いだとは言えなかった。
おまえなんて好きじゃないと言うことはできなかった。そう言うべきだと理解していたのに。
だから、会いたくなかったんだ。幾度目になるのかわからないことを胸中で繰り返す。昔からそうだ。折原とふたりでいると先のことなんてどうでもいいような錯覚に陥る瞬間があって、俺はそれがたまらなく恐ろしかった。
携帯に届いていたメッセージに気がついたのは、自宅に帰り着いてからだった。表示されていた名前に、指先の動きが鈍る。
聞いてもいいなら、今ここで教えてくださいと。半ば押し切られるかたちで折原と連絡先を交換したのが、数時間前のことだ。
深山にいたころは、ずっと同じ空間で生活をしていたのだ。携帯でやりとりをする必要性は生じようもなかった。だから、折原とメッセージを送り合った記憶はほとんどない。あったとすれば、寮を離れて帰省していた盆休みくらいだ。その内容も、いずれも他愛のないものだったはずだ。返信を強要する雰囲気のかけらもない文面。俺はその気遣いに甘えたまま、一度も返信をしたことがなかったかもしれない。
ためらいを殺して、メッセージを開く。機械的な文字の羅列に目を走らせて、詰めていた息をゆっくりと吐き出した。
――今日は、いきなり押しかけてすみませんでした。
会ったばかりだからだろうか。文字列が折原の声で勝手に再生されていく。
でも、俺は、ひさしぶりに佐野先輩に会えて、すごくうれしかったし、また会いたいって、やっぱり思いました。試合も見に来てくれるとうれしいです。
飾りけのないまっすぐな文章が、なんだかひどく懐かしい。同時に、忘れようとしていた観戦チケットの重みが増した気がした。
来週末に日本である、国際Aマッチ。友達とでも富原さんとでもいいから見に来てください。その台詞とともに押し付けられたものだ。
実際に試合に出るかどうかは当日までわからないが、招集メンバーに含まれていたのはたしかだ。数週間前に街頭で見たワンシーンを思い出す。あれは前回の国際試合だった。所属クラブの成績も上位で、コンスタントにいいプレーを見せているらしいことも知っている。情報源は栞だが、事実なのだろう。
出場するのだろうなと思った。一歩フィールドに足を踏み入れると、空気が変わる。昔から折原はそういう存在だった。天性の、エースストライカー。
その活躍を観客席から見ることを悔しいとは感じない。あのころからずっと思い知っていたことだ。俺と折原は同じではない。たどり着けるところが違う。
けれど、折原がどういうつもりで見に来てほしいと言ったのかはわからなかった。
単純で天真爛漫なようでいて、折原は丁寧に場の空気を読むし、人の感情の機微にも聡い。それは昔から突出した才能を持っていたあいつが、同世代や年上とうまくやっていくために身につけた処世術だったのだろうが。そのあいつが、わざわざ、そんなことを言う。
わからないと匙を投げたくなった。あのころと変わらない笑顔で「先輩」と追いかけてくる折原も。そして、それを満更でもなく思っている、俺のプライドも。
「佐野先生、さよならー」
「もう暗いから気をつけて帰れよ、また来週な」
受け持ちの生徒を玄関先で見送って、小さく息を吐く。大学に入ってすぐに始めたアルバイト先の個人指導塾だ。長く受け持っている生徒ばかりの楽な授業日だったのに、つまらないミスを量産した気がしてならない。先生、それさっきも聞いたという台詞を俺も五回は聞いた。
……せめて、夏休みの講習の準備くらいはして帰るか。
アルバイトを始めてから、もうすぐで三度目の夏だが、塾業界の夏休みは忙しい。今年は受験生の受け持ちが多いからなおさらだ。そんなことを考えながら、講師用の休憩室に向かっていた足が止まる。感じたのは、もの言いたげな空気だった。
「山藤さん?」
壁にもたれていた女子高生の顔がぱっと上がる。自分の受け持ちの生徒ではないが、小規模な塾だ。時間外に積極的に喋りかけてくるタイプではないから話したことはあまりないが、お互いに知らない顔じゃない。
「どうかした? 授業の質問だったら、まだ武内先生いると思うから呼んでこようか」
「あ、えっと、違うんですけど。……ちょっと、佐野先生に聞きたいことがあって」
「俺に?」
なんだろうと視線を合わせる。「あのね」とほかの生徒が近くにいないことを確認して尋ねられた内容に、立ち止まらなければよかったと思ったが、後の祭りだ。
「見てたの、山藤さん」
「見てたっていうか。ちょうど、うちのすぐ近くだったんですよ、先生が車から降りたのが。それで、たまたま運転席が見えたっていうか。あの人、サッカーの折原選手ですよね。佐野先生、折原さんとお友達なんですか?」
期待に輝く瞳に苦笑する。なんであいつは無駄に目立つんだとぼやきたくなるのは八つ当たりに近い。
「高校のときの後輩。今日はたまたま会って、話してるうちに、こっちに遅れそうになって。それで送ってもらったんだ。でも、それだけで、普段はぜんぜん会わないよ」
誤魔化そうかとも考えたが、周囲に聞かれないように配慮をしてくれる子なら問題ないだろう。
予想どおり、山藤さんは「そうなんですか」と応じただけだった。落胆の色は滲んでいるものの、追及のそぶりもない。
「気をつけて帰ってね、また来週」
講師の顔で会話を切り上げると、弾かれたように小さい頭が下がる。出入り口へと消えていったのを見届けて、なんだかなと首を捻ってしまった。もやもやとした悪感情が腹に溜まる。あの子が悪いわけではないし、折原が悪いわけでもない。
あいつの車に乗ることになったのは不可抗力だったと思うし、人目を気にして、目的地だったアルバイト先から距離のあるところにとめさせたのは俺だ。ただ。溜息を呑み込んで、歩き出す。
昔はこうじゃなかった。たしかに高校生だったころから目立っていたけれど、こんなふうではなかった。今となっては、次元が違う。
学内で女の子に囲まれることはあっても、見ず知らずの誰かに声をかけられることもなければ、勝手に写真を撮られるようなこともなかった。
それなのにと思う。それなのに、なにをあいつはまた血迷っているんだか。
――俺は先輩のこと、そういう意味で好きでしたよ。たぶん、今も、ずっと。
勝手に頭のなかで、その声が何度も再生される。苦しそうな瞳も一緒に。
いまさらだったはずで、捨てたはずだった。あの日に終わらせたはずのものを、なんでそうして突き付ける。
苛立ったのは事実だ。馬鹿だろうと思ったし、実際に言った。けれど、俺は嫌いだとは言えなかった。
おまえなんて好きじゃないと言うことはできなかった。そう言うべきだと理解していたのに。
だから、会いたくなかったんだ。幾度目になるのかわからないことを胸中で繰り返す。昔からそうだ。折原とふたりでいると先のことなんてどうでもいいような錯覚に陥る瞬間があって、俺はそれがたまらなく恐ろしかった。
携帯に届いていたメッセージに気がついたのは、自宅に帰り着いてからだった。表示されていた名前に、指先の動きが鈍る。
聞いてもいいなら、今ここで教えてくださいと。半ば押し切られるかたちで折原と連絡先を交換したのが、数時間前のことだ。
深山にいたころは、ずっと同じ空間で生活をしていたのだ。携帯でやりとりをする必要性は生じようもなかった。だから、折原とメッセージを送り合った記憶はほとんどない。あったとすれば、寮を離れて帰省していた盆休みくらいだ。その内容も、いずれも他愛のないものだったはずだ。返信を強要する雰囲気のかけらもない文面。俺はその気遣いに甘えたまま、一度も返信をしたことがなかったかもしれない。
ためらいを殺して、メッセージを開く。機械的な文字の羅列に目を走らせて、詰めていた息をゆっくりと吐き出した。
――今日は、いきなり押しかけてすみませんでした。
会ったばかりだからだろうか。文字列が折原の声で勝手に再生されていく。
でも、俺は、ひさしぶりに佐野先輩に会えて、すごくうれしかったし、また会いたいって、やっぱり思いました。試合も見に来てくれるとうれしいです。
飾りけのないまっすぐな文章が、なんだかひどく懐かしい。同時に、忘れようとしていた観戦チケットの重みが増した気がした。
来週末に日本である、国際Aマッチ。友達とでも富原さんとでもいいから見に来てください。その台詞とともに押し付けられたものだ。
実際に試合に出るかどうかは当日までわからないが、招集メンバーに含まれていたのはたしかだ。数週間前に街頭で見たワンシーンを思い出す。あれは前回の国際試合だった。所属クラブの成績も上位で、コンスタントにいいプレーを見せているらしいことも知っている。情報源は栞だが、事実なのだろう。
出場するのだろうなと思った。一歩フィールドに足を踏み入れると、空気が変わる。昔から折原はそういう存在だった。天性の、エースストライカー。
その活躍を観客席から見ることを悔しいとは感じない。あのころからずっと思い知っていたことだ。俺と折原は同じではない。たどり着けるところが違う。
けれど、折原がどういうつもりで見に来てほしいと言ったのかはわからなかった。
単純で天真爛漫なようでいて、折原は丁寧に場の空気を読むし、人の感情の機微にも聡い。それは昔から突出した才能を持っていたあいつが、同世代や年上とうまくやっていくために身につけた処世術だったのだろうが。そのあいつが、わざわざ、そんなことを言う。
わからないと匙を投げたくなった。あのころと変わらない笑顔で「先輩」と追いかけてくる折原も。そして、それを満更でもなく思っている、俺のプライドも。



