夢の続きの話をしよう(上)【期間限定再録】

 フェンスの向こう側は、懐かしいようで遠い世界だった。ホイッスルの音。ギャラリーの歓声。選手やコーチの声。次々と飛び込んでくる刺激のうち視覚だけは、フェンスを囲む見学客の背に遮られてほとんどが封じられていた。
 直視しなくてすんだことに安堵して、その思考に嫌気が差す。頭から追いやりたくて、暑くないのだろうかとどうでもいいことを考える。
 道路をはさんだ先の練習場はフェンスで囲まれていた。そのフェンスの周辺には、俺のいるところと違って日陰もないのに、見物客が所狭しと張り付いている。栞が言っていたように若い女の子の姿が多い。そして、俺のように無理やり連れてこられたらしい同伴者が、距離を置いた木陰でたむろしていた。
 ――駄目だな、やっぱり。
 思考を逸らすことを諦めて、足元に視線を落とす。視界に入らなくても、サッカーの熱は十分に伝わってくる。膝の疼きまで覚えて、馬鹿みたいだと自分に呆れた。もうそこには、なにもないのに。
 全国屈指の強豪と言われていた深山の練習は、厳しかったと思う。当時は目の前のことをこなすことに、ただ必死だったけれど。調子が下がれば、すぐに二軍に落ちる。実力主義の世界だった。
 それでも楽しかった思い出も多い。気心の知れた富原たち同期の仲間がいて、折原がいた。勝手にあふれそうになっていた記憶が、高く響いたホイッスルの音でかき消される。
 顔を上げると、ギャラリーのいるフェンス周辺が一段と華やいでいた。練習が終わったあとにファンの子と交流する時間を取ってくれてるんだよ。栞の説明を思い出して、得心する。若手選手目当てと思しき女の子たちの声がキンキンと耳についた。
 プロの選手も大変だと他人ごとの調子で苦笑する。庄司がいたら、嫌な顔をしたに違いない。そこまで考えて、でもと思った。
 でも、あのなかに、あいつはいるんだな。
 ファンの持ってきたユニフォームにサインをしたり、差し入れを受け取ったり。栞に言われるまでもなく、選手とファンの交流でしかない場面が続く。
 眺めているうちに、ギャラリーの切れ目からひとりの選手が見えた。その姿に、あ、と短い声が漏れそうになる。
 懐かしい顔だった。子どもの順番になると、ごく自然に屈んで視線を合わせる。画面越しではない笑顔に目が釘付けになった。けれど、それだけだ。懐かしい以外の感慨は湧かない。
 危惧していた動揺を覚えなかったことに安堵して、フェンスの一番端で待ち構えている栞へと視線を移した。
 あのとなりに行って喋りたいとは思えないが、遠くから見ている分には心は乱されない。それがわかっただけでも、この茶番に付き合ったかいはあったかもしれない。
 栞と話す余所行きの笑顔は、昔はあまり見なかった表情だった。子どもから大人になったのは顔つきだけではなく、身体つきもだ。成長途中だった薄い身体ではない、厚みのあるそれ。
 三年。一緒に過ごさなかった時間のなかで起きている変化に圧倒されながら、頼まれごとに意識を戻す。子どもにしていたのと変わらない対応。栞の後ろに並んでいるファンがいないから、少しだけ言葉を交わす時間は長いのかもしれない。
 ――だから、言っただろ。
 当たり前のことを確認して、それでも少しだけ安心した。庄司が妙な勘繰りをするからだ。内心で八つ当たりしていると振り返った栞と目が合った。完全に不意打ちだった。栞がなにか言ったのか、折原の視線が動いて、表情が固まる。その唇が「先輩」と動いたような気がして、とっさに下を向く。けれど、そんな行動の意を介さない声が響いた。
「っ、先輩!」
 同時に、ガシャンと派手にフェンスが鳴った。その音と折原の声に、立ち去ろうとしていた見学客の足が止まる。
「先輩、佐野先輩!」
 なんだ、その必死な声は。痺れたように動かない頭で、そんなことを思った。けれど、思うだけだ。突き刺さる視線を感じながらも、顔を上げることができない。
 動揺を覚えない、なんて嘘だ。折原が俺を認識したと悟った瞬間に、建前は吹き飛んだ。このまま人違いのふりで背を向ければ、なかったことになるだろうか。
「佐野?」
 浮かんだ逃げ道を断つ栞の呼びかけに、息が詰まった。
「折原くんのこと知ってたの?」
 一個人として、という意味だ。戸惑いと驚きを含んだ声に、諦めて顔を上げる。先輩の自分がどんな顔をしていたかなんて、覚えているわけがない。それでも取り繕うしかなかった。
 大丈夫と念じて、足を踏み出す。フェンスをはさんだだけで一メートルも離れていないところに折原がいる。この至近距離で直視する気にはなれなくて、さりげなさを装って栞に話しかける。
「後輩」
「え? 折原くんが? 佐野の?」
「高校のときのな、それだけ。会うのも、かなりひさしぶりだけど」
「佐野、公立の高校だって言ってなかったっけ」
「佐野先輩、高二の終わりまで深山だったんですよ、だから。というか、会うのがひさしぶりなのは、先輩がどれだけ誘っても深山の飲み会に顔を出さないからじゃないですか」
 栞の疑問に答えたのは折原だった。呼びかけたときの声が俺の聞き間違いだったのではないかと思うような、さらりとした声。それがあまりにも昔と変わらなかったから、半ば無意識に折原に視線を向けてしまった。
 記憶よりも大人びた顔が、にこりとほほえむ。どこか作り物めいていたものとは違う、懐かしい笑顔。
「ね、先輩。俺、背伸びたでしょ」
 離れたところから見ていたときに思っていたことを、折原が口にする。当たり前だろと応じるかわりに、黙ってその顔を見上げた。あのころは、身長はほとんど変わらなかった。
「覚えてねぇよ、そんな何年も前のこと」
 感傷を振り捨てて、そっけなく答える。それなのに、折原は「あいかわらずだな、先輩は」とうれしそうな顔のままだ。
「というか、佐野、折原くんと同じ高校でサッカーやってたの? めちゃくちゃ意外なんだけど」
「意外って。今も似たようなことしてるだろ」
 割り込んでくれた声にほっとして、栞に向き直る。あの顔に引きずられそうになっていたことに、いまさらになって気がついた。心臓が嫌なふうにざわめいている。自分の声がいつもと変わらない響きを保っていることだけが救いだった。
「だってさ、佐野、サッカー下手じゃん」
「そんなことないよ。先輩、上手だよ」
「嘘でしょー。折原くん、先輩だからって佐野なんか立てなくていいのに。だって、佐野、フットサルの試合に出たときもひどかったもん」
「先輩、フットサルしてるの?」
「ほら。そうやって今も続けてるのが意外だって思うレベルだったんでしょ」
「あ、……いや、そういうわけじゃなくて」
 折原が言い淀んだ理由がわかって、「栞」と帰るぞとの意思表示で名前を呼ぶ。そんな昔の話を折原の口から聞きたくない。
「えー、帰るの?」
 まだいいじゃないと言いたげな口ぶりだったが、一拍置いてしかたないかと栞が頷いた。自分たち以外に周囲に人は残っていない。
「先輩、もう帰るの?」
「おまえも早く戻れば? もうおまえ以外は誰も残ってねぇみたいだけど」
 事実を告げただけだ。それなのに、折原はどことなく寂しそうな、不本意そうな顔をする。ひさしぶりに会った先輩とすぐに離れるのが惜しいのかもしれないが、俺はそうじゃない。
「じゃあ、今度、どこかごはんでも行きません? 俺、佐野先輩ともっと話したい」
 後輩の顔でねだられることに弱いとわかってやっているのだろうか。溜息を呑み込む。
「先輩」
「……時間があったらな」
 ただの口約束だ。それでも返事をするのに間が空いてしまった。それ以上のやりとりから逃げるように、背を向ける。愛想のない俺の分までにこやかに手を振っている栞を促して歩き出すと、知らず入っていた力が肩から抜けた。背中に感じる視線には気がつかないふりで、一度も振り返りはしなかった。
 この距離でいいのにと天をあおぎたい気持ちでいっぱいだった。フェンスをはさんだ、決して触れ合うことのない距離。
 それなのに、なんで、おまえは乗り越えてこようとするんだ。


「折原くんってさ、どんなときでもにこにこしてるし、怒ったりとか、機嫌の悪そうな対応とか、そういうの絶対にしないんだよね」
 佐野は知ってるかもしれないけど、と栞が呟いた。帰りの電車のなかだ。同じ道のりなのに、来たときよりも、長く遅く感じる。
「だから、あたし、びっくりしたんだよね。佐野先輩って佐野を呼んだときの折原くんが、すごく必死な顔に見えて」
「……」
「あぁ、あんな顔もできるんだなって。人間なんだから当たり前なんだろうけど」
 栞もそう言うのなら、俺の見間違いでも聞き間違いでもなかったのかもしれない。
「そりゃ、まぁ、そうだろ」
 完璧な人間なんて、いるわけがない。たしかにあの後輩は、昔から感情のコントロールに長けていた。不機嫌さをあらわにするようなことは滅多になかったし、人を悪く言ったりするようなこともなかった。けれど、いつも変わらない調子で笑っているからといって、なにも感じていないわけがない。
「それで、まぁ、だからってわけじゃないんだけど」
「なんだよ」
「もうちょっと優しくしてあげてもいいのにと思って」
 責める色の混ざったそれに、ちらりと視線を向ける。
「あんなに懐いてくれてる後輩なんだよ。優しくしてあげても罰は当たらないと思うけどなー。なんか、佐野、すごく冷たかったよ」
「そんなことはない……つもりだけど」
 言い切れなかったのは罪悪感のなせるわざだったのかもしれない。実力のかけ離れた後輩への嫉妬だとでも思ったのか、栞が「ならいいけど」と肩をすくめる。
 電車が減速して、栞の降車駅への到着を告げた。
「今日は付き合ってくれてありがとね。ついでに庄司にちゃんと伝えておいてくれると助かる!」
 元気のいい声を残して、ドアが閉まる。栞のいなくなった車内で、俺はやっと小さく息を吐いた。
 優しくしてるつもりなんだよ、これでも。言うつもりもない言い訳がうちに溜まる。
 折原を見て思った。あいつはちゃんと割り切って今を生きている。その上でひさしぶりに会った俺が懐かしかったんだろう。それは正しい。けれど、俺はそうじゃない。
 先輩と。あのころと変わらない声で折原が呼んだとしても、込められた意味合いも感情も違う。わかっていたのに、あのころに引きずられそうになってしまった。
 だから、突き放したんだよ。言い聞かせるように内心で呟く。顔を合わせることになったのは想定外だったが、あの対応で問題なかったはずだ。ただ二度目はないとも思った。
 もしも次に会うことがあるとすれば、それは俺が自分の感情に明確な区切りをつけたあとの話だ。その区切りをつけられる日がいつになるのかは、今の俺には想像もできない。