夢の続きの話をしよう(上)【期間限定再録】

 終電間際の乗り継ぎの悪さもあいまって、ひとり暮らしをしているアパートにたどり着いたころには日付が変わっていた。
 理由は考えたくないが、ひどく疲れた気分だった。余計なことはこれ以上考えずに寝てしまいたい。その逃避を咎めるようなタイミングで携帯が振動する。
 無視しようかとも思ったが、思いのほか振動はやまない。諦めて携帯に手を伸ばした。そして表示されていた名前にわずかに瞠目する。
 ――重なるときには、重なるもんだな。
 溜息のような声が知らず漏れる。深山学園に在籍していた当時に親しくしていたチームメイトの富原からだった。
 ためらいを無視して通話ボタンを押すと、ほっとした声が「佐野」と俺を呼んだ。
「電話珍しいな、どうした?」
「いや。ひさしぶりにどうしてるかなと思って」
 そんな理由で電話はしてこないだろう。わかっていながら、「付き合いたてのカップルか」と軽口で返す。昔と同じ調子を持ち出せば、富原も笑った。
 懐かしい笑い方だった。困ったように眉を下げて笑っていた顔が頭に浮かぶ。根っからの部長気質だった旧友は、貧乏くじもよく引かされていた。要領が悪いのか、人がよすぎるのか、いつも嫌な顔ひとつせずに「しかたないな」で引き受けていたけれど。
 芋づる式に思い出しそうになった記憶に蓋をして、続きを促す。
「このあいだのメールの返事、聞こうと思ってな。深山の飲み会。参加はどうする?」
「悪い、返すの忘れてた」
「それは、まぁ、いいんだけどな。それで、どうだ? 一回くらい顔出さないか?」
 気を使われているのがわかる声音に、携帯を握る手に力が入った。昔のチームメイトたちからの飲み会の誘いが富原を経由してくるのははじめてじゃない。けれど、富原にそんなふうに問われたのははじめてだった。
「おまえが、それ言うの」
 ずるいと理解していて、言った。本当はわかっている。富原が急に思い立って苦言を呈しているわけではないことは。もう三年も前のことだと俺でさえ思ったのだ。故障を抱えてサッカーから離れたことも、深山を去ったことも。
 あの当時のチームメイトで、プロの選手になった人間は少ない。富原のように推薦で入った大学でサッカーに打ち込んでいる仲間もいるが、高校卒業を区切りにやめた者も何人もいる。
 あのころみたいに、サッカーがすべての世界にいるわけでないことは知っている。
 言い淀んだ気配のあとで、富原が「でもな」と言葉を継ぐ。
「みんな会いたがってる。山路も磯川も、――折原も」
 どう応じるべきか悩んだ。あのころと違うことは頭では理解していた。昔の仲間と会ったところで、なにも変わらないということも。
 高校生だったころの俺たちの世界は、サッカーだけで閉じていた。今はそうではない。理解していても、富原や折原がいるところに顔を出す気にはなれなかった。その空気に触れた瞬間に、自分のなかのなにかが過去に戻りそうな不安があった。
 黙っていると、富原が世間話の調子で話し出した。
「おまえがフットサルのサークルに入ったって聞いたときは、うれしかったんだけどな」
「ほぼ飲みサーだけどな」
「それでも、おまえがまたサッカーに関わり出したんだって、そのことが」
 あの広いフィールドとはまったく違うし、やっている人間もまったく違うけどな。心のうちでだけ、反論する。
「なぁ、佐野」
「なんだよ」
「そろそろ俺は、折原に恨まれてると思うんだが」
「なんでだよ」
 わかっているだろうと言いたげに、富原が苦笑する。
「おまえの話ばっかりだよ、酒が入ると。佐野先輩、佐野先輩って。富原さんは佐野先輩と連絡取ってるんでしょって」
「……しかたねぇな、あいつ」
 スクリーンに映っていた笑顔が、簡単に脳裏に浮かんだ。相槌を打つ自分の声がいつもどおりであればいいと思った。けれど、気がつかれているかもしれない。退寮の日に余計な気を回してきたのも、富原だった。
「あいつも思うところはあるんだと思うぞ。あの折原が、酒が入らなかったらおまえの話を一切しないんだ」
 あれだけおまえに懐いていたのに、連絡先も教えるなっておまえは言うし。責める響きのこもった声に、曖昧に答えを濁す。
 富原はこれにも気がついていたのだろうか。考えても意味のないことをふと思った。
 俺の屈折したサッカーへの想いだとか、俺と折原のあのころの言葉にできないような関係だとかに。
「でも、悪い。二十日の木曜だったよな。俺、その日はバイト入ってるんだわ」
「じゃあ次は早めに日程決めるから、調整しろよ。おまえの都合優先で組んでやるから」
 言質を要求する富原の台詞に、明言を避けたまま通話を切る。やっとひとりになった部屋で、俺は深い溜息を吐いた。富原と話していてもここは深山の寮ではない。ひとり暮らしをしているアパートで、俺は大学生になった。
 世界は、変わったのだろうか。
 流れる時間のなかでさまざまなものが変わっていくことは当たり前で、そうでなければならないとわかっている。
 折原は立ち止まってなんていない。着実に前へと進んでいる。富原も、ほかのやつらもそうだ。自分で選んだ岐路の先を歩んでいる。
 俺だけが、いつまでもあの世界に立ち尽くしている。


「先輩」
 振り返らなくても、折原が俺を呼んでいるのだとすぐにわかった。大所帯だったサッカー部には後輩は何人もいたし、先輩と呼称されるべき人間も何人もいた。けれど、折原の声は、どこからでもまっすぐに俺に届いた。それが、なぜかなんてことは知らないけれど。
 誰もいなくなった部室で、寮の非常階段で。何度かキスをした。一度だけ、互いの性器に触れたこともあった。けれど、それもぜんぶ集団生活のなかで性欲が溜まったせいだと思おうとしていた。その相手になんで俺を選んだのかも、知らない。それでいいと考えていた。
 ただ、「先輩」と俺を呼ぶ折原の声に甘いものが混ざり始めたときに、まずいなとは感じた。
 こいつは、男だらけの日々のなかで、とんでもない勘違いを抱き始めているのではないかと。ただの性欲処理ではなくなってきているのではないかと。
 このままではいけないということも、いつか歯止めが利かなくなることもわかっていた。そのはずだったのに、折原の声で「先輩」と呼ばれると駄目だった。とめられないままに、なし崩しに落ちていく。
 それでも頭の片隅に残った理性の一部は、ずっと警告を発していたように思う。気がつかないふりを通すことができたのは、卒業すれば終わりになると考えていたからだ。すぐに過去になって、消えていく。それだけのもの。そう思い込もうとしていた。
 俺が卒業するまで続くはずだった日常が、予期せぬ膝の故障で早くに終わることになっても、それは変わらないはずだった。
 高校二年生の冬の選手権の決勝戦だった。その日に競技者としての道を絶たれて、深山から離れることを選んだ。
 逃げたのだと理解している。これで終わりだと繰り返して、あの場所を去った。あの世界とはもう交わることはないと思っていた。