「おまえ、よくあの人に絡めるよな。怖くね?」
「あの人って佐野先輩? べつに怖くはないけど」
どこがどういい人かと問われると、説明しづらいところはあるかもしれないけど。そう思いながら、一応の否定をする。
ままあったことだ。なんらかのタイミングで同学年の部員だけの空間ができあがると、上級生や部活動への愚痴大会が始まる。登場する名前も似たり寄ったりで代わり映えもない。
やれ、あの人は裏で意地の悪いことばかりをする。あの人は気分によって態度が変わるから面倒だ。そんな批判のなかで佐野先輩の名前が出ることもあった。
「おまえはそう言うけど。不愛想だしとっつきづらいし。富原先輩は優しいし、俺らの話もちゃんと聞いてくれるけど」
おまえが勝手に怖がって話しかけないからだろ。思ったけれど、教えてはやらなかった。どうしようもない俺の独占欲。
愛想がいいとお世辞でも言える人ではないけれど、話しかけた相手の気持ちを無下にするような人でもない。返ってくる言葉をきつく感じたとしても、本心から発せられたものなら気にならない。自分にすり寄ってきて、それでいて裏で悪口を言うような人間に比べれば、ずっと。
「富原さんはわかりやすく優しいから。さすが部長というか」
「佐野先輩だって副部長だろ、一応。ぜんぜん俺らのこと見てくれねぇけど」
「それはないって。言わないだけで見てくれてると思うけど」
「そりゃおまえのことは見てるかもな。なんたってエース様だし」
「でも折原に対してもけっこうきついけどな。僻まれてんじゃねぇの」
笑い声の生じた輪のなかで、適当に笑顔を張り付ける。必要以上に反論するのも面倒くさい。
――だから、俺はそういう流れがいやなんだって。
愚痴りたいのは山々だが、思うだけだ。昔から目立つ部類の人間だという自覚はある。やっかみを受けている自覚もある。だから、ある程度の一線を越えない限りは気にしないことにしている。そうでなければ、やっていられなかった。だからといって、気分のいいものではないけれど。
「折原、あの人のどこがそんなにいいの、マジで」
そうやっておまえらみたいに陰口言わないところだよ、と言うかわりに、能天気に笑って応じる。
天真爛漫。人当たりのいい折原藍。チームメイトのもつ自分のイメージは、そんなところだろう。まったくの間違いではないが、意図的につくっているものであることも、また事実だった。
「んー、俺のことも普通に蹴ったりしてくれるとこかな」
潜ませた嫌味に気がつかないまま、同級生たちが笑う。脱線して盛り上がり始めた輪から外れて、練習着を頭からひっこぬく。
早くシャワーを浴びて、飯食って、宿題して。そういうことをぜんぶすませて、佐野先輩に会いに行きたい。少しの時間でもいいから。なんて思って、あの人の寮室に入り浸っていたら、同室のやつとうまくいっていないのかと余計な心配をさせてしまった。そういうふうに見ていてくれることも、知ろうとしないんだろうなぁ。
まだ着替え途中で喋っている集団をちらりと窺う。得たのは説明のしがたい優越感だった。俺だけが知っていればいいと思ってしまう。そんな感情はおくびにも出さないまま、「お先」と笑って部室を出る。外はもう暗く、遠くに見える寮の明かりが、灯台のように帰る場所を主張していた。
俺だけが知っていればいい。そんなふうに思うようになったのは、いつからだっただろう。
俺のことを「天才」と区別せずに、ひとりの後輩として接するのだと一番に示してくれた人。深山に入ったばかりの俺が、あの人に懐いた理由としては、十分すぎるものだった。それがいつしかかたちを変えていくとは、あのころは想像もしていなかったけれど。
それでも、ひとつだけわかっていたことはあった。
俺は、佐野先輩がいなかったら、サッカーという競技を嫌いになっていたかもしれない。やめるようなことはなかったと思うけれど、「楽しい」、「好きだ」という感情でボールに触れることはできなくなっていたかもしれない。佐野先輩に言ったところで、「そんなわけはない」と一蹴されることは目に見えていた。けれど、そうだった。
深山でやっていたサッカーが一番楽しかった。佐野先輩とするのが好きだった。そのどちらもが本音だったのに、口にするたびに佐野先輩は困ったような顔で否定した。まるで俺に言い聞かせるように。
こんな言い方をすると大げさすぎるのかもしれない。けれど、俺にとって、少なくとも、深山に在籍していた当時の俺にとって、佐野先輩は神様みたいな人だった。この人だったらと思えるような、世界の絶対。それも佐野先輩は、子どもゆえの狭い世界の錯覚だと、眉をひそめて否定するとわかっていたけれど。
「本当によかったのか、折原」
「なにがですか?」
「なにが、というよりかは、ぜんぶかな」
半ば突っかかるように問い返したにもかかわらず、富原さんは怒りも呆れもしなかった。ただ静かに問い重ねてくる。昔から変わらないというのは、俺じゃなくてこの人のことを言うんだろうなと思う。
電話越しだ。顔は見えていないけれど、困ったように笑っている姿はたやすく想像できた。いつまでも俺の面倒を見て大変だよなとも思うけれど、この人の性分なのだろう。あるいは、佐野先輩の面倒を見るついでに俺に電話をかけてくれているのかもしれない。
異国の地で借りた部屋は静かすぎて、なんだか落ち着かない。それでもそのうち慣れるのだろうけれど。そんなものだ。だいたいのものは、いつのまにか慣れて馴染んで、なかったことになっていく。
「囲まれたときのことなら、俺は逆切れしたつもりはないですよ?」
「おまえがそういうタイプじゃないことは、よくよく知ってる」
「それはそれで、ぜんぶ計算だって言われてるみたいであれだな」
「でも、あながち外れてもないだろう?」
「まぁ、そうですけど」
不貞腐れた色の混ざった返事に富原さんが笑う。「責めてるつもりはないんだけどな」
「それもわかってますけど。でも、深山には悪かったかな、とは」
全寮制の学校出身の日本代表選手がゲイをカミングアウトとか。格好のネタだろう。在校生が興味本位の視線に晒される可能性を鑑みれば、罪悪感は湧く。
「どうせすぐにみんな気にしなくなるさ。そんなもんだろう」
「人の噂も、ってやつですね」
「それでも一度広まれば、消えない痕としてずっと残ってしまう」
「……」
「と、佐野なら思うんだろうけどな」
「あの人は、そういう人だから」
頭のなかで少し悩んで選んだのは、当たり障りのない言葉だった。電話の先で沈黙を守っていた富原さんが、「馬鹿なんだ」とさらりと言い放った。
「よく俺が言われてましたけどね、それも」
「そうだな。でも、俺から見ると、視野が狭いのもおまえじゃなくて佐野だと思うし、かたくななのもおまえじゃなくて佐野だと思うよ」
「俺もそう思ってます」
富原さんの佐野先輩評はさすがの一言だ。すごいなと思って、同時にずるいとも思った。俺がずっと入り込めなかった場所に、この人は最初からいられたんだから。
「思ってますし、わかってます。でも」
そっと息を吐いて、顔を上げる。浮かぶのは、最後に別れたときの顔ばかりだ。あの人は、自分がどんな顔をしていたのか、絶対にわかっていない。
「俺、佐野先輩に選んでほしいんですよ。あの人の手で、俺を」
俺が押し続けたら、いつか折れてくれるんじゃないだろうか。そう思ったことは何度もある。けれど、それでは意味がない。
「言ったでしょ、俺。気は長いって」
待っていて得た結果がどちらを向いていても構わない。ただ、俺と、――そして、先輩自身の本音と向き合って答えを出してほしかった。
「あの人って佐野先輩? べつに怖くはないけど」
どこがどういい人かと問われると、説明しづらいところはあるかもしれないけど。そう思いながら、一応の否定をする。
ままあったことだ。なんらかのタイミングで同学年の部員だけの空間ができあがると、上級生や部活動への愚痴大会が始まる。登場する名前も似たり寄ったりで代わり映えもない。
やれ、あの人は裏で意地の悪いことばかりをする。あの人は気分によって態度が変わるから面倒だ。そんな批判のなかで佐野先輩の名前が出ることもあった。
「おまえはそう言うけど。不愛想だしとっつきづらいし。富原先輩は優しいし、俺らの話もちゃんと聞いてくれるけど」
おまえが勝手に怖がって話しかけないからだろ。思ったけれど、教えてはやらなかった。どうしようもない俺の独占欲。
愛想がいいとお世辞でも言える人ではないけれど、話しかけた相手の気持ちを無下にするような人でもない。返ってくる言葉をきつく感じたとしても、本心から発せられたものなら気にならない。自分にすり寄ってきて、それでいて裏で悪口を言うような人間に比べれば、ずっと。
「富原さんはわかりやすく優しいから。さすが部長というか」
「佐野先輩だって副部長だろ、一応。ぜんぜん俺らのこと見てくれねぇけど」
「それはないって。言わないだけで見てくれてると思うけど」
「そりゃおまえのことは見てるかもな。なんたってエース様だし」
「でも折原に対してもけっこうきついけどな。僻まれてんじゃねぇの」
笑い声の生じた輪のなかで、適当に笑顔を張り付ける。必要以上に反論するのも面倒くさい。
――だから、俺はそういう流れがいやなんだって。
愚痴りたいのは山々だが、思うだけだ。昔から目立つ部類の人間だという自覚はある。やっかみを受けている自覚もある。だから、ある程度の一線を越えない限りは気にしないことにしている。そうでなければ、やっていられなかった。だからといって、気分のいいものではないけれど。
「折原、あの人のどこがそんなにいいの、マジで」
そうやっておまえらみたいに陰口言わないところだよ、と言うかわりに、能天気に笑って応じる。
天真爛漫。人当たりのいい折原藍。チームメイトのもつ自分のイメージは、そんなところだろう。まったくの間違いではないが、意図的につくっているものであることも、また事実だった。
「んー、俺のことも普通に蹴ったりしてくれるとこかな」
潜ませた嫌味に気がつかないまま、同級生たちが笑う。脱線して盛り上がり始めた輪から外れて、練習着を頭からひっこぬく。
早くシャワーを浴びて、飯食って、宿題して。そういうことをぜんぶすませて、佐野先輩に会いに行きたい。少しの時間でもいいから。なんて思って、あの人の寮室に入り浸っていたら、同室のやつとうまくいっていないのかと余計な心配をさせてしまった。そういうふうに見ていてくれることも、知ろうとしないんだろうなぁ。
まだ着替え途中で喋っている集団をちらりと窺う。得たのは説明のしがたい優越感だった。俺だけが知っていればいいと思ってしまう。そんな感情はおくびにも出さないまま、「お先」と笑って部室を出る。外はもう暗く、遠くに見える寮の明かりが、灯台のように帰る場所を主張していた。
俺だけが知っていればいい。そんなふうに思うようになったのは、いつからだっただろう。
俺のことを「天才」と区別せずに、ひとりの後輩として接するのだと一番に示してくれた人。深山に入ったばかりの俺が、あの人に懐いた理由としては、十分すぎるものだった。それがいつしかかたちを変えていくとは、あのころは想像もしていなかったけれど。
それでも、ひとつだけわかっていたことはあった。
俺は、佐野先輩がいなかったら、サッカーという競技を嫌いになっていたかもしれない。やめるようなことはなかったと思うけれど、「楽しい」、「好きだ」という感情でボールに触れることはできなくなっていたかもしれない。佐野先輩に言ったところで、「そんなわけはない」と一蹴されることは目に見えていた。けれど、そうだった。
深山でやっていたサッカーが一番楽しかった。佐野先輩とするのが好きだった。そのどちらもが本音だったのに、口にするたびに佐野先輩は困ったような顔で否定した。まるで俺に言い聞かせるように。
こんな言い方をすると大げさすぎるのかもしれない。けれど、俺にとって、少なくとも、深山に在籍していた当時の俺にとって、佐野先輩は神様みたいな人だった。この人だったらと思えるような、世界の絶対。それも佐野先輩は、子どもゆえの狭い世界の錯覚だと、眉をひそめて否定するとわかっていたけれど。
「本当によかったのか、折原」
「なにがですか?」
「なにが、というよりかは、ぜんぶかな」
半ば突っかかるように問い返したにもかかわらず、富原さんは怒りも呆れもしなかった。ただ静かに問い重ねてくる。昔から変わらないというのは、俺じゃなくてこの人のことを言うんだろうなと思う。
電話越しだ。顔は見えていないけれど、困ったように笑っている姿はたやすく想像できた。いつまでも俺の面倒を見て大変だよなとも思うけれど、この人の性分なのだろう。あるいは、佐野先輩の面倒を見るついでに俺に電話をかけてくれているのかもしれない。
異国の地で借りた部屋は静かすぎて、なんだか落ち着かない。それでもそのうち慣れるのだろうけれど。そんなものだ。だいたいのものは、いつのまにか慣れて馴染んで、なかったことになっていく。
「囲まれたときのことなら、俺は逆切れしたつもりはないですよ?」
「おまえがそういうタイプじゃないことは、よくよく知ってる」
「それはそれで、ぜんぶ計算だって言われてるみたいであれだな」
「でも、あながち外れてもないだろう?」
「まぁ、そうですけど」
不貞腐れた色の混ざった返事に富原さんが笑う。「責めてるつもりはないんだけどな」
「それもわかってますけど。でも、深山には悪かったかな、とは」
全寮制の学校出身の日本代表選手がゲイをカミングアウトとか。格好のネタだろう。在校生が興味本位の視線に晒される可能性を鑑みれば、罪悪感は湧く。
「どうせすぐにみんな気にしなくなるさ。そんなもんだろう」
「人の噂も、ってやつですね」
「それでも一度広まれば、消えない痕としてずっと残ってしまう」
「……」
「と、佐野なら思うんだろうけどな」
「あの人は、そういう人だから」
頭のなかで少し悩んで選んだのは、当たり障りのない言葉だった。電話の先で沈黙を守っていた富原さんが、「馬鹿なんだ」とさらりと言い放った。
「よく俺が言われてましたけどね、それも」
「そうだな。でも、俺から見ると、視野が狭いのもおまえじゃなくて佐野だと思うし、かたくななのもおまえじゃなくて佐野だと思うよ」
「俺もそう思ってます」
富原さんの佐野先輩評はさすがの一言だ。すごいなと思って、同時にずるいとも思った。俺がずっと入り込めなかった場所に、この人は最初からいられたんだから。
「思ってますし、わかってます。でも」
そっと息を吐いて、顔を上げる。浮かぶのは、最後に別れたときの顔ばかりだ。あの人は、自分がどんな顔をしていたのか、絶対にわかっていない。
「俺、佐野先輩に選んでほしいんですよ。あの人の手で、俺を」
俺が押し続けたら、いつか折れてくれるんじゃないだろうか。そう思ったことは何度もある。けれど、それでは意味がない。
「言ったでしょ、俺。気は長いって」
待っていて得た結果がどちらを向いていても構わない。ただ、俺と、――そして、先輩自身の本音と向き合って答えを出してほしかった。



