夢の続きの話をしよう(上)【期間限定再録】

 今ならまだ家に帰れるからと腰を上げた富原を見送って、携帯に充電器を差し込む。あの朝に電源を落としてから、つけるタイミングを逃し続けていた。低い振動音とともに起動した途端に、メッセージの受信と着信とを知らせてくる。そのうちの半数が折原からで、残りが大学の友人からだった。中身を見ることに覚えた躊躇を無視して開く。そして、そっと閉じた。打つなら、たった一言、返したらいい。それですべてが終わる。そう理解しているのに、それができない。
 本気でどうしようもない。このままでいいわけがないとわかっているのに。
 目を閉じて回想する。浮かぶのは別れたばかりの富原の言葉だった。なんであいつが連絡を取ろうとしていたのか考えなかったのか。考えたよ。でも、嫌だったんだよ。これ以上、振り回されるのが。付き合ってるんじゃないのか。そうなのかもしれないけど、でも、ずっと続くようなもんじゃねぇんだよ。ちゃんと終わらせるつもりだったんだ。
 ――なにを終わらせてやるつもりだったんだ、おまえは。
 呆れたような心配しているような声が、最後に耳の奥で響いて消えた。
 俺は、と思った。そうだ。終わらせるつもりだった。本当に、そのつもりだった。でも。考えるのは、そこまでが限界だった。
 おもむろに立ち上がって、その勢いのままコートだけ羽織って外に出る。冬の外気が冷たくて、寮にいたころを思い出した。
 寒い、と。本当なのか言い訳なのかわからないことを口にして、距離を詰めてとなりに座る。その体温に触れているだけで幸せだった。本当だった。それがいつか忘れなければいけないものだとわかっていても、それだけで十分に幸せだったはずだった。
「先、輩?」
「……折原」
 階段を下りて、共用出入り口をくぐり抜けようとした瞬間。ぶつかりそうになった人影に、心臓が跳ねた。まさかここで出会うとは思っていなかったからか、折原も驚きを滲ませていた。けれどすぐに、覆い隠して笑う。
「どこか行くところでした?」
 おまえに会いに行こうと思っていたとは、言えなかった。ぎこちない笑みを目の当たりにして、言葉が消えた。無理をさせていると嫌でもわかる。
 この瞬間まで俺は、折原は昔と変わらない顔で笑うと思っていた。顔を合わせれば、いつものとおりに。屈託のない顔で、自信に満ちた少年のような顔で。けれどそれも、俺が思い込んでいただけだったのかもしれない。そのことに、今になってやっと気がついた。
「あの、先輩。そんなに凝視しなくても。俺、ストーカーとかじゃないです……よ? というか、そのつもりなんですけど。あれ、でも、俺、わりと先輩のところに押しかけてます?」
 これ、ストーカーなんですかねぇ。苦笑した折原に、ようやく反応を返すことができた。小さく首を振って、もう一度、折原を見上げる。
 いつまでも、子どもじゃない。ここにいるのは、あのころの折原じゃない。当たり前のはずのことを、何度言い聞かせたら俺は理解するのだろう。
「べつに、どこに行くってわけでもなかったんだけど」
「なんですか、それ」
「どこがいい?」
 曖昧に首を傾げた折原に、そっけなく繰り返す。折原に言われたことはなかったが、学生時代の俺と折原との関係を見てきたチームメイトが使った表現のひとつに「横暴」というものがあった。
 おまえ、折原にだったらなに言っても頷くと思ってんだろ。そんなふうに呆れられた夜を思い出す。たぶん、寮の談話室だ。消灯時間が迫るまで、他愛もない話をしていたこともあった。折原は、そんなことはないといつもの顔で笑って否定していた。
 先輩だから、なのだろうか。折原は俺のことを悪く言ったことはないような気がする。その折原の発言を受けて、だから犬だって言われるんだよとからかっていた声。
 真意を探るように向けられていた瞳が、下を向く。
「俺は、先輩と一緒だったら、どこでもよかったんです。本当に、昔から」
 先輩、先輩、と。なんで俺なのかと問いたくなるほどに、折原はずっと俺について回っていた。
「でも、先輩は、それじゃ困りますもんね」
 折原が顔を上げて、笑った。
「今日、車なんです。どこか行くんだったら、送りますよ」
 いつもと変わらない調子だ。けれど、さすがに気がつかないでは通せなかった。今の今まで気がつこうとさえしていなかった自分は、折原のなにを見ていたつもりだったのだろう。
 正解がなになのかもわからないまま頷く。一番近い表現は、罪悪感だった。了承を受けて、折原がかすかに笑った。気を使っているのか、諦めているのか。俺には、もう判断はつかなかった。
 ただ、無理をさせている、ということはわかっていた。今がベストでもベターでもないのだろうということも。


「どのあたりでした?」
「……え?」
「だから、どこか行くつもりだったんじゃないんですか」
 言葉のとおり、近くにとめられていた車に乗り込む。かけられた声はあくまで穏やかだった。繰り返されて、そういえばそんな急場しのぎを言ったと思い当たった。折原が信じているのかどうかは知らないが、そういうことにしてくれたらしい。
「たいした用事じゃなかったし」
「そうですか」
「おまえと会ったから、それはもう、いい」
「先輩」
 折原がふっと息を漏らして、ハンドルに視線を落とした。小さな振動音がしてエンジンがかかる。
「やめてくださいよ、気まぐれでそういうこと言うの」
 ワイパーが鈍く動き出して、霜を削ぎ落としていく。見るともなしに見つめたまま、折原が呟いた。話しかけているというよりかは、独り言に近いように思えた。
「おまえこそ、俺に話があったんじゃないのか」
「それで、今、それですか」
 失笑に呆れた調子が混ざっていたが、しかたがないと思った。ここぞと避けていたのは、俺だ。
「先輩は、なんというか、富原さんにはいつもわりかし素直ですよね」
「そんなことねぇだろ」
「そんなことありますって。俺、けっこうそう思ってましたもん、あのころから」
「……俺は」
「俺が富原さんみたいに先輩と同学年だったら、頼ってくれるのかなぁ、とか」
 折原の目にそんなふうに映っていたのかと少し驚いた。
 たしかにあのころの俺にとって、富原は一番距離の近い友人だったとは思う。けれど、それだけだ。折原を前にするときのように、感情を揺さぶられたことは一度もなかった。
「あのときも、俺に相談してくれたのかな、とか」
「俺は、誰にもしてない」
 それがなにを指しているのかはすぐにわかった。今になってそんな話をしたくなかったのに、否定したい衝動が勝った。
「誰にもしなかったよ、結局。ぜんぶひとりで決めた」
「そうですか」
 頷いたきり、黙り込んでいた折原が静かに口を開いた。「どうしますか」
 ハンドルに腕を置いたまま、視線だけがちらりと向けられる。再会したばかりのころにも、こうやって車中で話していたことがあった。
 あのときと今とで、なにかが変わっただろうか。それとも根本的なところでは、なにも変わっていないのだろうか。わからなかった。
「車出すの、やめときますか」
 ただ、あのときと違い俺を見ようとしない折原の横顔が、ひどく怖かった。怖いと思ったのははじめてかもしれない。けれど、そうとしか言い表せないものが胸のうちに生じていた。
 ずっとまっすぐに自分を見つめていた瞳が、自分に向けられなくなることが嫌だ。そうさせようとしていたのは俺で、だから、身勝手な感情だと理解しているのに。
「選択できなくなるでしょう、自分で」
「べつにいい」
「――え?」
 だとすれば、これは子どもの駄々と同じだ。追いかけられているから、逃げたいと思う余裕があるのだ。興味を失われているとわかると、そうはさせまいとひっぱりたくなる。
「だから、おまえの行きたいところでいいって言ってる」
「……だから。俺もそういうこと言わないでくださいって、言ってると思うんですけどね」
 苦笑すらつくり損ねたような顔で、折原が目を伏せた。
 俺がずっと逃げていたのは、もういらないと折原から通告されることだったのかもしれない。そうならないように、いつも俺が先に逃げていたのかもしれなかった。
「そういえば、知ってました? 先輩。富原さんが選んだ学部」
「あー……、どこだったっけ」
「リハビリテーション」
 折原の腕がハンドルから外れて、シートにもたれかかる。視線は落ちたままだった。
「ぜんぶがぜんぶそうだなんて言いませんけど、あんたのことが頭にあったんじゃないですか」
 富原とそんな話をしたことはなかった。おそらくお互いが暗黙の了解で触れないようにしていたのだと思う。深山を中退してからも、電話で話をすることはあった。けれど、直に会おうと考えたことは一度もなかった。折原と再会するまでは。あの日から、すべてがまた動き始めていた。
「それで、俺もそうです。先輩はひとりで決めたいんだろうってことも一応は理解してるつもりです。でも、そのひとりで決めたことも、結局あとから周囲の人間に影響するんですよ」
「折原」
「だから、ひとりで決めないでください。ねぇ、一応、これ、先輩ひとりの問題じゃなくて、俺と先輩の問題ですよね。もしそこから違うなら、今、言ってください」
 随分とひさしぶりに目が合ったような気がした。
 佐野はさ、と。いつだったか栞が評していた台詞が脳裏をよぎった。佐野はさ、ひとりだとたしかに後ろ向きに考えるけど。でも、周りに背を押してもらったら、違う考え方もできるでしょ。
 合っていると思った。そして、だからひとりで決めたかったのだとも。
 もしもも、たらればもいらない。そんなポジティブな仮定はいらない。そうなるとは限らないのだから。折原が批判されるような、糾弾されるような可能性が、ほんの少しでも残るのなら、いらない。
 だから、決めたかった。あるいは、俺が決断する前に、折原が目を覚ましてくれることを期待していた。
 もうずっと、矛盾ばかりだ。
「折原に会おうと思ってた、本当は」
 するりと零れ落ちたのは、自分でも驚くほど静かな声だった。
「でも、実際におまえの顔見たら、なに言おうとしてたのか忘れた」
「そうですか」
 忘れた。意味もなく繰り返したのは、口にすべき言葉が上滑りしそうだったからだ。本当はわかっている。「おまえには関係がない」と言えば、すべてなかったことになる。それで、終わる。終わらせることができる。
「先輩って、俺のこと、変にすごいって妄信してるわりには、肝心のところでちっとも信用してないですよね」
 沈黙を破ったのは折原だった。
「俺は本当にどうでもいいんですよ。周りになにをどう言われようと、世間になにを批判されようと」
「……」
「俺はそんなことで駄目にされるつもりも、なるつもりもないですよ」
 ――でも、それでも、余計な風は吹くじゃないか。
 そんなものはないほうがいいに決まっている。そう思うことが独りよがりだとは、俺にはどうしても思えなかった。
「それか、いっそ。俺がいやなんだって、そう言ってくださいよ」
 吐き捨てるように言って、折原が溜息を吐いた。
「先輩はいつも、俺のためにとか、俺がって言うじゃないですか。言わなかったとしても、思ってるじゃないですか。じゃあ、先輩はどう思ってるんですか」
 先輩、と。吐き出される熱にあてられてしまいそうだった。昔から今にいたるまでずっと、俺をそうやって呼ぶのは、ただひとり折原だけだった。
 先輩。
 ねぇ、先輩。
 ――先輩。
 ほんの少しだけ甘えるような、照れくささの滲んだ変声期前の声も。自信に満ちて明るい、俺を信じ切っているような声も。
 愁いを含むようになった、それでいて、変わらずまっすぐ響く声も。
 昔から、もう、ずっと、ずっとだ。いつか捕まってしまいそうで、俺でさえ認知していない本音を引きずり出されそうで。
 耐えられるわけがなかったから、だから逃げた。折原になにを言わせる隙も与えずに。そうかといって、俺から終わりを突き付けることもせずに。
 本当に言葉のとおり、逃げたのだ。サッカーからも、折原からも。これでぜんぶ終わりだと言い聞かせて。これで正しいのだと、そう繰り返して。
「俺、そんなに難しいこと言ってますか? 先輩を困らすこと言ってます? 聞きたいことも話したいことも、もっともっとありますよ、でも」
 言葉を区切って、唇を噛む。堪えているみたいだと思った。そうだとすればそれは、俺がずっと押し付けているものだともわかっていた。でも。
「結局、俺が一番知りたいことは、ひとつだけなんです」
「折原」
「先輩は、俺のこと、どう思ってるんですか? 好きか嫌いか、それだけじゃないですか。ねぇ、それさえも俺に教えてくれないの」
 宥めるつもりだった続きは言葉にならなかった。折原の瞳に宿っているのは、不安のような、苛立っているような、そんな色だった。どんな劣勢な試合の場面でも見たことがなかった、感情。それが、ふっと諦めたように揺れる。
「今度は言ってくれるかなって、ちょっと期待してました、俺」
「……悪い」
「俺、べつに謝ってほしいわけじゃないんですけど。それとも先輩は、俺に謝らないといけないようなこと、してるんですか」
 無理やりにいつもの調子に戻して、折原が苦笑を零した。しているだろうと思っているし、実際にそうだった。
 なにも変わっていない。終わらせると言ったくせに、なにも断ち切れない。ぜんぶ、俺のせいだ。
「先輩、俺ね。先輩は俺のこと嫌いだって言わなかったじゃないですか。だから許されてるんだろうなって思ってました。それがいつまでなのかは、知らなかったけど」
「そうだったか?」
「うん。言わなかったですよ、先輩。好きだとか、そういったこともなにも言ってくれなかったですけど。でも、先輩はそういう意味で俺に遠慮して我慢なんてしないだろうから、拒絶されないうちは先輩から許されてるって」
「馬鹿だろ、おまえ」
「今ここでそういうことを言う先輩も大概だと思いますけどね、俺」
 ためらうように言葉を呑んでから、「でも」と折原は言い募った。明瞭な声で。
「でも、だって、そうじゃないですか。先輩、俺のこと好きだったでしょ?」
「おまえが、……」
 ――なぁ、折原。
 気持ち悪い? 息がかかるほど近くで瞬いた瞳に映っていたのは、困惑だった。それが徐々に熱を持ち始めていく瞬間を、俺は見ていた。だから、それは俺が焚きつけたものだった。それだけでしかなかったはずのもの。
「おまえがそう思うんなら、そうだったのかもな」
 それなのに、なんでそんな顔をするんだ。吐き出した声は、自分でも意外なほど平坦だった。
「ずるいですよ、それ」
 堪え切れなかったように、折原が失笑した。
「ずるい」
 繰り返されても、なにも反論はできなかった。
「それで、俺がそれ以上なにも言えないって、あんたはどうせ思ってるんでしょ」
 じゃあ、俺が好きだって、仮に好きだったって言ったとして、なにが変わるんだよ。それだけでぜんぶどうにかなるのかよ。おまえはどうするつもりだって言うんだ。
 八つ当たりでしかない雑言があふれそうになって、必死で呑み込む。消化して、消してしまいたかった。跡形もなく消えていってほしかった。
「でも、そうですよ、どうせ。悔しいですけど、俺、先輩にひどいこと言いたくもないし、したくもないんです」
 そこまで言わせても、なにを言えばいいのかわからなかった。もし言葉にすれば、きっとどうにもならなくなってしまう。
「よかったですね、俺が従順で」
「折原」
「なんでそこで先輩が怒るの。図星だからですか」
「そういう問題じゃねぇだろ、おまえは……」
「俺は、なんですか」
 おまえは、折原なら。俺が言わなかった続きもすべてわかっているような顔で、折原が笑った。
「先輩の思う俺は、そんなこと言いませんか。あんたが諦めたサッカー選手であるところの俺は」
 卑屈なこともなにも言わないで、馬鹿みたいに前向きなことばかり口にして、夢に向かって突き進んでいれば満足ですか、と。
 冷めた目で淡々と言い切った折原に、手が出そうになった。はっと我に返ったのは、顔に当たる寸前だった。折原は避けようとすらしなかった。そして、また笑った。
「ほら、あんた、そうやって、選手としての俺のことしか見てないでしょう」
 ひやりとした手が、振りかざしたまま固まっていたそれをそっと下ろさせる。
「どうせなら、殴るくらいしてみてくださいよ」
「普通、しねぇだろ。今までだって、一回もしたことねぇだろ」
「大事な後輩ですもんね」
「……だったら、おまえは、付き合ってるやつの顔、殴れるのか」
「しませんよ。というか、できません。大事ですもん」
「なら」
「でも、先輩と俺の言う大事のベクトルは違うんじゃないんですかって話なんですって」
 手の甲に触れていた指先が、するりと離れていく。視線を合わせたくなくて、その指の動きをただ追っていた。
「俺は好きですけど。ずっと好きでしたし、申し訳ないですけど、これからも好きだとは思いますけど」
 溜息のような台詞だった。すべてをわかった上で諦めているような声。似合わないと思ってしまってから、諦念じみた感慨が湧き出してきた。折原の言ったとおりだ。俺は、いったい折原になにを見ているのだろう。
「それで、後輩想いの先輩は、どこまでそれに付き合ってくれるつもりなんですか」
 最後通告だった。そしてそれは俺が求めていた終焉でもあるはずだった。あの日、三年前のあの日、あの場所で本当だったら言うべきはずだった言葉。それを言えば、終わる。
「折原」
「なんですか、先輩」
 あのときとは違う、穏やかな声だった。焦燥を秘めた幼さの残っていた瞳は、深みを帯びた大人のものに変わった。それが、ここにいたるまでに流れた時間のすべてだ。
「俺は……、おまえが」
 なぁ、折原。俺にはおまえの未来が見えるんだ。あのとき口にした自分の台詞を、俺は一字一句違わず覚えている。必死だった。ただただ必死だった。冷静になって振り返れば、なにを言っていたのだろうと思う。けれど、あれがすべてだった。感情を迸らせないために。折原の未来を奪わないために。あのときの俺にできるすべてだった。
 なぁ、だって、おまえは、今、幸せじゃないのか。サッカー選手として、充足した日々を過ごしているんじゃないのか。
「おまえのことは、大事な後輩だって、ずっと、そう思ってた」
「後輩、ですか」
「だって、そうだろ。それ以外になにがあった? 俺とおまえのあいだに」
 ひどいことを言っている自覚はあった。それでもやめようとは思わなかった。これで最後だ。ずっとずっと口にできなかった終わりは、想定していたよりも、あっさり言葉になった。声は震えなかった。
 けれど、とも思う。本当にこれで終わるのだろうか。消えてなくなってくれるのだろうか、この感情すべてが。なにもかもが。
「やっぱずるいですって、あんた」
 重く感じた沈黙のあとで、折原は静かに目を伏せた。
「好きか嫌いか、それだけでいいって言ってるじゃないですか。ねぇ、なんで言ってくれないの」
 その声に、なにも変われていないと思い知った。けれど、それも俺だけだ。あの部屋に立ち尽くしているのは俺だけで、折原はそうじゃない。変わるのは、いつも折原だ。
 もう、子どもじゃない。俺よりもずっと地に足の着いた、プロ選手として生きているひとりの男だ。
「もう、なんでもいいですけど」
 俺が言わせていると理解していて、それでも心臓が掴まれたようにすくんだ。これで、終わる。終わっていく。
「俺、あんたが好きだったんです。すげぇ好きだったんです。あんたは刷り込みだって、思い込みだって、そう言うけど。それだけで何年もずっと、こんな感情を抱えたままでいられるわけがないじゃないですか」
「折原」
「だから、こうやって、あんたといられて、うれしかったんですよ、本当に。それで、いつか俺を見てくれたらって。それまで我慢できるって、そう思ってました」
 眉間に皺を寄せて吐き捨てる横顔は、はじめて見るものだった。
「でも、もう、無理だ」
 押しつぶしたような声だった。感情を、欲望を、すべてを覆い隠して、諦めて、捨ててしまったような声。
「言わせないでくださいよ、俺に。大事にさせてくださいよ。俺のこと大事な後輩だって言うんなら、俺につけこませないでください」
「……」
「あんたの言う、正しい道に俺を捨ててくださいよ」
 先輩だって言うなら、それくらいしてくれてもいいじゃないですかと、折原が小さく笑った。先輩とその声に呼ばれることが、たまらなく好きだった。俺しか見ていないというように、まっすぐに俺だけを呼ぶ声が、俺はたしかに好きだった。
「折原」
 やっと、折原の目を見据えることができた気がした。本当にここまできて、やっとだ。馬鹿だなと思った。未練を捨て切れていなかったのは、折原なんかじゃない。俺だ。
「俺は、ずっとおまえが羨ましかった」
「……そうなんでしょうね、俺にはわかりませんけど」
「でも、同時に確信してた。おまえはどこまでも行ける。なににでもなれる。おまえの未来は幸せに満ちている」
 あの日も、俺は同じようなことを口にした。そしてあの日から四年近くの年月が経った今も、俺は一片の疑いもなく信じている。折原藍というサッカー選手の才能を。そしてなによりも、ずっと見てきた折原自身を。
「でも、あんたはいないんですよね、その未来に」
 それもまた、あの日と同じ台詞だった。絞り出すようにして、折原が繰り返す。
「俺がいてほしいって言っても、先輩がいてくれないと意味がないって言っても」
 だから、そんなわけがない。頭のなかで強く否定する。俺がいなくても大丈夫だっただろう。仮に俺には問題があったとしても、おまえにあるはずがない。
「先輩はいてくれないんですよね、そこに」
「俺がいなくても大丈夫だっただろ、今までも。だから、これからも大丈夫だ」
 そのはずだった。俺がいようがいまいが、折原になんの影響もあるわけがない。あるとしたら、こんなふうなマイナスの影響だけだ。だから離れてしまえば、なにもなくなる。
 消えて、なくなる。なくなってしまえ。ぜんぶ、ぜんぶ、すべて。そんなことばかりを、ただただ祈るように念じていた。
 シートの上で握りしめられていた拳がゆっくりと解けていく。その指先が伸びてきた。狭い密室だ。それでも、退けようと思えば退けることはできた。
「折原」
 けれど、できなかった。できなくて、許したから抱きしめられていた。それがすべてだった。肩口に埋められた頭からは、日向の匂いはもうしなかった。太陽の下にいる子どもの象徴のようだった、香り。
「先輩なんか、……あんたなんて」
 骨に直に響くように、声が沁みる。その声に「先輩」と呼ばれることも、もうないのかもしれない。続きをためらうように、腕に力がこもる。逃げようとは、考えられなかった。
「……きらいだって、言えたらよかった」
 くぐもった声は、どこか頼りなく揺れていた。俺だって、同じだと思った。言わなければならないとわかっていて、けれど最後までできなかった。でも、それも終わる。これで、終わる。
「もうぜんぶ最後だって、言えたらよかったのに」
 気持ちを整えるように息を吐いて告げられたそれは、揺れのない平坦なものに変わっていた。感情のない、低い声。そのまま折原の手が離れていく。嫌えばいいと思った。嫌いになって忘れろ。忘れてくれ、頼むから。そうして捨てて、なにもなかったことにしてほしい。
 俺も、そうするから。ぜんぶ、ぜんぶ、今までもそうして息をしてきたから。


「新天地のドイツに連れていきたい女性はいらっしゃらないんですか?」
「たとえば、アナウンサーの三好さんとか……。以前、熱愛の噂がありましたよね」
 旧年の未練を削ぎ落とすようだった降雪が終わりを結んだころだった。正月明けの朝のワイドショー。時計のかわりにつけていたテレビから聞こえてきた声に、意識が向く。
 折原のドイツ一部リーグへの移籍が正式に決まったことは、富原から聞いて知っていた。あの夜以来、折原とは一度も連絡を取っていない。取ることもおそらくないだろう。少なくとも、俺が本当にあいつのことを「ただの後輩」だと思えないあいだは。
 質問するにしても、サッカーのことだけにしておけよ。条件反射のように覚えた苛立ちを無視し損ねたまま、リモコンに手を伸ばす。電源ボタンを押そうとしていた指先の動きが鈍ったのは、映像に違和感を抱いたからだった。
 ――なんで、そんな顔してんだよ。
 そつのない笑顔を浮かべているはずの後輩の顔が、不機嫌そうに俺の目に映った。折原のことをよく知らない相手なら気がつかない。けれど、近しい人間ならわかるのではないだろうかと思う程度の変化。
 珍しいとは思った。良くも悪くも折原はあまり感情を表に出さない。とはいえ、虫の居所が悪いときくらいあるだろう。あんなふうにマスコミに囲まれた経験が自分にあるわけがないが、さぞ鬱陶しいだろうとは想像できた。それでも、折原だから適当にうまくやるのだろうと思い込んでいた。次の瞬間までは。
「今はサッカーに集中したいんで、そういう人はいないですけど。ところで、なんで女の人って限定するんですか?」
「え?」
「いつも疑問だったんですよね、なんでなのかなって。三好さんはただの知人ですし、それ以上になりようがないんです、俺にとって」
「あの……、折原さん?」
「俺、女性を好きになれないんです」
 返答を詰まらせたリポーターに向かって、テレビ画面のなかで折原が笑う。それは俺のまったく知らない折原の顔だった。
「ゲイなんですよね、俺」