レポートの最後の考察を打ち終えて、保存する。そうすると、本格的にすることがなくなってしまった。パソコンの画面を見つめたまま、ぼんやりと考えてみるが、特にこれといって思いつかない。
「……さすがにもうねぇな」
正確に表現するならば、年が明けるころに提出すればいいようなものも含め手をつけ切った結果、なにもすることがなくなっただけではあるけれど。
なにもしないでいると、ろくなことを考えない。自分でそうわかっているからこそ、多忙に逃げようとしている。深酒に逃げようとは考えないだけ、正常に理性は働いているのかもしれないが。
この一週間ほど、顔を合わせるたびに庄司が「飲みにでも行くか?」と声をかけてくることから察するに、感情を御し切れていないらしい。感情に理性で蓋をすることは、得意だったはずだった。見ないふりをすることも、受け流すことも。
そのはずだったのに、その自負が揺らぎそうになっている。
思考を断絶させるタイミングで鳴ったチャイムに、庄司かもしれないと予想して立ち上がる。誘いを断るたびに、冗談まじりに大丈夫かと言わせてしまっていた。親切心だとわかっていても気は重かったが、居留守もできない。
「富原?」
そう思って開けた先にいた予想外の顔に、語尾が小さく跳ね上がった。
五年ほど前であれば、ほぼ毎日見ていた顔ではあるし、鬱々としているのを見ていられないのか、お人よしの性か、こういったタイミングで必ず顔を出す男ではあったけれど、今ここにいる理由にはならない。
「避けられるのはべつにいいんですけど」
「は?」
「まったく連絡がつかない状態っていうのは心配なんで、できたらやめてください」
開口一番に棒読みされた台詞に、ぽかんと見上げてしまった。ふっとその眦が下がる。
「……あいつか」
零れた正解に、富原が苦笑する。
「そりゃ心配にもなるだろう」
「心配って」
「うちの大学の同期の話なんだが。ひとり暮らしをしていたやつが、うっかり携帯の電源を一週間ほど落としていたときがあったんだが、どうなったと思う?」
「どうなったって」
「連絡を取れないことを心配した母親が大学側に問い合わせて、ちょっとした騒ぎになった。今となっては笑い話だが、なかなか大変そうだったぞ。ご心配だっただろうし」
「……」
「おまえは大丈夫だろうな」
暗にどころではなく、露骨に責められている。ぐうの音も出ないが、俺が悪いのだろうという自覚はある。
「べつに、音信不通になってたわけじゃねぇ……つもり、なんだけど」
「たとえば、折原がおまえと同じ大学に通っていて、どこからかでも顔が見えるなら、そうかもな」
「なにを言ったわけ、おまえに。あいつ」
不貞腐れた声に、富原が表情を和らげた。こんなふうに狭い部屋で顔を突き合わせていると、深山にいたころのようだった。おまけに話している内容が内容だ。
結局、俺は、あのころから一度も離れられていないのかもしれない。捨てたつもりで、ずっと縋りついているのは俺のほうだ。
「佐野」
呼ばれて視線を上げると、富原は「困っている」としか表現できない顔をしていた。当たり前だ。昔の後輩に頼まれたのか知らないが、俺の様子を見にわざわざ足を運ぶなんて、面倒以外のなにものでもないはずだ。
「おまえがなんであいつを避けているのかは知らないけどな。あいつがなんで連絡を取ろうとしていたのか、考えてやらなかったのか?」
「べつに……」
「折原、いなくなるかもしれないぞ」
その言葉に、息が止まるかと思った。そしてすぐに、自分の動揺に呆れた。なんだ、それは。
「以前から海外移籍の話は複数きていたらしいけどな。今回、いいタイミングできている話があって、クラブも乗り気らしい」
どんどん遠いところに行くのだなと思った。一瞬の動揺が収まれば、心は不思議と静かだった。
中学生だった折原に、高校生だった折原に。俺が勝手に託した未来と寸分変わらない道を、折原はたしかに進んでいる。
――なぁ、ひとりで大丈夫だっただろ。おまえは。
折原に言い聞かせるように、自分自身に言い聞かせるように、何度も繰り返した言葉だった。
おまえは、俺がいなくても大丈夫だろ。
だから、俺もおまえがいなくても大丈夫だ。
「そうか、すげぇな。海外か」
「折原は、おまえに相談したかったんじゃないのか?」
「俺に?」
昔から変わらない、真面目で厳しい、それでいて優しい瞳だった。それから視線を外して、失笑する。
「なんで俺だよ、いまさら」
高校受験くらいだったら、相談に乗れたかもしれないけどな、とおざなりに続ける。あのころも、折原にはいくつもの選択肢があった。それなのに、あいつは俺と一緒のところに行くと。だから一年だけ待っていてくださいと簡単に言って。そして本当に追いかけてきた。
あのときに振り切ればよかったのだろうか。あの、自分にだけ向けられていた笑顔を。
「そういう問題じゃないだろ、おまえたちは」
「じゃあ、逆に聞くけど。どういう問題なんだよ」
「付き合ってるんじゃないのか?」
なんでそんなに平然と言えるのかわからなくて、黙り込む。
それはおかしいことのはずだった。眉をひそめられるもの。だから、そんな余分な弊害は俺が取り払ってやりたかった。あいつに降りかかる前に。それがどれだけ独りよがりかなんて、俺が一番わかっている。
「俺には、そう見えるけどな。今も、昔も」
「知らねぇよ、俺は」
知るかよと。もっと前に捨ててしまっていたらよかったのかもしれない。けれど、できなかった。あの顔を見たら、できるわけがなかった。
「逃げるのをやめたと言ったのは、おまえだろう」
「俺じゃねぇよ、おまえが勝手に言っただけだ」
子どものような駄々をこねているとわかっているのに、やめられなかった。
感情を抑えるように息を吐いて、富原が言った。
「なにを終わらせてやるつもりだったんだ、おまえは」
「知らね」
言ってしまってから、さすがにそれはないなと思ったけれど、どうやっても言い訳は出てこなかった。
「わからなくなった」
そしてやっと言葉になったものは、そんな迷子みたいなものでしかなくて。馬鹿だと思った。
この年になって、なんでこんな馬鹿なことしかできないのだろう。これなら、あのときの、三年前の俺のほうがよっぽどまともだ。
そうかと富原は一度だけ相槌を打った。それ以上はなにも言わなかった。言えなかったのかもしれない。
わからなくなったのは、なんなのだろう。それとも、本当は昔からなにもわかっていなかったのだろうか。折原のことも、自分自身のことも。
――俺は。
俺は好きだなんて認めたくなかった。特別だなんて知りたくなかった。仮にもしそうだったのだとしても、そのすべてを、過去の記憶として仕舞い込んでいたかった。
望んでいたのは、日の当たる道を歩いてほしいという、ただそれだけのはずだった。
「……さすがにもうねぇな」
正確に表現するならば、年が明けるころに提出すればいいようなものも含め手をつけ切った結果、なにもすることがなくなっただけではあるけれど。
なにもしないでいると、ろくなことを考えない。自分でそうわかっているからこそ、多忙に逃げようとしている。深酒に逃げようとは考えないだけ、正常に理性は働いているのかもしれないが。
この一週間ほど、顔を合わせるたびに庄司が「飲みにでも行くか?」と声をかけてくることから察するに、感情を御し切れていないらしい。感情に理性で蓋をすることは、得意だったはずだった。見ないふりをすることも、受け流すことも。
そのはずだったのに、その自負が揺らぎそうになっている。
思考を断絶させるタイミングで鳴ったチャイムに、庄司かもしれないと予想して立ち上がる。誘いを断るたびに、冗談まじりに大丈夫かと言わせてしまっていた。親切心だとわかっていても気は重かったが、居留守もできない。
「富原?」
そう思って開けた先にいた予想外の顔に、語尾が小さく跳ね上がった。
五年ほど前であれば、ほぼ毎日見ていた顔ではあるし、鬱々としているのを見ていられないのか、お人よしの性か、こういったタイミングで必ず顔を出す男ではあったけれど、今ここにいる理由にはならない。
「避けられるのはべつにいいんですけど」
「は?」
「まったく連絡がつかない状態っていうのは心配なんで、できたらやめてください」
開口一番に棒読みされた台詞に、ぽかんと見上げてしまった。ふっとその眦が下がる。
「……あいつか」
零れた正解に、富原が苦笑する。
「そりゃ心配にもなるだろう」
「心配って」
「うちの大学の同期の話なんだが。ひとり暮らしをしていたやつが、うっかり携帯の電源を一週間ほど落としていたときがあったんだが、どうなったと思う?」
「どうなったって」
「連絡を取れないことを心配した母親が大学側に問い合わせて、ちょっとした騒ぎになった。今となっては笑い話だが、なかなか大変そうだったぞ。ご心配だっただろうし」
「……」
「おまえは大丈夫だろうな」
暗にどころではなく、露骨に責められている。ぐうの音も出ないが、俺が悪いのだろうという自覚はある。
「べつに、音信不通になってたわけじゃねぇ……つもり、なんだけど」
「たとえば、折原がおまえと同じ大学に通っていて、どこからかでも顔が見えるなら、そうかもな」
「なにを言ったわけ、おまえに。あいつ」
不貞腐れた声に、富原が表情を和らげた。こんなふうに狭い部屋で顔を突き合わせていると、深山にいたころのようだった。おまけに話している内容が内容だ。
結局、俺は、あのころから一度も離れられていないのかもしれない。捨てたつもりで、ずっと縋りついているのは俺のほうだ。
「佐野」
呼ばれて視線を上げると、富原は「困っている」としか表現できない顔をしていた。当たり前だ。昔の後輩に頼まれたのか知らないが、俺の様子を見にわざわざ足を運ぶなんて、面倒以外のなにものでもないはずだ。
「おまえがなんであいつを避けているのかは知らないけどな。あいつがなんで連絡を取ろうとしていたのか、考えてやらなかったのか?」
「べつに……」
「折原、いなくなるかもしれないぞ」
その言葉に、息が止まるかと思った。そしてすぐに、自分の動揺に呆れた。なんだ、それは。
「以前から海外移籍の話は複数きていたらしいけどな。今回、いいタイミングできている話があって、クラブも乗り気らしい」
どんどん遠いところに行くのだなと思った。一瞬の動揺が収まれば、心は不思議と静かだった。
中学生だった折原に、高校生だった折原に。俺が勝手に託した未来と寸分変わらない道を、折原はたしかに進んでいる。
――なぁ、ひとりで大丈夫だっただろ。おまえは。
折原に言い聞かせるように、自分自身に言い聞かせるように、何度も繰り返した言葉だった。
おまえは、俺がいなくても大丈夫だろ。
だから、俺もおまえがいなくても大丈夫だ。
「そうか、すげぇな。海外か」
「折原は、おまえに相談したかったんじゃないのか?」
「俺に?」
昔から変わらない、真面目で厳しい、それでいて優しい瞳だった。それから視線を外して、失笑する。
「なんで俺だよ、いまさら」
高校受験くらいだったら、相談に乗れたかもしれないけどな、とおざなりに続ける。あのころも、折原にはいくつもの選択肢があった。それなのに、あいつは俺と一緒のところに行くと。だから一年だけ待っていてくださいと簡単に言って。そして本当に追いかけてきた。
あのときに振り切ればよかったのだろうか。あの、自分にだけ向けられていた笑顔を。
「そういう問題じゃないだろ、おまえたちは」
「じゃあ、逆に聞くけど。どういう問題なんだよ」
「付き合ってるんじゃないのか?」
なんでそんなに平然と言えるのかわからなくて、黙り込む。
それはおかしいことのはずだった。眉をひそめられるもの。だから、そんな余分な弊害は俺が取り払ってやりたかった。あいつに降りかかる前に。それがどれだけ独りよがりかなんて、俺が一番わかっている。
「俺には、そう見えるけどな。今も、昔も」
「知らねぇよ、俺は」
知るかよと。もっと前に捨ててしまっていたらよかったのかもしれない。けれど、できなかった。あの顔を見たら、できるわけがなかった。
「逃げるのをやめたと言ったのは、おまえだろう」
「俺じゃねぇよ、おまえが勝手に言っただけだ」
子どものような駄々をこねているとわかっているのに、やめられなかった。
感情を抑えるように息を吐いて、富原が言った。
「なにを終わらせてやるつもりだったんだ、おまえは」
「知らね」
言ってしまってから、さすがにそれはないなと思ったけれど、どうやっても言い訳は出てこなかった。
「わからなくなった」
そしてやっと言葉になったものは、そんな迷子みたいなものでしかなくて。馬鹿だと思った。
この年になって、なんでこんな馬鹿なことしかできないのだろう。これなら、あのときの、三年前の俺のほうがよっぽどまともだ。
そうかと富原は一度だけ相槌を打った。それ以上はなにも言わなかった。言えなかったのかもしれない。
わからなくなったのは、なんなのだろう。それとも、本当は昔からなにもわかっていなかったのだろうか。折原のことも、自分自身のことも。
――俺は。
俺は好きだなんて認めたくなかった。特別だなんて知りたくなかった。仮にもしそうだったのだとしても、そのすべてを、過去の記憶として仕舞い込んでいたかった。
望んでいたのは、日の当たる道を歩いてほしいという、ただそれだけのはずだった。



