夢の続きの話をしよう(上)【期間限定再録】

『電話だったら大丈夫ですか』
 折原にしては珍しい、食い下がる返信に気がついたのは、朝になってからだった。つけたばかりの携帯の電源を、また落とす。これだけ時間が空けば、いつ返しても同じだろう。そう言い聞かせて家を出た。いつのまにか外は、冬の匂いが濃くなっていた。あいつと再会して、もう半年近い時間が経とうとしている。それなのに、まだなにもできていない。その事実に、うんざりとした溜息が零れた。白い息が冬の空に溶ける。
 なにをしてるんだろうなとは思った。そう思うことも、何度目かしれないけれど。
「佐野。昨日のことだけどさ」
 講義の終了のベルを待ち構えた庄司に話しかけられて、視線を向ける。
「なんか、ごめんな。あいつ悪気はねぇんだろうけど、子どもみたいなところあるじゃん」
「べつに気にしてないけど」
 いまさらだしなとも付け加えてしまったが、嫌味ではない。思い立ったら即行動を信条としているのが栞の栞たる所以だ。どちらかといえば、そのことで庄司に申し訳なさそうな顔で謝罪されることのほうが慣れない。
 付き合っていますという空気が前面に押し出されているのが居た堪れないというか、なんというか。
「いまさらって言われると返す言葉もないな、たしかに。折原くんに足しげく会いに通って、挙句におまえと引き合わせたからなぁ」
「……」
「すげぇ行動力だよな、本当」
 反応を窺うような笑みから顔を背けて、机の上を片付ける。出入り口に近いところに座っていたせいか、通り過ぎていく学生のざわめきがいやにうるさかった。
「そういや、佐野って、今日はバイト?」
「いや、……あぁ、うん。そう」
 本当はなにも予定は入っていなかったが、そういうことにした。おざなりに応じると庄司が肩をすくめた。
「佐野って、ぜんぶ自分で捨ててから後悔するタイプだよな」
「どういう意味だよ」
 尖った声にも構わず、さらりと庄司は続ける。
「そのままの意味だけど。なんか、おまえって、そんな感じ」
「そんなことねぇだろ」
「どうだろうな。俺にはそんなふうに見えるけど。捨てたつもりで捨て切れてないもんのほうが多そうともいうか。――そんな怖い顔すんなよ」
 ただのお節介だよと笑って、庄司は話を終わらせた。最後に、あのころの深山のファンだったんだよなという余計な一言もついてきたが。
 最強世代。懐かしい呼び名が、その声に思い出された。県内では負け知らずだった当時の母校は、深山史上最強とまで称されていた。その頂点が、折原が最高学年だった年だ。
 その活躍を応援に行こうとは考えもしなかった。俺にはもうできないサッカーをしている後輩たちを見ることが嫌だったのではない。ただ折原を見ることが嫌だっただけだ。
 憧憬。嫉妬。そんな言葉で終わらせてしまえる関係だったらよかった。捨ててしまいたいのに、捨てたくない。そんな相反する感情を抱えたまま、ずるずるとここまで来てしまった。
 瞼の裏で、まだどこか幼い顔つきの折原が笑う。「先輩」と、それしか知らないように何度も口にする。その声が、ずっとずっと残っている。幻みたいに。あるいは、呪いみたいに。
 たどり着いた単語に失笑する。呪いだとすれば、それは間違いなく俺が折原にかけたものだった。
 今もあのころと同じ温度で、折原は「先輩」と笑いかけてくる。俺はもうおまえの先輩じゃねぇし、おまえは俺とはもうぜんぜん違うだろ。再会してから、何度もそう諭した。
 そのたびに、そんなことないですと折原がかすかに視線を落とす。その影を帯びた表情に、「違う」と無性に叫びたくなった。
 おまえには似合わない。そんなふうに自分の感情を表現してみたものの、それもきっと正しくない。
 俺が知っている、あのころのおまえなら、そんな顔はしなかった。俺が感じたのは、そんな傲慢なことだった。
 おまえは過去に囚われているだけだ。何度、折原に知った顔で言っただろう。けれど、それは俺も同じだった。忘れられるわけがない。離れられるわけがない。ただそう思うことがおかしいとわかっていたから、物理的にだけでも距離を取りたかった。
 そのはずだったのに、新しい関係をつくりたいと言った折原を切り捨てることができなかった。未練があったからだ。
 そこまで理解していて、それでも嫌だと思ってしまうのは、なぜなのか。
 あのころの折原は、俺を、佐野悠斗という存在を捨てないと俺は思っていた。思い上がりではなく事実として。少なくとも、あの狭い箱のなかにいた俺たちにとって、それは事実だった。けれど、今はそうではないと知っている。
 それが、たまらなく嫌だった。
 ――なぁ、折原。
 おまえが忘れるまででいい。消化できるまででいい。そう考えたのは防衛本能に近かった。
 ――だから、つまり、それは。
 そこまで考えて、俺はそれ以上をやめた。なにがともわからないまま駄目だと思った。戻れなくなるとも思った。
 あぁ、と少し間を置いて得心する。たぶん、今がギリギリのラインなのだ。ロスタイム三分。あと少し守り切ることができれば笛が鳴る、そんな時間。試合の終了を知らせる、高いホイッスル。
 早く鳴り響いて、それですべてが終わってくれればいいのにと思った。