夢の続きの話をしよう(上)【期間限定再録】

『明日の夜、空いてますか?』
 折原からのメッセージには、二時間は前に気がついていた。返信をする気が起きなくて放置していたそれに、ようやくの思いで手を伸ばす。無理、バイト。たったそれだけの返信を打つのになぜか時間がかかって、送信できたころには日付が変わっていた。
 アスリートである折原に、あまり遅い時間に連絡をいれたくない。そう思うし、時間を調整するべきは学生である自分だろうと理解している。会いたいのなら。俺と折原が「付き合っている」というのなら。
 返ってくる言葉を見たくなくて、電源を落とす。質問には答えたのだから、もういいだろう。そう考えることで自分を納得させて、目を閉じる。
 会いたくないと思うのは、会えば自分の感情が揺らぐ自覚があるからだ。そしてそれが、折原が思う「俺」とかけ離れているだろうということも。
 先輩と何年経っても変わらない声で呼ぶ折原の笑顔が、浮かんで消えた。
 ――なんでなんだろうな。
 何度も考えて結論の出なかったことをまた考える。なんで、あいつは俺がいいだなんて思ってしまっているのだろう。
 飛び抜けて勉強ができたわけでも、サッカーができたわけでもない。見た目がそこまでいいわけでももちろんないし、性格がいいわけでもなかった。
 それなのに、折原の記憶のなかの俺は神格化されているように思えてならないのだ。神格というと大げさだが、あながち間違っていないとも思ってしまう。
 なぜかはわからない。けれど、あのころの、高校生だった折原の世界において、佐野悠斗というひとつ年上のチームメイトは、特別な存在だったのだ。
 そして、その刷り込みが今もなお続いている。刷り込み、錯覚。何度も折原に言ったことだ。あるいは、かたくなに思い込んでいるだけかもしれない。昔から思い込みが強いきらいが折原にはあった。


「ねぇ、先輩。駄目?」
 高等部で再会してから、折原にこんなふうに甘えられる瞬間が増えた。後輩として甘えている、というのとはまた違う声音。
「駄目。調子に乗んな、馬鹿」
 俺はそのすべてをわかっていて、知らないふりを通していた。楽だったからだ。同時にいびつな優越感を覚えてもいた。
「えー、いいじゃないですか、ちょっとくらい」
「ちょっとなんだったら、しなくてもいいだろ」
 そうやって軽い言葉で甘えるくせに、無理を突き通すことを折原はしなかった。いつも自分が主導権を握っているという慢心が、あの関係を助長させたのだと、今ならわかる。
 非常階段で。富原のいない俺の部屋で。あの夏の夜にはじめてキスをしてから、折原は暗に触れたいと示してくることがあった。
 気持ち悪いだとか、やめろだとか。そう言ってはっきりと拒絶しなかったのは、そんなふうに思えなかったことのほかに、もうひとつ理由があった。
 最初に手を伸ばしたのは、俺だったからだ。なにも知らなかった後輩に教えたのは俺だ。俺が煽った。その自覚は十分にあった。
「そもそもなんで、俺としたいわけ」
 頬を膨らませた横顔が妙に幼くて、そんなことを尋ねてしまった。高校二年の、冬のはじめだった。選手権の県予選が始まって、まもなくのころ。
「だって、俺、先輩のこと好きだし」
 平然と言葉にする折原に、俺が呆れたように溜息を吐く。そこまでが、いつもの流れだった。いつのまにかできあがっていた構図。
 否定すべきだと思うのと同じくらいの強さで、「まぁ、いいだろう」と思っていた。あくまでも冗談だったら、それでいい。本気の雰囲気をつくりだしさえしなければ。
 どうせいつか消えてなくなるものだ。この空間も、想いも。そう思おうとしていた。
「先輩は、慣れてそうですよね」
 ほんの少し目を伏せて、折原が囁く。それはおまえだろうと言おうとして、やめた。
 折原くんは、ちっとも相手にしてくれない。そう騒ぐ女子の声をいたるところで聞いた気がするし、この後輩から擦れた匂いや浮ついた匂いがしたことは一度もなかった。
 馬鹿だなと思った。
「さぁ、どうだろうな」
「そうやって俺のことからかってばっかり。俺は、先輩だけなのに」
 冗談めかした言葉の節々に混ざりこむ本音に気がつかないふりを決め込む。それもいつものことだった。俺だっておまえだけだなんて、口が裂けても言えない。
「あと、二回かぁ」
「なにが?」
「先輩と国立に行けるの」
 明日も練習ありますねと言うのと変わらない口調だった。気負いのひとつもない横顔に、なぜだか息苦しいような感覚を覚えた。それを誤魔化して、小さく笑う。
「今年行くのも、来年行くのも当たり前って?」
「だって、そうじゃないですか。ちょっとでも先輩と長くサッカーしたいし。富原さんとか、あと……まぁ、うちの監督も好きですし。このチーム好きなんです、俺」
 地区予選を勝ち進んで、全国大会を勝ち抜いて、国立の地に立つ。当たり前の顔で笑う折原を羨ましくなかったと言い切ったら嘘になる。俺も目指していた未来で、目標ではあった。けれど。
「そうだな」
 あと二回。あと一年と少し。それは、俺のサッカー漬けの日々の終わりまでの残り日数で、この後輩との曖昧な関係の終焉までのカウントダウンでもあると思っていた。
 寮の自室の勉強机の引き出しには、大学進学を見据えた参考書が何冊も入っていた。折原に見られたくなくて、いつもやってくるタイミングで仕舞い込んでいたけれど。
 ここを卒業したあとの俺は、なにをしているんだろう。そのときには、この錯綜する感情もなかったことにできているのだろうか。そう思っていた記憶がある。つまり、今のこの状況は、まったくの想定外なのだ。少なくとも、あのころの俺にとって。
 サッカーから離れたら、折原からも離れられると思っていた。そうやっていつか激情も薄れていくのだろうと信じていた。
 あの熱は、すべて若さゆえの過ちだったのだと。寮という狭い空間に閉じ込められていたがために誤認したものだったのだと。そう、誰かに言い切ってほしかった。