富原と別れて下宿先に戻ったのは、日付が変わる間際になってからだった。もう少し早く帰るつもりだったのだが、気がつけばこんな時間になっていた。
静かに平行線をたどった話は、結論が出ないまま終わった。俺が無理やりに終わらせたというほうが正しいかもしれないが、富原もどこまで踏み込むべきなのか、はかりかねていたのだろう。
そりゃそうだとも思う。俺だって、昔の友人と後輩が付き合うだのなんのと言っていたら扱いに困る。いくらお人よしのお節介だろうとも。
三階建て学生向けアパートの二階の突き当たり。その角部屋が、大学進学時から借りている下宿先だった。階段を上って、外廊下に足を踏み出す。蛍光灯の薄明かりに照らされた人影に、そこでようやく気がついた。
「……折原?」
俺の部屋の前だ。半信半疑でかけた声に、俯いていた顔がぱっと上がる。
「折原」
なにをしているんだと思ったのが顔に出ていたのか、折原が眉を下げた。
「いや、いなかったから、すぐに帰るつもりだったんですけど、本当に。十分ほど前に来たところで」
「そこじゃねぇよ。というか、おまえ、俺に電話とかメールとかした? 俺が気づいてなかったか?」
「それも違って。ちょっと先輩の顔が見たくなったっていうか、それだけで」
いつもの顔でへらりと笑った折原に、溜息が零れた。
「おまえ、今、何月だと思ってんだよ」
「え?」
「なんでもねぇよ。ほら」
入らねぇのと、室内に続かない折原を振り返る。俺の許可がなければ入らないなんてかわいげは、同じ寮にいたころからなかったはずだ。こっちが勝手に心配になるくらい、このひとつ下の後輩は俺たちの寮室に入り浸っていた。
それなのに、折原は戸惑ったような顔をした。疑問を抱いたものの問い詰めるよりも先に、折原が笑う。
「飲み会だったんですか?」
「あー……、富原と飲んでた。折原、ちょっと待って」
ドアの閉まる音に安堵を覚えながら、備え付きの靴箱の引き出しを漁る。
「ほら」
探り当てたものを、差し出された手のひらの上に落とす。触れた指先は想像していたとおりの冷たさで、やっぱりなと思った。
十分前って、絶対に嘘だろ。というか、そもそもとして、こんな理由で風邪でも引いたらどうするんだ、おまえは。
「鍵。いらないんなら、いいけど」
反応のない折原に、そう付け加えると、慌てたように首を振られた。
「ちが、いります! いりますからね、俺! ちょっとびっくりして反応が鈍っただけで」
「そんな驚くようなことかよ」
「驚くようなことですよ。だって」
合鍵ですよ、先輩の家の、と。お守りにでも触れるように、飾りけのない鍵の表面をそっとなぞる。
うれしそうでいて、信じられないという色を隠せていない顔。そういう意味じゃないと告げるはずだった言葉は音になる前に消えていく。それならどういう意味だと問われても、俺はうまく答えられない。
「やる。おまえに」
結局、口にできたのは駄目押しみたいな台詞でしかなかった。その言葉を選んだのは、不安な顔をさせたくなかったからかもしれない。この関係が続く未来を俺自身が信じていないのに、折原にそんなことで悩んでほしくなかった。
屈折した感情とは無縁の顔で、折原は「大事にしますね」と小さく笑った。
「富原さん、どうでしたか。あいかわらずですか?」
「おー、あいかわらず、あいかわらず。あいつ、あの年であれだけ説教くさかったら、将来どんな頑固親父になるのか見物だな」
なにをどう説教されたかは、言うつもりはないが。
喋りながら、自分ひとりだとつけなかっただろう暖房のスイッチを入れる。寝るだけだったらそれでいいが、客がいたらそうはいかない。
「寒いですか?」
俺じゃなくておまえがな、と言うかわりにリモコンを操作して設定温度を上げる。
「先輩、暑いより寒いほうが好きじゃなかったっけ」
「おまえは適温って言葉を知らねぇのか」
「それもそうですね」
半分は寒空のなかで連絡も寄こさずに待っていた男への嫌味だったのだが、折原は笑って受け流した。
昔からそうだ。折原は、本当に自分が譲りたくないことでなければ、無駄な我を張らない。穏やかで気の優しい、いい男なのだろうと思う。たとえば、女の子に自信を持って紹介できるような。いい父親になると評せるような。
「上がらないのか?」
靴も脱がないまま、三和土にいるのが気になって促す。折原は曖昧に首を振った。
「本当に、ちょっと先輩の顔が見たかっただけなんで」
「明日は朝、早いのか?」
そうだとすればなおさら、それだけの理由でこんなところまで来ないだろう。相談したいことでもあったのだろうか。再度の問いかけに、折原が困ったように眉を掻いた。
「なにか用事があったってわけじゃなかったんです。本当に」
「そうか」
それが本当なのかどうか、わからなかった。けれど、それ以上を問い重ねることもできなかった。
「先輩」
「ん?」
「本当になんでもなかったんですけど。そうだな、気になるんだったら、俺のお願い聞いてもらってもいいですか」
しかたないなとなにかを諦めてつくったような、聞き慣れた声。
「ちょっとだけ、甘えてみてもいいですか」
逆だろうと呆れたのと、伸びてきた腕に引き寄せられたのが、ほぼ同時だった。冬の冷気に混じって、懐かしい匂いがした。
振り解く気さえあれば、簡単に振り払える力だった。どうしていいかわからないまま立ち尽くしていた背に、あたたかい手が触れる。
――駄目だ。
頭のなかのなにかが、そう告げていた。振り解こうとした瞬間に背中から手が離れて、距離が開いた。けれど、いつものそれよりは近かったかもしれない。
なにを言えばいいのか悩んでしまうのも俺だけだ。折原は笑っている。
「すっげぇ充電してもらった気分です、俺」
「……馬鹿じゃねぇの」
やたらと喉が渇いているような感じがした。やっとの思いで絞り出した言葉がこれだなんて、間違いなく馬鹿は俺だ。
「俺、馬鹿になりたかったんです」
「は?」
「先輩が考えるいろんなことを、笑って吹き飛ばせるような馬鹿になりたかったんです」
馬鹿だ。そんな軽口を繰り返していたのは俺だ。けれど、それは。
「まだ、なれてないみたいですけど」
腕に触れていた指が、名残惜しそうにゆっくりと離れていく。その指先から目が逸らせなかった。
「ねぇ、先輩」
顔なんて見れるわけがなかった。折原が、どんな顔でそんなことを言うのか。見れるわけがない。
「俺、先輩のこと、好きですよ」
その指が、明確な意図を持ってはじめて触れてきた夜を思い出しそうになって、慌てて打ち消した。そんなことを言わないでほしい。いつか離れていくのに、そんなことを。
未練も打ち消したはずだったのに、胸中に浮かぶのはくだらないことばかりだ。
おやすみなさいと告げた声を最後に、ドアが閉まる。足音が遠のいていく気配を追いながら、そっと息を吐いた。触れられた感触が、まだいたるところに残っているようだった。俺は、と思った。
俺は、いったい、なにがしたいんだろう。いったい、どんな馬鹿な夢を見ようとしているんだろう。
静かに平行線をたどった話は、結論が出ないまま終わった。俺が無理やりに終わらせたというほうが正しいかもしれないが、富原もどこまで踏み込むべきなのか、はかりかねていたのだろう。
そりゃそうだとも思う。俺だって、昔の友人と後輩が付き合うだのなんのと言っていたら扱いに困る。いくらお人よしのお節介だろうとも。
三階建て学生向けアパートの二階の突き当たり。その角部屋が、大学進学時から借りている下宿先だった。階段を上って、外廊下に足を踏み出す。蛍光灯の薄明かりに照らされた人影に、そこでようやく気がついた。
「……折原?」
俺の部屋の前だ。半信半疑でかけた声に、俯いていた顔がぱっと上がる。
「折原」
なにをしているんだと思ったのが顔に出ていたのか、折原が眉を下げた。
「いや、いなかったから、すぐに帰るつもりだったんですけど、本当に。十分ほど前に来たところで」
「そこじゃねぇよ。というか、おまえ、俺に電話とかメールとかした? 俺が気づいてなかったか?」
「それも違って。ちょっと先輩の顔が見たくなったっていうか、それだけで」
いつもの顔でへらりと笑った折原に、溜息が零れた。
「おまえ、今、何月だと思ってんだよ」
「え?」
「なんでもねぇよ。ほら」
入らねぇのと、室内に続かない折原を振り返る。俺の許可がなければ入らないなんてかわいげは、同じ寮にいたころからなかったはずだ。こっちが勝手に心配になるくらい、このひとつ下の後輩は俺たちの寮室に入り浸っていた。
それなのに、折原は戸惑ったような顔をした。疑問を抱いたものの問い詰めるよりも先に、折原が笑う。
「飲み会だったんですか?」
「あー……、富原と飲んでた。折原、ちょっと待って」
ドアの閉まる音に安堵を覚えながら、備え付きの靴箱の引き出しを漁る。
「ほら」
探り当てたものを、差し出された手のひらの上に落とす。触れた指先は想像していたとおりの冷たさで、やっぱりなと思った。
十分前って、絶対に嘘だろ。というか、そもそもとして、こんな理由で風邪でも引いたらどうするんだ、おまえは。
「鍵。いらないんなら、いいけど」
反応のない折原に、そう付け加えると、慌てたように首を振られた。
「ちが、いります! いりますからね、俺! ちょっとびっくりして反応が鈍っただけで」
「そんな驚くようなことかよ」
「驚くようなことですよ。だって」
合鍵ですよ、先輩の家の、と。お守りにでも触れるように、飾りけのない鍵の表面をそっとなぞる。
うれしそうでいて、信じられないという色を隠せていない顔。そういう意味じゃないと告げるはずだった言葉は音になる前に消えていく。それならどういう意味だと問われても、俺はうまく答えられない。
「やる。おまえに」
結局、口にできたのは駄目押しみたいな台詞でしかなかった。その言葉を選んだのは、不安な顔をさせたくなかったからかもしれない。この関係が続く未来を俺自身が信じていないのに、折原にそんなことで悩んでほしくなかった。
屈折した感情とは無縁の顔で、折原は「大事にしますね」と小さく笑った。
「富原さん、どうでしたか。あいかわらずですか?」
「おー、あいかわらず、あいかわらず。あいつ、あの年であれだけ説教くさかったら、将来どんな頑固親父になるのか見物だな」
なにをどう説教されたかは、言うつもりはないが。
喋りながら、自分ひとりだとつけなかっただろう暖房のスイッチを入れる。寝るだけだったらそれでいいが、客がいたらそうはいかない。
「寒いですか?」
俺じゃなくておまえがな、と言うかわりにリモコンを操作して設定温度を上げる。
「先輩、暑いより寒いほうが好きじゃなかったっけ」
「おまえは適温って言葉を知らねぇのか」
「それもそうですね」
半分は寒空のなかで連絡も寄こさずに待っていた男への嫌味だったのだが、折原は笑って受け流した。
昔からそうだ。折原は、本当に自分が譲りたくないことでなければ、無駄な我を張らない。穏やかで気の優しい、いい男なのだろうと思う。たとえば、女の子に自信を持って紹介できるような。いい父親になると評せるような。
「上がらないのか?」
靴も脱がないまま、三和土にいるのが気になって促す。折原は曖昧に首を振った。
「本当に、ちょっと先輩の顔が見たかっただけなんで」
「明日は朝、早いのか?」
そうだとすればなおさら、それだけの理由でこんなところまで来ないだろう。相談したいことでもあったのだろうか。再度の問いかけに、折原が困ったように眉を掻いた。
「なにか用事があったってわけじゃなかったんです。本当に」
「そうか」
それが本当なのかどうか、わからなかった。けれど、それ以上を問い重ねることもできなかった。
「先輩」
「ん?」
「本当になんでもなかったんですけど。そうだな、気になるんだったら、俺のお願い聞いてもらってもいいですか」
しかたないなとなにかを諦めてつくったような、聞き慣れた声。
「ちょっとだけ、甘えてみてもいいですか」
逆だろうと呆れたのと、伸びてきた腕に引き寄せられたのが、ほぼ同時だった。冬の冷気に混じって、懐かしい匂いがした。
振り解く気さえあれば、簡単に振り払える力だった。どうしていいかわからないまま立ち尽くしていた背に、あたたかい手が触れる。
――駄目だ。
頭のなかのなにかが、そう告げていた。振り解こうとした瞬間に背中から手が離れて、距離が開いた。けれど、いつものそれよりは近かったかもしれない。
なにを言えばいいのか悩んでしまうのも俺だけだ。折原は笑っている。
「すっげぇ充電してもらった気分です、俺」
「……馬鹿じゃねぇの」
やたらと喉が渇いているような感じがした。やっとの思いで絞り出した言葉がこれだなんて、間違いなく馬鹿は俺だ。
「俺、馬鹿になりたかったんです」
「は?」
「先輩が考えるいろんなことを、笑って吹き飛ばせるような馬鹿になりたかったんです」
馬鹿だ。そんな軽口を繰り返していたのは俺だ。けれど、それは。
「まだ、なれてないみたいですけど」
腕に触れていた指が、名残惜しそうにゆっくりと離れていく。その指先から目が逸らせなかった。
「ねぇ、先輩」
顔なんて見れるわけがなかった。折原が、どんな顔でそんなことを言うのか。見れるわけがない。
「俺、先輩のこと、好きですよ」
その指が、明確な意図を持ってはじめて触れてきた夜を思い出しそうになって、慌てて打ち消した。そんなことを言わないでほしい。いつか離れていくのに、そんなことを。
未練も打ち消したはずだったのに、胸中に浮かぶのはくだらないことばかりだ。
おやすみなさいと告げた声を最後に、ドアが閉まる。足音が遠のいていく気配を追いながら、そっと息を吐いた。触れられた感触が、まだいたるところに残っているようだった。俺は、と思った。
俺は、いったい、なにがしたいんだろう。いったい、どんな馬鹿な夢を見ようとしているんだろう。



