またいつでも顔を見せに来い。
そう言って見送ってくれた監督に別れを告げて母校の門を出る。坂道は夏の夕暮れでオレンジ色に染まっていた。在学していたころはもっと暗くなるまでグラウンドに残っていた。そういう意味では見慣れない光景だ。
それは、楽しそうな顔の折原がとなりにいることも含めてだけれど。居心地が悪いように感じるのも事実なのに、折原が楽しいのならいいかとも思ってしまう。
再会してからずっと、折原がなにを考えているのか、よくわからないままだった。
あのころだったらわかっていたのかと問われると、わかっているつもりだったとしか答えられない。それでも、わかることもあった。高校生だったころの刷り込みは、折原のなかに今も根強く残っている。
「監督ぜんぜん変わってなかったっすね。先輩、なんの話してたんですか?」
いっそ無邪気と評してやりたい口調で、折原が問いかける。
「たいしたことじゃねぇけど」
「でも、なんかうれしそうですよ」
「そんなこともねぇけど」
「そんな否定しなくても。楽しいのはいいことですよ。監督も先輩に会えてよかったと思うし」
自分のいないところで、果たしてどんなふうに話されていたのか。ろくでもないことだとしか思えなかったので、その疑念は黙殺した。かわりに違う言葉を選ぶ。
「おまえのこと」
「え? 俺?」
虚を突かれた顔に、小さく笑う。
「俺よりもおまえが崩れそうで怖かったってよ。馬鹿じゃねぇの」
俺が深山を去ったあとの話だ。
聞きたいと思ったこともなかったし、知ろうともしていなかった。
俺がいなくなった穴を埋める選手はいくらでもいた。だから、組織としてはなんら変わりなかったはずだ。現に、折原は深山に在籍していた三年間、ずっと県代表として冬の選手権に出場していた。国立のピッチに立ったのは、一年のときと三年のときだっただろうか。
知りたくもないのに知識として蓄えてしまったのは、テレビのニュースで耳にしてしまったからだ。母校のサッカー部の名称を音で拾った瞬間に画面を見て後悔する。その繰り返し。けれど、それももう昔の話だ。
「思い上がんなよ、おまえ。俺が怪我したのは、誰のせいでもないだろうが」
足を止めて、まっすぐに見据えたまま、言い含める。答えるかわりに、折原がふっと視線を落とした。
あいかわらず正直で、嫌になる。その感情を苦笑で流した。
「ぜんぶ、いまさらだけどな」
監督も時効だと判断したからこそ、俺に過去の話題のひとつとして聞かせたのだろう。俺がいなくなってから、折原が不調で使い物にならない時期があったと監督は笑っていた。
表面上はそこまで変わりないのに、その反動のようにプレーが荒れていたと。そのことで富原が相談にきたこともあったなと監督が続けた内容に、昔の話のはずだったのに本気で腹が立ちかけた。
けれど、それもいまさらだ。俺が言ったとおり。
「しょうがないじゃないっすか」
沈黙のあとで折原が息を吐いた。困ったように、あるいは、ほんの少し不貞腐れたように。
「あのころの俺にとって、先輩はそういう存在だった」
「そうか」
「でも、今は……」
今は、と。現在までをも紡ごうとした折原の声が、ふいに途切れた。その視線を追って、背後に首を巡らせる。
懐かしい深山の制服姿の女子高生がふたり立っていた。ちらちらとこちらを窺う視線に、そういえばそうだったと思い出す。こいつはいわゆる有名人なのだった。声をかけようとしたのかその子たちが足を踏み出した、瞬間。
「っ、折原!」
手首を掴んだ折原の手を振り払うよりも早く、ひっぱられた足が走り出す。
後ろで上がった黄色い声に抗議しようとしたタイミングで、折原が振り返って笑った。悪戯が成功した子どもみたいなそれで。
「逃げるが勝ちって言うじゃないですか。俺、今日は絡まれるの、勘弁なんで」
先ほどまでの陰りの消えた顔がまた前を向く。坂道を駆け下りていく黒髪が夕焼けを受けてきらめく。なにをしているんだろうと思うのに、懐かしさに揺さぶられた。どうしようもないほどに。あのころとは違うのに、思い浮かんだ映像が消えない。
手放しに未来を信じていた、幼かったあの日々。折原とふたり。自転車で下った、夜の坂道。
「あー、走った! でも、なんか楽しいですよね……って。先輩? 大丈夫?」
折原の手がやっと離れたのは、坂の下に広がる住宅街から少し外れたところにある小さな公園だった。
「……折原」
「先輩?」
のぞき込むきょとんとした顔は、なにもわかっていない。腹いせに小突いてやりたい衝動を呑み込んで、息を吐く。言いたくはないが、膝が笑っている。
「現役のおまえの体力と一緒にすんな」
この暑い時期に全力疾走とか、なんの罰ゲームだ。
言葉にされてようやく理解したらしい折原が、情けなく眉を下げる。その顔に得も言われぬ罪悪感を覚えて、「水」と呟く。与えられた使命に、ぱっと顔を輝かせた折原が、買ってきますと走り出していく。
あれだから犬だのなんだのって言われるんだろうな。ついこのあいだの飲み会でも聞いた元チームメイトの軽口を思い出す。その背中があっというまに小さくなるのを見送って、ぼやく。
「あいつ、いつまで、俺のことを同じ土俵に置いとくつもりだ」
違うだろう。それで当たり前だろう。何度も伝えたつもりなのに、折原はあのころばかりを見ているようだった。
なにを考えているのかわからない。そう思ったのは、その不自然さが原因なのかもしれない。
――まぁ、でも、それも俺のせいか。
ひとりになると自然と溜息が漏れた。このあたりも、あのころとはあまり変わらない。それでもまったく同じではない。時間は流れている。それは、最近になってよく思うようになったことだった。あのころとは違うと自分に言い聞かせているのにも近かったかもしれない。
「お待たせしました」
戻ってきた折原に笑顔で手渡されたペットボトルを受け取って、首を傾げる。コンビニのシール。
「おまえ、コンビニまで行ってたの、わざわざ」
公園の出入り口付近に自販機があったはずだ。てっきりそこだと思っていたから行かせたのに。
「だって、先輩、こっちのほうが好きでしょ?」
だから当然というように折原が笑う。馬鹿だろ、おまえ。そんなもん、たいして変わらねぇだろ。あぁ、もう、なんで。そこまで思ったときには声に出ていた。
「なぁ、おまえ、なにがしたいの」
言葉にならない苛立ちやもどかしさが声に滲む。折原は変わらなかった。平然と問い返す。
「なにって、どのことが、ですか?」
「おまえは、俺に今を見てほしいって、そう言ったよな。でも、俺にはおまえがあのころに引きずられているようにしか見えない」
そもそもと思う。そもそもとして、なんで。なんで、おまえが引きずる意味があるんだよ。よくわからない感情と一緒に吐き捨てる。
「おまえは、俺をいつまであのころの俺だと思ってるつもりだよ」
「しかたないじゃないですか」
それしかないというように、折原は同じ言葉を繰り返した。
「俺にとって、先輩は特別だったから。ずっと」
だからさっきも聞いたと吐き捨てたくなった。それはおまえの思い込みだろうとも思った。
俺のなにが、あの当時のおまえの琴線に触れたのか、俺は今でも理解できない。まったく理解できない。
「今も、ずっと」
「……おまえのそれは刷り込みだって言わなかったか、俺」
「俺も違うって言いませんでしたっけ」
どこまでも真剣な顔で、そんなことを言う。それが厄介なんだと心底うんざりした。今も、昔も。子どものかたくなな思い込みが消えないのと同じ頑固さで折原が口にするそれは、俺にとって毒そのものだった。
「なぁ、もう一回キスしたら忘れるか、おまえ」
なにを言っているのだと。残っている頭の冷静な部分が叫んでいる。
理性で制御できないのなら、それはただの衝動だ。折原を前にすると、そんなふうになってしまうことがあった。自分の感情をコントロールできないことは恐ろしい。だから避けていた側面もあったのに。
大丈夫になったつもりで、ぜんぜん大丈夫じゃない。またこうして引きずられている。
「おまえのそれは、あのころの名残だ。だったら、今を認識したら忘れるか」
高校生だったあのころと同じ場所に立ったところで、今の俺とおまえは違う。悪い顔じゃないと。あのころの俺たちを知る人に評されたことは、希望のようにも思えた。
そうだ。だから、過去にしてくれ。過去の記憶にして思い出にして、いつかすべてなかったことにしてくれ。
折原だけではなく、自分に対しても、俺はそうであってほしいと思っていた。自分に対してだけで言えば、あの日からずっと願い続けていたのかもしれない。
「先輩」
怒ってもしかたがないと思っていたのに、折原の声は静かだった。
「俺はね、先輩と俺の関係が始まったのがあのころだから、そういう意味ではあのころが特別だと思ってる。でも、それとはべつに今の先輩のことも知りたい。これから先のこともそばにいて知っていきたいとも思う。これって、好きってことじゃないの」
「だから、それが思い込みだって言ってんだろ」
言葉の意味を理解したくなくて、切り捨てる。冗談になっていただろうか。笑い飛ばす調子になっていただろうか。
どうかそうであってほしいと思った。
しばらくして沈黙を破ったのは、苦笑とも溜息ともつかない折原の声だった。
「ねぇ、先輩。先輩は、俺に待ってるって言ってほしかった?」
「待ってる?」
「俺は待ってるから、時間がかかっても治して、戻ってきてほしいって。そんなことを、あのときの俺に言ってほしかった?」
なにをいまさら言っているのかと、折原を凝視してしまった。できるだけ見ないように努めていた後輩がどんな顔をしていたのか、はっきりとはわからなかった。逆光に隠されて揺れている。そのことにほっとしたのも束の間で、想像だけが嫌なふうに先行していく。
あの日も、最後にひとり見送りに来た折原は、そんな顔をしていたのだろうか。
治らないとは医者は言わなかった。
時間がかかることは間違いなかった。あの時期に一年近い時間を失うことは大きなロスだ。けれど、リハビリに懸命に取り組んで、再スタートを切れるように努めたいと願えば、無理だとは言い切られなかっただろう。
可能性は低かったかもしれないが、ゼロではなかった。それもまた事実だった。
「俺、言えなかった。そんな無責任なこと言って、それで先輩を縛るのが怖かった」
その言葉に、深山の高等部に進学することを決めたときも、他の道はあったのだということを思い出した。
たとえば、ほかの強豪校を選ぶこともそうだっただろうし、サッカーから離れることも選択肢のひとつだったはずだ。けれど、そうしなかったのは。そのまま内部進学を選んで、サッカー部に残ったのは。折原が微塵も疑っていない顔で言ったからだった。
あと一年待っていてくださいねと。また一緒にサッカーやりましょうねと。そう、言ったからだった。
これ以上の先は、ないけれど。
「俺、先輩が勉強してんの知ってたし、もしかして、先輩、サッカーは高校で最後にする気なのかなとも思ってた。もったいないって俺は思ってたけど。でもそれは先輩が決めることだってこともわかってて、でも」
迷うようにかすかに折原が目を伏せた。けれどすぐに顔が上げる。まっすぐに人を射抜く、昔から変わらない強い瞳。
「でも、今でも思うことがある。ねぇ、先輩、もしあのとき俺が待ってるって言ってたら、先輩は今と違ってた?」
自分のそばにいたのかと聞かれているみたいだった。なにを言っているんだと呆れる反面、心は不思議と凪いでいた。
あの日、会いたくないと言ったのは俺だ。それに――。
「おまえがなに言ったって、俺は俺で決めてたよ、たぶんな」
「知ってるけど。先輩はそうだと思うけど、でも」
「折原」
静かに遮って、あらためて視線を合わせる。意志の強い目だと思った。はじめて出会ったころもそうだった。けれど、あのころのほうがもっと無邪気で傲慢だったかもしれない。
折原は良くも悪くも、折原藍という選手の才能をわかっている。
「俺は、おまえが俺とのサッカーが好きだったって言ってくれて、十分だって思った」
うれしかったのは本当だった。そこに言葉にし切れないなにかが潜んでいたとしても。
「先輩」
変わらずまっすぐに見つめたまま、折原ははっきりと続きを口にした。
「好きです」
「折、……」
「好きなんだ、ずっと。……ずっと」
だからそれは思い込みだ。何度目になるかわからない言葉を言ってやらなければならなかったのに、言えなかった。
じくじくと浸食していくそれは間違いなく毒なのに、たまらなく甘い。
なにをやっているんだと思った。
けれど、思うだけだ。これだって何度思ったかしれない。
俺は終わらせるために、ここにいるんじゃないのか。それなのに、なんで否定できないんだ。終わらせてやれないんだ。
回っているのは世界でも未来でもなんでもない。ただ繰り返すように過去が巡っていると、そう思った。
そう言って見送ってくれた監督に別れを告げて母校の門を出る。坂道は夏の夕暮れでオレンジ色に染まっていた。在学していたころはもっと暗くなるまでグラウンドに残っていた。そういう意味では見慣れない光景だ。
それは、楽しそうな顔の折原がとなりにいることも含めてだけれど。居心地が悪いように感じるのも事実なのに、折原が楽しいのならいいかとも思ってしまう。
再会してからずっと、折原がなにを考えているのか、よくわからないままだった。
あのころだったらわかっていたのかと問われると、わかっているつもりだったとしか答えられない。それでも、わかることもあった。高校生だったころの刷り込みは、折原のなかに今も根強く残っている。
「監督ぜんぜん変わってなかったっすね。先輩、なんの話してたんですか?」
いっそ無邪気と評してやりたい口調で、折原が問いかける。
「たいしたことじゃねぇけど」
「でも、なんかうれしそうですよ」
「そんなこともねぇけど」
「そんな否定しなくても。楽しいのはいいことですよ。監督も先輩に会えてよかったと思うし」
自分のいないところで、果たしてどんなふうに話されていたのか。ろくでもないことだとしか思えなかったので、その疑念は黙殺した。かわりに違う言葉を選ぶ。
「おまえのこと」
「え? 俺?」
虚を突かれた顔に、小さく笑う。
「俺よりもおまえが崩れそうで怖かったってよ。馬鹿じゃねぇの」
俺が深山を去ったあとの話だ。
聞きたいと思ったこともなかったし、知ろうともしていなかった。
俺がいなくなった穴を埋める選手はいくらでもいた。だから、組織としてはなんら変わりなかったはずだ。現に、折原は深山に在籍していた三年間、ずっと県代表として冬の選手権に出場していた。国立のピッチに立ったのは、一年のときと三年のときだっただろうか。
知りたくもないのに知識として蓄えてしまったのは、テレビのニュースで耳にしてしまったからだ。母校のサッカー部の名称を音で拾った瞬間に画面を見て後悔する。その繰り返し。けれど、それももう昔の話だ。
「思い上がんなよ、おまえ。俺が怪我したのは、誰のせいでもないだろうが」
足を止めて、まっすぐに見据えたまま、言い含める。答えるかわりに、折原がふっと視線を落とした。
あいかわらず正直で、嫌になる。その感情を苦笑で流した。
「ぜんぶ、いまさらだけどな」
監督も時効だと判断したからこそ、俺に過去の話題のひとつとして聞かせたのだろう。俺がいなくなってから、折原が不調で使い物にならない時期があったと監督は笑っていた。
表面上はそこまで変わりないのに、その反動のようにプレーが荒れていたと。そのことで富原が相談にきたこともあったなと監督が続けた内容に、昔の話のはずだったのに本気で腹が立ちかけた。
けれど、それもいまさらだ。俺が言ったとおり。
「しょうがないじゃないっすか」
沈黙のあとで折原が息を吐いた。困ったように、あるいは、ほんの少し不貞腐れたように。
「あのころの俺にとって、先輩はそういう存在だった」
「そうか」
「でも、今は……」
今は、と。現在までをも紡ごうとした折原の声が、ふいに途切れた。その視線を追って、背後に首を巡らせる。
懐かしい深山の制服姿の女子高生がふたり立っていた。ちらちらとこちらを窺う視線に、そういえばそうだったと思い出す。こいつはいわゆる有名人なのだった。声をかけようとしたのかその子たちが足を踏み出した、瞬間。
「っ、折原!」
手首を掴んだ折原の手を振り払うよりも早く、ひっぱられた足が走り出す。
後ろで上がった黄色い声に抗議しようとしたタイミングで、折原が振り返って笑った。悪戯が成功した子どもみたいなそれで。
「逃げるが勝ちって言うじゃないですか。俺、今日は絡まれるの、勘弁なんで」
先ほどまでの陰りの消えた顔がまた前を向く。坂道を駆け下りていく黒髪が夕焼けを受けてきらめく。なにをしているんだろうと思うのに、懐かしさに揺さぶられた。どうしようもないほどに。あのころとは違うのに、思い浮かんだ映像が消えない。
手放しに未来を信じていた、幼かったあの日々。折原とふたり。自転車で下った、夜の坂道。
「あー、走った! でも、なんか楽しいですよね……って。先輩? 大丈夫?」
折原の手がやっと離れたのは、坂の下に広がる住宅街から少し外れたところにある小さな公園だった。
「……折原」
「先輩?」
のぞき込むきょとんとした顔は、なにもわかっていない。腹いせに小突いてやりたい衝動を呑み込んで、息を吐く。言いたくはないが、膝が笑っている。
「現役のおまえの体力と一緒にすんな」
この暑い時期に全力疾走とか、なんの罰ゲームだ。
言葉にされてようやく理解したらしい折原が、情けなく眉を下げる。その顔に得も言われぬ罪悪感を覚えて、「水」と呟く。与えられた使命に、ぱっと顔を輝かせた折原が、買ってきますと走り出していく。
あれだから犬だのなんだのって言われるんだろうな。ついこのあいだの飲み会でも聞いた元チームメイトの軽口を思い出す。その背中があっというまに小さくなるのを見送って、ぼやく。
「あいつ、いつまで、俺のことを同じ土俵に置いとくつもりだ」
違うだろう。それで当たり前だろう。何度も伝えたつもりなのに、折原はあのころばかりを見ているようだった。
なにを考えているのかわからない。そう思ったのは、その不自然さが原因なのかもしれない。
――まぁ、でも、それも俺のせいか。
ひとりになると自然と溜息が漏れた。このあたりも、あのころとはあまり変わらない。それでもまったく同じではない。時間は流れている。それは、最近になってよく思うようになったことだった。あのころとは違うと自分に言い聞かせているのにも近かったかもしれない。
「お待たせしました」
戻ってきた折原に笑顔で手渡されたペットボトルを受け取って、首を傾げる。コンビニのシール。
「おまえ、コンビニまで行ってたの、わざわざ」
公園の出入り口付近に自販機があったはずだ。てっきりそこだと思っていたから行かせたのに。
「だって、先輩、こっちのほうが好きでしょ?」
だから当然というように折原が笑う。馬鹿だろ、おまえ。そんなもん、たいして変わらねぇだろ。あぁ、もう、なんで。そこまで思ったときには声に出ていた。
「なぁ、おまえ、なにがしたいの」
言葉にならない苛立ちやもどかしさが声に滲む。折原は変わらなかった。平然と問い返す。
「なにって、どのことが、ですか?」
「おまえは、俺に今を見てほしいって、そう言ったよな。でも、俺にはおまえがあのころに引きずられているようにしか見えない」
そもそもと思う。そもそもとして、なんで。なんで、おまえが引きずる意味があるんだよ。よくわからない感情と一緒に吐き捨てる。
「おまえは、俺をいつまであのころの俺だと思ってるつもりだよ」
「しかたないじゃないですか」
それしかないというように、折原は同じ言葉を繰り返した。
「俺にとって、先輩は特別だったから。ずっと」
だからさっきも聞いたと吐き捨てたくなった。それはおまえの思い込みだろうとも思った。
俺のなにが、あの当時のおまえの琴線に触れたのか、俺は今でも理解できない。まったく理解できない。
「今も、ずっと」
「……おまえのそれは刷り込みだって言わなかったか、俺」
「俺も違うって言いませんでしたっけ」
どこまでも真剣な顔で、そんなことを言う。それが厄介なんだと心底うんざりした。今も、昔も。子どものかたくなな思い込みが消えないのと同じ頑固さで折原が口にするそれは、俺にとって毒そのものだった。
「なぁ、もう一回キスしたら忘れるか、おまえ」
なにを言っているのだと。残っている頭の冷静な部分が叫んでいる。
理性で制御できないのなら、それはただの衝動だ。折原を前にすると、そんなふうになってしまうことがあった。自分の感情をコントロールできないことは恐ろしい。だから避けていた側面もあったのに。
大丈夫になったつもりで、ぜんぜん大丈夫じゃない。またこうして引きずられている。
「おまえのそれは、あのころの名残だ。だったら、今を認識したら忘れるか」
高校生だったあのころと同じ場所に立ったところで、今の俺とおまえは違う。悪い顔じゃないと。あのころの俺たちを知る人に評されたことは、希望のようにも思えた。
そうだ。だから、過去にしてくれ。過去の記憶にして思い出にして、いつかすべてなかったことにしてくれ。
折原だけではなく、自分に対しても、俺はそうであってほしいと思っていた。自分に対してだけで言えば、あの日からずっと願い続けていたのかもしれない。
「先輩」
怒ってもしかたがないと思っていたのに、折原の声は静かだった。
「俺はね、先輩と俺の関係が始まったのがあのころだから、そういう意味ではあのころが特別だと思ってる。でも、それとはべつに今の先輩のことも知りたい。これから先のこともそばにいて知っていきたいとも思う。これって、好きってことじゃないの」
「だから、それが思い込みだって言ってんだろ」
言葉の意味を理解したくなくて、切り捨てる。冗談になっていただろうか。笑い飛ばす調子になっていただろうか。
どうかそうであってほしいと思った。
しばらくして沈黙を破ったのは、苦笑とも溜息ともつかない折原の声だった。
「ねぇ、先輩。先輩は、俺に待ってるって言ってほしかった?」
「待ってる?」
「俺は待ってるから、時間がかかっても治して、戻ってきてほしいって。そんなことを、あのときの俺に言ってほしかった?」
なにをいまさら言っているのかと、折原を凝視してしまった。できるだけ見ないように努めていた後輩がどんな顔をしていたのか、はっきりとはわからなかった。逆光に隠されて揺れている。そのことにほっとしたのも束の間で、想像だけが嫌なふうに先行していく。
あの日も、最後にひとり見送りに来た折原は、そんな顔をしていたのだろうか。
治らないとは医者は言わなかった。
時間がかかることは間違いなかった。あの時期に一年近い時間を失うことは大きなロスだ。けれど、リハビリに懸命に取り組んで、再スタートを切れるように努めたいと願えば、無理だとは言い切られなかっただろう。
可能性は低かったかもしれないが、ゼロではなかった。それもまた事実だった。
「俺、言えなかった。そんな無責任なこと言って、それで先輩を縛るのが怖かった」
その言葉に、深山の高等部に進学することを決めたときも、他の道はあったのだということを思い出した。
たとえば、ほかの強豪校を選ぶこともそうだっただろうし、サッカーから離れることも選択肢のひとつだったはずだ。けれど、そうしなかったのは。そのまま内部進学を選んで、サッカー部に残ったのは。折原が微塵も疑っていない顔で言ったからだった。
あと一年待っていてくださいねと。また一緒にサッカーやりましょうねと。そう、言ったからだった。
これ以上の先は、ないけれど。
「俺、先輩が勉強してんの知ってたし、もしかして、先輩、サッカーは高校で最後にする気なのかなとも思ってた。もったいないって俺は思ってたけど。でもそれは先輩が決めることだってこともわかってて、でも」
迷うようにかすかに折原が目を伏せた。けれどすぐに顔が上げる。まっすぐに人を射抜く、昔から変わらない強い瞳。
「でも、今でも思うことがある。ねぇ、先輩、もしあのとき俺が待ってるって言ってたら、先輩は今と違ってた?」
自分のそばにいたのかと聞かれているみたいだった。なにを言っているんだと呆れる反面、心は不思議と凪いでいた。
あの日、会いたくないと言ったのは俺だ。それに――。
「おまえがなに言ったって、俺は俺で決めてたよ、たぶんな」
「知ってるけど。先輩はそうだと思うけど、でも」
「折原」
静かに遮って、あらためて視線を合わせる。意志の強い目だと思った。はじめて出会ったころもそうだった。けれど、あのころのほうがもっと無邪気で傲慢だったかもしれない。
折原は良くも悪くも、折原藍という選手の才能をわかっている。
「俺は、おまえが俺とのサッカーが好きだったって言ってくれて、十分だって思った」
うれしかったのは本当だった。そこに言葉にし切れないなにかが潜んでいたとしても。
「先輩」
変わらずまっすぐに見つめたまま、折原ははっきりと続きを口にした。
「好きです」
「折、……」
「好きなんだ、ずっと。……ずっと」
だからそれは思い込みだ。何度目になるかわからない言葉を言ってやらなければならなかったのに、言えなかった。
じくじくと浸食していくそれは間違いなく毒なのに、たまらなく甘い。
なにをやっているんだと思った。
けれど、思うだけだ。これだって何度思ったかしれない。
俺は終わらせるために、ここにいるんじゃないのか。それなのに、なんで否定できないんだ。終わらせてやれないんだ。
回っているのは世界でも未来でもなんでもない。ただ繰り返すように過去が巡っていると、そう思った。



