「ねぇ、先輩! こっち!」
溌溂とした声に、うんざりと顔を上げる。どんな顔を向けるべきか悩んだのも事実だが、笑うような気分にはなれなかった。
それでも歩む速度を少し上げてとなりに追いつけば、折原は破顔した。あのころと変わらないと思ってみたところで、実際は高校生だった当時よりずっと精悍になっている。
「おまえ、いつも元気だよな」
暑いのにと。ぎこちない表情を取り繕うように呟くと、折原が小さく笑った。
「先輩、昔もよく言ってましたよね、それ。試合中とか練習中は絶対にそんなこと言わないくせに」
「そうか?」
「うん。ほら、よく一緒に、……というか、俺が先輩についていってただけですけど、ここの坂を下って買い出しに行ったりしたでしょ。そのときもよく言ってた」
ちょうどこのくらいの時期にと、折原が半分ほど上ってきた坂道を振り返った。住宅街から深山へと続く、なだらかな上り坂。
この道を歩くのは、高校をやめたあの日以来だった。
――なんで、こんなところをこいつとふたりで歩いてんだかなぁ。
最寄りの駅から十五分ほどで、高台にある深山学園に着く。その風景も、驚くほど変わっていなかった。
「おまえ、よく覚えてんな、そんなこと」
「覚えてますって。俺、寮を抜け出して先輩とふたりでチャリに乗るの、好きでしたもん」
「忘れろよ、それは」
半ば反射で切り捨てたくせに、嫌なふうに胸がざわめいた。忘れていないどころか、夢にまで見たばっかりだよ、俺は。なんて言えるわけもないが。
「アイスつけられて、ティーシャツべとべとにされたこととか?」
「しつこいな、おまえ」
「しつこいのが売りなんです、俺」
しつこいというよりは、単純だから刷り込みが抜けていないだけだろう。思うが、こちらも思うだけだ。これ以上この話題を続けると不要な藪をつつくことになりそうで、話を変えるために口を開く。
もう、ほんの数メートル先に、あのころと変わらない母校の校門がある。
「おまえさ。なんで、今日、わざわざ俺に声かけたわけ?」
プロの選手として、ましてや日本を代表する選手に成長した折原に、監督が声をかけた理由はわかる。折原が快く応じた姿勢も理解できる。だが、そこになぜ俺が巻き込まれる流れができあがったのかは意味がわからない。
「ここなら来てくれるかなと思って」
「……なんの理由にもなってねぇんだけど」
「だって、ほら。実際、来てくれたじゃないですか」
にこりと笑う顔に毒気を抜かれて、次の文句が音になる前に消えた。そんなふうに笑われると、自分の往生際の悪さがみっともなくなる。
「見てるだけだからな、俺は」
取って付けた了承だったのに、折原は満面の笑みで「はい!」と頷く。こいつは在学生の前でも、ずっとこのテンションのつもりなのだろうか。
「といっても、一時間くらいなんですけどね。激励ってやつです。俺が適役なのかわからないですけど」
よく先輩にも説明下手だって怒られたしと。懐かしい話を折原が持ち出す。たしかにうまくはなかった。天才が人にものを教えることも上手だとは限らないの典型というか、なんというか。けれど、在校生にとっては、そんなことは些細なことだろう。
「おまえが顔出したら士気が上がるんだから、それで十分だろ」
「なんか」
「なんか、なんだよ?」
「先輩に言われると、照れる」
本気で気恥ずかしそうに目を逸らした折原に、思わず「アホか」と呟いてしまった。そしてふと、まただと思った。
また、いつのまにか、折原のペースに乗せられている。
「いつまでも喋ってねぇで、とっとと行って来いよ。監督待たせんな」
「わかりました、そうします。俺はそうとして、先輩はどうします? グラウンドまで来ます? それとも監督のところに顔出すだけにしときますか」
「ここまできてそれかよ」
いっそのこと、最後まで自由気ままを貫けばいいのに。半ば八つ当たりのように思いながら、追いやるように手を振る。
「見ててやるから。ただし、わかってると思うけど、俺はなにもしないからな」
「じゃあ、見ててください。張り切りますから」
無駄に張り切んなよ。万が一、なにかあったらどうするんだ。言おうとして、やめた。
俺はもう、こいつの「先輩」じゃない。
「俺も先輩たちに鍛えてもらって、今があるから。そう考えると恩返しってやつなんですかね、これも」
どうなんだろうなと思った。けれど、こうして折原が母校に恩義を感じて足を運んでいる現状がすべてだ。いい縁ができあがっているのだろう。
俺たちが学生だったころにも、プロになった卒業生が顔を見せに来てくれた記憶がある。その姿に勇気づけられ励まされた覚えもある。もうずっと、昔の話ではあるけれど。
「佐野も来てくれたか」
ひさしぶりに会った監督は、昔の面影そのままだった。そう言ったら、「たった三年で老けたらかなわん」とぼやかれて、それはそうだと笑ってしまった。あのころは、こんなふうに気楽に話せなかったが、今は違う。そういう意味では、俺も少しは大人になったのかもしれない。
視線の先では、後輩たちの前で折原がなにか楽しそうに話している。特別なことを話さなくとも、しなくとも、あの子たちにとって折原は間違いなくヒーローのはずだ。現役Jリーガー。最年少日本代表。稀代のエースストライカー。
あいつの持っている肩書きは、果たして片手で足りるだろうか。そんなことを考えて、それだけでもないかとひっそりと笑う。肩書きがなくても、なぜか昔から折原は人を惹きつけた。
「佐野は、どうだ」
「どうって、べつに、ちゃんと大学生してますよ。真面目に」
「そうか」
グラウンドのフェンスにもたれかかったまま、応じる。
深山の中等部と高等部では監督は異なっていた。だから、直接この人の指導を受けたのは二年ほどだ。
理不尽な要求をすることもなければ、部員を依怙贔屓することもなく、感情で怒鳴り散らすようなこともない。部員の意見も理があると判断すれば尊重してくれる、理知的ないい監督だった。
小さいころから何人もの指導者と接してきたし、そのなかで相性の合う合わないはいくらでもあった。人間としてどうなんだと言いたくなるような大人もいた。だから、最後にこの人に指導してもらえたことは幸運だったと思っていた。
中途半端に俺は逃げ出してしまったけれど。
「そうか」
同じ相槌を繰り返した監督が、ふっと笑った。
「こんなことを言うのも酷かもしれんが、怪我で駄目になった選手は何人も見てきた。だが、慣れるものじゃないな。そのたびに、どうにかならなかったのかと悔やむ」
「俺は……」
「もちろん、いろんな場合があるがな。それと同時に、これからの長い人生をどう歩んでいくのかと老婆心ながら心配もする。――おまえは、ずっとこれ一筋だったしな、タイミングもおまえにとっては辛いものだったろうとも思っていたから」
俺がやめてからも、この人は多くの卵を育て見送り続けている。そのなかで、今こうして思い出してくれただけだとしても、覚えていてくれたことはうれしかった。そして、そう思うことができた自分に少し驚いた。
夏の風に乗って、高校生の興奮を隠さない声が耳に届いた。折原がなにかしたのだろう。小気味のいい音を立ててボールが跳ねている。一挙一動を追う生徒の視線はきらめいていて、自然と笑みが漏れた。
もっと刺激を受けて成長すればいい。そんなふうに思ってしまう程度には、俺はサッカーも深山も好きだったらしい。
「だが、……いや、だから、か。顔を見て少し安心したよ、佐野」
その言葉に、監督に視線を向ける。けれど、なにを言えばいいのかはわからなかった。
「悪い顔じゃない。とびきりいい顔でもないかもしれないが、少なくとも悪い顔じゃない」
答えを見つけられないまま、曖昧に口元に笑みを浮かべる。監督はもう俺を見てはいなかった。まっすぐに教え子たちを見つめながら、続ける。
「これからも岐路はいくつでもあって、数えきれない未来が待ってるんだ。おまえにも」
そうなのだろうか。わからなくて、俺はそのまま黙り込んだ。監督も返事を求めているわけではなかったのだろう。
なんとなく監督に倣って、折原たちへと目を向ける。グラウンドは、あのころとなにひとつ変わっていない。けれど、あのころのグラウンドではない。
監督に比べたら、きっと選択肢はあるのだろうと思う。まだ自分は大人ではない。大人ではないということは、制限された自由のなかにいるということだ。けれど、掴めなくなるものが年々増えていくことも知っている。諦めることも知っていく。
――折原は、どうなんだろうな。
無数の選択肢があると信じてやまない後輩の笑顔は、いつも屈託がない。その笑顔が苦しそうに歪むのは、いつだって俺が傷つけたときなのだ。
溌溂とした声に、うんざりと顔を上げる。どんな顔を向けるべきか悩んだのも事実だが、笑うような気分にはなれなかった。
それでも歩む速度を少し上げてとなりに追いつけば、折原は破顔した。あのころと変わらないと思ってみたところで、実際は高校生だった当時よりずっと精悍になっている。
「おまえ、いつも元気だよな」
暑いのにと。ぎこちない表情を取り繕うように呟くと、折原が小さく笑った。
「先輩、昔もよく言ってましたよね、それ。試合中とか練習中は絶対にそんなこと言わないくせに」
「そうか?」
「うん。ほら、よく一緒に、……というか、俺が先輩についていってただけですけど、ここの坂を下って買い出しに行ったりしたでしょ。そのときもよく言ってた」
ちょうどこのくらいの時期にと、折原が半分ほど上ってきた坂道を振り返った。住宅街から深山へと続く、なだらかな上り坂。
この道を歩くのは、高校をやめたあの日以来だった。
――なんで、こんなところをこいつとふたりで歩いてんだかなぁ。
最寄りの駅から十五分ほどで、高台にある深山学園に着く。その風景も、驚くほど変わっていなかった。
「おまえ、よく覚えてんな、そんなこと」
「覚えてますって。俺、寮を抜け出して先輩とふたりでチャリに乗るの、好きでしたもん」
「忘れろよ、それは」
半ば反射で切り捨てたくせに、嫌なふうに胸がざわめいた。忘れていないどころか、夢にまで見たばっかりだよ、俺は。なんて言えるわけもないが。
「アイスつけられて、ティーシャツべとべとにされたこととか?」
「しつこいな、おまえ」
「しつこいのが売りなんです、俺」
しつこいというよりは、単純だから刷り込みが抜けていないだけだろう。思うが、こちらも思うだけだ。これ以上この話題を続けると不要な藪をつつくことになりそうで、話を変えるために口を開く。
もう、ほんの数メートル先に、あのころと変わらない母校の校門がある。
「おまえさ。なんで、今日、わざわざ俺に声かけたわけ?」
プロの選手として、ましてや日本を代表する選手に成長した折原に、監督が声をかけた理由はわかる。折原が快く応じた姿勢も理解できる。だが、そこになぜ俺が巻き込まれる流れができあがったのかは意味がわからない。
「ここなら来てくれるかなと思って」
「……なんの理由にもなってねぇんだけど」
「だって、ほら。実際、来てくれたじゃないですか」
にこりと笑う顔に毒気を抜かれて、次の文句が音になる前に消えた。そんなふうに笑われると、自分の往生際の悪さがみっともなくなる。
「見てるだけだからな、俺は」
取って付けた了承だったのに、折原は満面の笑みで「はい!」と頷く。こいつは在学生の前でも、ずっとこのテンションのつもりなのだろうか。
「といっても、一時間くらいなんですけどね。激励ってやつです。俺が適役なのかわからないですけど」
よく先輩にも説明下手だって怒られたしと。懐かしい話を折原が持ち出す。たしかにうまくはなかった。天才が人にものを教えることも上手だとは限らないの典型というか、なんというか。けれど、在校生にとっては、そんなことは些細なことだろう。
「おまえが顔出したら士気が上がるんだから、それで十分だろ」
「なんか」
「なんか、なんだよ?」
「先輩に言われると、照れる」
本気で気恥ずかしそうに目を逸らした折原に、思わず「アホか」と呟いてしまった。そしてふと、まただと思った。
また、いつのまにか、折原のペースに乗せられている。
「いつまでも喋ってねぇで、とっとと行って来いよ。監督待たせんな」
「わかりました、そうします。俺はそうとして、先輩はどうします? グラウンドまで来ます? それとも監督のところに顔出すだけにしときますか」
「ここまできてそれかよ」
いっそのこと、最後まで自由気ままを貫けばいいのに。半ば八つ当たりのように思いながら、追いやるように手を振る。
「見ててやるから。ただし、わかってると思うけど、俺はなにもしないからな」
「じゃあ、見ててください。張り切りますから」
無駄に張り切んなよ。万が一、なにかあったらどうするんだ。言おうとして、やめた。
俺はもう、こいつの「先輩」じゃない。
「俺も先輩たちに鍛えてもらって、今があるから。そう考えると恩返しってやつなんですかね、これも」
どうなんだろうなと思った。けれど、こうして折原が母校に恩義を感じて足を運んでいる現状がすべてだ。いい縁ができあがっているのだろう。
俺たちが学生だったころにも、プロになった卒業生が顔を見せに来てくれた記憶がある。その姿に勇気づけられ励まされた覚えもある。もうずっと、昔の話ではあるけれど。
「佐野も来てくれたか」
ひさしぶりに会った監督は、昔の面影そのままだった。そう言ったら、「たった三年で老けたらかなわん」とぼやかれて、それはそうだと笑ってしまった。あのころは、こんなふうに気楽に話せなかったが、今は違う。そういう意味では、俺も少しは大人になったのかもしれない。
視線の先では、後輩たちの前で折原がなにか楽しそうに話している。特別なことを話さなくとも、しなくとも、あの子たちにとって折原は間違いなくヒーローのはずだ。現役Jリーガー。最年少日本代表。稀代のエースストライカー。
あいつの持っている肩書きは、果たして片手で足りるだろうか。そんなことを考えて、それだけでもないかとひっそりと笑う。肩書きがなくても、なぜか昔から折原は人を惹きつけた。
「佐野は、どうだ」
「どうって、べつに、ちゃんと大学生してますよ。真面目に」
「そうか」
グラウンドのフェンスにもたれかかったまま、応じる。
深山の中等部と高等部では監督は異なっていた。だから、直接この人の指導を受けたのは二年ほどだ。
理不尽な要求をすることもなければ、部員を依怙贔屓することもなく、感情で怒鳴り散らすようなこともない。部員の意見も理があると判断すれば尊重してくれる、理知的ないい監督だった。
小さいころから何人もの指導者と接してきたし、そのなかで相性の合う合わないはいくらでもあった。人間としてどうなんだと言いたくなるような大人もいた。だから、最後にこの人に指導してもらえたことは幸運だったと思っていた。
中途半端に俺は逃げ出してしまったけれど。
「そうか」
同じ相槌を繰り返した監督が、ふっと笑った。
「こんなことを言うのも酷かもしれんが、怪我で駄目になった選手は何人も見てきた。だが、慣れるものじゃないな。そのたびに、どうにかならなかったのかと悔やむ」
「俺は……」
「もちろん、いろんな場合があるがな。それと同時に、これからの長い人生をどう歩んでいくのかと老婆心ながら心配もする。――おまえは、ずっとこれ一筋だったしな、タイミングもおまえにとっては辛いものだったろうとも思っていたから」
俺がやめてからも、この人は多くの卵を育て見送り続けている。そのなかで、今こうして思い出してくれただけだとしても、覚えていてくれたことはうれしかった。そして、そう思うことができた自分に少し驚いた。
夏の風に乗って、高校生の興奮を隠さない声が耳に届いた。折原がなにかしたのだろう。小気味のいい音を立ててボールが跳ねている。一挙一動を追う生徒の視線はきらめいていて、自然と笑みが漏れた。
もっと刺激を受けて成長すればいい。そんなふうに思ってしまう程度には、俺はサッカーも深山も好きだったらしい。
「だが、……いや、だから、か。顔を見て少し安心したよ、佐野」
その言葉に、監督に視線を向ける。けれど、なにを言えばいいのかはわからなかった。
「悪い顔じゃない。とびきりいい顔でもないかもしれないが、少なくとも悪い顔じゃない」
答えを見つけられないまま、曖昧に口元に笑みを浮かべる。監督はもう俺を見てはいなかった。まっすぐに教え子たちを見つめながら、続ける。
「これからも岐路はいくつでもあって、数えきれない未来が待ってるんだ。おまえにも」
そうなのだろうか。わからなくて、俺はそのまま黙り込んだ。監督も返事を求めているわけではなかったのだろう。
なんとなく監督に倣って、折原たちへと目を向ける。グラウンドは、あのころとなにひとつ変わっていない。けれど、あのころのグラウンドではない。
監督に比べたら、きっと選択肢はあるのだろうと思う。まだ自分は大人ではない。大人ではないということは、制限された自由のなかにいるということだ。けれど、掴めなくなるものが年々増えていくことも知っている。諦めることも知っていく。
――折原は、どうなんだろうな。
無数の選択肢があると信じてやまない後輩の笑顔は、いつも屈託がない。その笑顔が苦しそうに歪むのは、いつだって俺が傷つけたときなのだ。



