夢の続きの話をしよう(上)【期間限定再録】

「はぁ? なんで俺が」
 面倒くさいと思ったのが顔にも声にも出ていたのか、中学生の富原が困ったように眦を下げる。
「そう言わずに頼むよ、佐野」
「だから、なんで俺なんだよ。監督が聞いても駄目。コーチが聞いてもだんまり。おまえが聞いても駄目なんだろ、俺が聞いて口割るかよ」
「だって、折原が一番信頼してるのは、佐野だろう」
 絶対にそんなわけはない。わかっていたのに、富原が大真面目な顔で言うから、ついうっかり頷いてしまった。途端に先ほどまでの困り顔を一転させた富原に「頼んだからな」と肩を叩かれる。はめられたことに気がついたが、後の祭りだ。
「……一応。一応、先輩として、三年として、聞いてはみるけど。みるだけだからな。あいつがなにも言わなくても文句言うなよ?」
 釘を刺したのに、富原は満面の笑みを浮かべている。そんなことはあるわけがないと言われているようで腹立たしい。
 そもそものことの発端は、折原が二軍の三年生ふたりを殴ったことだった。
 暴力沙汰なんてありえない。その一報を聞いてはじめに思ったのがそれで、ついで浮かんだのが、「馬鹿か」という一言だった。そんなことで出場停止とか。折原に限ってないとは思うが、退部でもさせられたらどうするんだとか。
 ――というか、おまえ……。
 そこまで考えて、がりがりと頭を掻く。浅慮を非難する嵐が消えれば、頭に残ったのはひとつだった。だから、しかたがない。そう思い直して、部活動禁止を命じられていた後輩の部屋へと足を向けた。
「折原」
 気を使っているようで癪だったが、ドアを軽く叩く。共同生活を送る上での最低限の線引きだ。自室は個人空間。折原は遠慮も会釈もなく俺たちの部屋に入り浸っているが、それはそれだ。
 返ってきたのは、「開いてますけど」というまったくかわいくない応えだったが。もとからかわいくはないが、拗ねているとより一層かわいくない。
 中等部に入学してきた直後はまだ小さかったからかわいげもあったが、今となっては身長もほとんど変わらないのだ。かわいくない。溜息を押し殺して、ドアを開ける。まったくかわいくない。
 室内に入ってドアを閉めると、二段ベッドの下段から、わかりやすく不貞腐れた折原が顔を出した。
「先輩もお説教ですか」
「いや、べつに」
 本音で答えてしまってから、どうするかなと思案する。来る前もそれなりに考えていたつもりだったが、実際に不貞腐れた後輩を前にすると言葉に悩む。
「だと思った。どうせ富原さんに『行ってこい』とでも言われたんでしょ。そうでもなきゃ先輩がわざわざ来るわけないもん」
 やたらと棘があるが、すべて図星なので性質が悪い。
「それがいやなら、富原にでもとっとと吐いときゃよかっただろ。なにだんまり決め込んでんだ」
「先輩に関係ない」
「折原」
 かたくなな子どもを宥めるような呼びかけは、我ながら似合わないものだった。なんでそんな調子になったのか、自分でもわからない。驚いたのは折原も同じだったのか、険の抜けた顔が見上げてくる。その頭を乱雑にかき混ぜる。それ以外にどうしてやればいいのかわからなかった。
 やめてくださいよ、だとか、痛いんですけど、だとか。かたちだけの抗議は一切無視して好き放題しているうちに、根負けした頭が俯いて膝に埋まっていく。少し硬めの折原の髪からは、いつも日向の匂いがした。子どもみたいだとからかったこともあるけれど、俺はそれが嫌いではなかった。折原は明るい場所がよく似合う。
 太陽の下で、すべての中心で、ただサッカーをしていたらいい。だから似合わないのだと思った。こんな暗い顔も、発散し切れずに積もらせた鬱憤も。
「あいつらがなんかしてんのでも見たのか」
 ぴくりと素直に折原の肩が揺れる。その反応に天井をあおぎたくなった。
「ほうっとけばいいだろ、そんなもん。それでおまえが部活停止とか。意味ねぇだろ」
「っ、先輩は!」
 弾かれたように顔が上がる。その表情は怒っているというよりは、苦しそうだった。
「先輩は……」
「折原。おまえ、まさかとは思うけどな。俺を庇ったとか言ってみろ。蹴るぞ」
「……」
「そこで黙んなよ、おまえ」
 誤魔化す気をなくした溜息が漏れる。苛立っていることも自覚していて、怒るなと言い聞かす。
「あのな、折原」
「サッカー好きですよ、俺」
 俺の言おうとしていることを察知したのか、折原が遮った。
「でも、そういう馬鹿みたいなの、嫌いなんですよ。それこそ意味がないじゃないですか」
「おまえだって、今までに一度もなかったとは言わないだろ。それとも、なんだ。ぜんぶそうやって律儀に相手してやってんのか」
 いくら突出した才能を持っていたとしても、そういったことが一度もなかったなんて、あるわけがない。中途半端に出た杭であった俺ほど多くはなかったかもしれないが。
「そうじゃないけど。でも、あいつら」
 その、珍しいくらいの不快感の滲んだ声に、「あいつら」の顔が自然と浮かんだ。折原からすればひとつ上。つまり、俺と同学年で、二軍に在籍しているチームメイト。
 今年に入ってから一度も一軍に上がれておらず、練習態度もよくない状態が長く続いているらしい。富原が頭が痛いと愚痴を零していたから知っていると言うだけ。俺ですら、その程度のつながり。
 だから、本来なら、折原が関わる必要のない相手だった。
 そのふたりが、折原がなにも言わないのをいいことに、自分たちはなにもしていないと主張していることも知っている。幸いなことに、監督もコーチも証言を鵜呑みにはしていないけれど。
「殴る蹴るだけが暴力じゃないって。誰にも言えないようにできるやり方もあるって」
「あー……うん、そうか」
「俺はわかりたくもなかったけど、でも、すっげぇ気持ち悪くて!」
「だろうな。俺も聞いただけで気持ち悪いとは思った」
「違う。先輩にそういうの、なんか、すげぇやだ。俺がやだ」
 駄々をこねるように「いやだ」と繰り返して、折原が俺の手を掴んだ。黒い瞳に映り込む自分の顔の揺らぎを認識した瞬間に、音が消えた気がした。
 遠くで聞こえていた寮生の話し声だとか、生活音だとか、そういったすべてが。
「なぁ、折原」
 ベッドに膝を乗り上げて、距離を詰める。折原の意志の強いまっすぐな目が、俺は好きだったけれど嫌いだったし、眩しかった。そんな相反する感情が、このとき臨界点に達そうとしていたのかもしれない。
 二段ベッドの下段は、暗くて狭かった。額が触れ合ってしまいそうな距離。
 掴まれていなかった手を伸ばして、頬に触れる。まだ柔らかさの残る子どもの肌だった。
「あいつらが言ってたのは、こういうことだろ?」
 もうほとんど、距離はなかった。太陽の匂いがすると思っていた髪が鼻先をくすぐる。
「なぁ」
 唇がかすかに開く。それがなにを紡ごうとしていたのかなんて、知らない。手を掴んでいた折原の指先がゆっくりと落ちた。下肢にそっと指先を這わす。
「なぁ、折原。――気持ち、悪い?」
 その衝動が果たしてなんだったのか。俺は今でも答えを出せないでいる。
 サッカーが好きだと屈託なく笑う後輩の才能が眩しかった。好きだったけれど羨ましかったし、どこかで妬んでもいた。あるいは、このときの俺は、折原を引きずり下ろしたかったのかもしれない。
 地の底まで。俺と同じところまで。
「先、輩」
 それは、ざらりとした欲望をはらんだ声だった。耳朶に吐息がかかる生温かい感覚。そのすべてを現実として知覚した瞬間に、頭が冷えた。
 ――俺は、今、なにをしようとしていた?
 そのとき覚えた空恐ろしさを、俺は鮮明に覚えている。だから、必死で誤魔化した。なんでもないと冗談に変えた。そのつもりだった。
 けれど、と諦めに似た気分で思う。だから、俺は折原に対してずっと負い目があるのかもしれない。
 まだ幼かった折原を挑発したのは俺で、切欠を与えたのはこのときの俺だった。刷り込みをしたのは、俺だ。
 だから「それは刷り込みだ」、「勘違いだ」と告げてやることは、俺の義務なのかもしれない。そう感じるようになった。終わらせないといけないと思う理由は、これで十分だ。
 言い聞かせるように、そう念じていた。
 だから、それ以上は考えたくはない。なんで、このときの自分があんな行動に出ようとしたのか、だなんて。
 あのころを知る富原が、なんで俺が折原のことを好きだと考えているのか、だなんて。