夢の続きの話をしよう(上)【期間限定再録】

「過保護なのは俺じゃなくておまえだろうが、昔から」
 酔い潰れた後輩を気にしてベランダに出た富原に付き合って、外に出る。夜とはいえ夏だ。蒸し暑い風が肌にまとわりつくが、クーラーのなかった寮の、真夏の夜の息苦しさほどではない。鉄さびた柵に肘をかけて、煙草に火をつける。
「灰、落とすなよ」
 空き缶を拾い上げて、応じる。滅多に吸わないと言っていたが、富原が喫煙者だということに驚いた。まだ現役のくせに。
「いつも、あぁなわけ、あいつ。酒の飲み方教えてやらなかったの」
「おまえが教えてやったらいいだろう」
 さらりと返して、富原が窓越しに室内を振り返る。
「こんな潰れるような飲み方はしてないよ、いつもは。今日はおまえがいたからだろ」
 先輩、佐野先輩と。心底うれしそうにくっついてくる後輩を、引きはがそうとしても結局できなかった時間を思い出す。
 あのころのチームメイトは、こぞって折原のことを犬だと言うが、そのとおりだと俺も思う。屈託のないというか、全身で「好きです」と伝えてくる顔で懐かれたら、どうしたって邪険にできない。
 それも言い訳だとわかっているけれど。引きはがせないままに、富原の家に連れてきてしまった。
「そういえば、佐野。知ってるか?」
「なんだよ」
「今じゃ信じられないけど、あいつ中等部に入ったころは、おまえのことかなり苦手だったみたいだぞ」
 からかうように種明かしをする富原に、黙って灰を空き缶に落とした。
 知っている。
 あいつが超中学生級のエースとして入学してきた当時、俺も一軍に在籍していたが、折原から話しかけられた記憶はほとんどない。それがなんでこうなったのか、きっかけを俺は知らない。ただいつしか、当たり前にそばにいるようになっていた。
「どうせおまえが、勝手に俺を『いい人』に仕立て上げたんだろ」
 笑い飛ばそうとすると、富原はあっさりと否定した。
「してないよ。――まぁ、あいつが苦手だって言うたびに、よく見てみろと助言はしたけどな」
「……そんなに愚痴ってたのか、あいつは」
「おまえの優しさは、わかりにくいからな」
 だから、おまえにかかったら、みんないい人になるんだって。苦笑して、深く紫煙を吐き出した。あのころだったら、絶対に吸おうと思わなかったものだ。今も、折原がとなりにいたら吸わないだろうと思う。
「あいつは昔からずっと特別扱いされてただろ、良くも悪くも」
「そりゃ、折原だからな」
 ひとつ年下といっても、年代は同じだ。昔からあいつの名前を俺は一方的に知っていた。俺だけじゃない。サッカーをやっていて上を目指していたやつだったら知っていたはずだ。どの年代のユースにも必ず名を連ねていて、世界とも何度も戦っていたエースフォワード。
 その折原が、なにを思ってクラブユースではなく、深山を選択したのかは知らないけれど。
「うちに入りたてのころも、どこか周りは遠慮がちだったからな。同学年のやつらもどう扱っていいのか悩んでたんだろうし」
「今じゃ、ただの馬鹿だけどな」
「その馬鹿にしたのは、佐野だろうって話だよ」
 それは、俺に夢を見過ぎだ。笑って逃げようとして失敗した。富原は真面目な顔を崩さなかった。
「おまえが最初だったからな。ほかのやつらが思っていても陰でしか言わないようなことを軽口にして折原にぶつけて、じゃれてただろ。それで周りの空気も変わった。折原も」
「俺は、あいつがスカした顔してたのが気に食わなくて、それをそのまま口にしてただけ。変わったとしたら、それはあいつが自分で現状をどうにかしようとした、その結果で、だろ」
「なぁ、佐野」
 富原が外に目を向けたまま、静かに口を開いた。
「おまえ、折原のこと、好きなのか」
 そんなわけねぇだろ。即座に否定し損ねて、誤魔化すように煙草を呑む。
「ん、あぁ……どう思う?」
 果たして俺の声は、軽口を叩く調子を保てていたのだろうか。思ったけれど、いまさらだなと諦めた。富原が相手だ。どうせ、ばれる。
「質問に質問で返すな。それに、それは俺が決めることでも判断することでもないだろう」
「おまえの正論、きついんだよ」
 優しそうな顔をして、そのくせに誰もが言いにくいこともきちんと諭して。そうやって大所帯のチームをまとめ上げていた。俺が知っているのは中等部までの話だが、高等部でもそうだったのだろう。
「きついと感じるのは、図星だとおまえが思ってるからだぞ」
「あー……そうなんかな。わかんねぇわ、俺」
 好きだとは口が裂けても言えない。けれど嫌いだとも口にできない。ただの後輩だと言うには、同じ空間を共有してきた富原相手に白々し過ぎる。
 つまり、そういうことだった。
「べつにおまえの口からはっきり聞きたいわけじゃない。けど、なぁ、佐野」
 聞きたくないと思ったのは、その先が予測できたからだ。そして、揺さぶられるとわかっていたからだ。
「おまえがいなくなってからの一年、俺は折原を見てきた。おまえのいない深山で生活してたけどな、あいつは」
「ストップ」
 まだ冗談の範疇に収めることのできる声だった。そのことにほっとする。眉をひそめた富原を視線で制して、空き缶に吸いさしを落とし込む。終わりだ。
「それこそ、おまえの口から聞く話でも、おまえが判断する話でもねぇだろ?」
「だったら」
 富原が溜息じみた声を落として、頭を押さえた。
「逃げてやるな」
「……逃げてねぇだろ」
 少なくとも、今は。という付け足しを呑み込んで、苦笑する。
「だったら、逃げるのをやめたから戻ってきたと思っていいのか、俺は」
 なんでおまえが、この話でそんな真面目な顔をするかな。皮肉ってみたところで、返ってくる言葉は想像できるような気がした。
 富原にとっては、俺も折原も、懐かしいチームメイトで、大事な元仲間で、かわいい後輩で、身内だ。
 けれど、逃げるのをやめたというのとは、少し違うかもしれない。俺も酒が残っているのだろうか。そう思うことにして、トンと音を立てて缶を足元に置いた。
「終わらせに来た」
「佐野」
「やっと決めれたんだ。だから、言うなよ」
 富原の顔をそれ以上は見れなかった。決めたことだ。感傷的になるようなことでもなければ、悲しむようなことでもない。
 それなのに。――なんで、だろうな。
 折原の声も顔も、消えない。この三年で忘れたつもりだった。けれど本当にそれは「つもり」だった。まったく消えてなんていなかった。そして折原も、俺が中途半端なことをしたせいでいまだに覚えてしまっていた。だから消すのだと決めた。
 区切りだと思った。
 このままでは駄目なのではないか。そんな予感は、本当はあのころからあった。それをずっと正視しないまま先延ばしにしてきたのが、俺の弱さだった。今になって、俺はようやくそのことを後悔し始めている。