夢の続きの話をしよう(上)【期間限定再録】

 先輩、と。
 まるで大切なものを呼ぶように、はにかみながらあいつが口にした日のことを、俺は今も鮮明に覚えてしまっている。


「それでは、我が深山の女王様との久々の再会を祝して、乾杯!」
 あのころと変わらない調子のいい音頭に、乾杯と懐かしい声が続く。
 誰が女王様だと思わなくはないが、そんな軽口が流行っていた時期があった記憶がある。
 だから、「うるさい」と睨んでみせたのも、ただのポーズだ。案の定、相手も「その感じも懐かしい」と楽しそうに笑っている。
 距離を開けていたのは俺の勝手だ。それなのに、昔と変わらず受け入れてもらえるのだから、ありがたいと思う。
 小さな居酒屋を貸し切っての飲み会は、隔月程度のペースで行われていたらしい。時間に融通の利く大学生が多いとはいえ、あいかわらずの結束力だと感嘆した。それも俺たちらしいと言えば「らしい」のだろう。
 中高と同じ寮で過ごした仲間との関係は深い。さすがに全員が毎回顔を揃えることはないらしいが、それでもいつも十人ほどは集まるそうだ。今夜も、俺が深山にいたころの一軍メンバーの多くが集まっている。
「まぁ、今日は特別だな」
 変わらない人好きのする笑みを浮かべながら、富原がビールジョッキに口をつける。
 となりに座ったのは昔の習慣の名残だった。入れ代わり立ち代わりチームメイトが話しかけに来てくれていた時間も一段落してふたりで話していると、あのころに戻ったようにさえ思う。
「おまえが来る気になったらしいって言ったら、そりゃ予定空けなきゃなって」
 柔らかい声に横顔を見上げる。中学時代からずっと同室だった戦友は、昔のままの思いやりに満ちた目をしていて。変わんねぇなぁと懐かしくなった。
 周囲の世話ばかり焼いて、自分のことは後回し。人の幸せを心から喜べる善人で、悲しみや痛みも静かに共有しようとしてくれた。
「……そっか」
 折原とはまた違う特別感は、戦友というより親友に近かったのかもしれない。言葉にすると気恥ずかしさはあるが、深山をやめてからも連絡を取り続けていたのは富原だけだった。
 ――富原が飽きずに誘ってくれたからこそ、こうして来ようって思えたんだろうし。
「でも、一番首を長くして待ってたのは、あいつだよな」
 テーブルの向かい側からかけられた声に、半ば反射で顔をしかめてしまった。それは、もしかしなくてもあいつのことか。
「だな。そりゃ、あいつだわ」
「なんていっても、うちの忠犬ハチ公だから」
「あいつの扱いは、あいかわらずそれなの」
 俺たちの世代では一番の出世頭のはずなのだが。昔から変わっていないらしいそれに、思わず口をはさんでしまった。
 なぜか一斉に顔を見合わせたあとに爆笑が起こる。
「おまえにだけは言われたくねーわ、それ! 一番あいつのこと蹴っ飛ばしてたの、おまえだろ」
「下手したら球より蹴ってたんじゃねぇの」
「いや、それはない」
 そんなわけがあってたまるか。一蹴すれば、酔っ払いの笑い声が大きくなる。
 ……なんだ、この異空間。
 このメンバーで酒を飲んだのは当然のことながらはじめてだが、盛り上がり方が凄まじい。これが体育会系の飲み会というやつなのだろうか。黙って自分の酒に口をつける。
「だから、まぁ、なんだ。みんな喜んでるんだ」
 俺が気を悪くしたとでも思ったのか、富原の親父くさいフォローが入る。なんだかそれも懐かしい。昔からどこか達観していたと言えば響きはいいが、富原はじじくさかった。
「でも、あいつも運悪いよな」
「折原だろ? あれだけ行くって騒いでたのに、遅刻だもんな。俺が行くまで待っててくださいって泣きつかれたんだけど。まだ来ねぇのかな」
「仕事らしいからしかたないけどな。――お、噂をすれば」
 その声に、つられて視線を持ち上げる。店の引き戸が開く音がしたと同時に、息を切らして話題の主が駆け込んできた。その顔がほっとゆるむ。
「っかったぁ! 先輩、ちゃんといた……!」
 妙に小綺麗にセットされた髪の毛をぐちゃぐちゃとかき混ぜながら、折原が小座敷の上がり口でへたり込んだ。
 その仕草は間違いなく、昔から見知っている折原なのに、なぜか空気が違ってみえた。そしてそれは俺だけではなかったらしい。さっきまで酒のつまみにしていたくせに、第一声を発する誰かを譲り合っているような気配。諦めて小さく息を吐く。こういう場面で最初に折れるのは、なぜかずっと俺の役割だった。
「なんでそんなかっこつけてんの、おまえ」
 ぶっきらぼうに喋りかけると、折原の顔がぱっと上がった。そのまま座敷に上がりこむ。
「違うんですって。聞いてくださいよ、先輩! 俺だってね、今日は絶対ここに一番に来たかったんですよ。なんなら迎えにも行きたかった!」
「いや、聞いてねぇよ、そこは」
 大型犬よろしく尻尾を振りながら、折原がとなりに割り込んでくる。周囲から明るい笑い声が生まれて、安堵した。その直後に、なんで俺が安心しなきゃいけないのかとの疑念も沸き起こったが。
 不愛想な俺に好き好んでまとわりついていた唯一の変わり種だからだ。だから、俺が面倒を見てやらないといけないような気持ちになるんだ。言い聞かせて、折原に視線を移す。
「雑誌の撮影だったんですよ。俺、今日は無理だって言ったのに、スケジュール無理やり入れられちゃって。それでそのまま急いできたからなだけですからね、これ」
「雑誌って。おまえ、なんの雑誌だよ。というか、おまえはなにを目指してんの」
「なんか佐野のそのド直球も懐かしいな。でも、最近、本当におまえ女子向けっぽい雑誌にもちょいちょい載ってるよな。俺、このあいだ彼女の部屋で見つけて吹きそうになった」
「磯川の彼女ってあれだろ。先月の合コンで見つけた巨乳美女!」
 あっというまに脱線していく話題のそばで、折原はどこかほっとした顔をしていた。
 なんだかそれが昔の、それこそ本当に昔の、中等部にいたころの折原みたいで。無意識にその頭に手が伸びていた。撫でた瞬間に香った整髪剤の匂いだけが、昔と違っていた。
 きょとんとした顔がいやに幼い。悪いと謝るのも変な気がして、不自然にならないように手を離す。あのころも、こんなふうに触れていたのだったか。訪れなかった気まずさのかわりに、折原が照れくさそうにはにかんだ。
「俺、サッカー選手になりたかったんです」
「知ってる」
 というか、おまえはそのサッカー選手じゃねぇか、今。
「ずっと、サッカーが好きだったんです」
「知ってるっての」
「でも」
 騒がしい宴会のなか、折原の声だけが静かに鼓膜に注ぎ込まれているみたいだった。
「佐野先輩がいなかったら、俺は今みたいに好きになれてなかったかもしれない」
 ――そんなわけ、ねぇだろ。
 否定するかわりに飲み放題のメニューを折原の前に突き出す。アルコールだけかと思って、あぁ、そうかと思い直した。
 もうこいつも、酒が飲める年になっているのか。
「飲み過ぎんなよ」
 釘を刺しただけなのに折原はうれしそうに笑って、なぜか富原は「佐野はあいかわらず過保護だなぁ」と目を細めていた。