夢の続きの話をしよう(上)【期間限定再録】

 スコアレスドローの後半十五分、交代の笛が鳴った。
 あっとうれしそうな声を上げた栞に教えられるまでもなく、俺も気がついていた。折原だ。会場アナウンスに、自然とコールが沸き起こる。
 フォワードの仕事は、点を取ること。それがチームのエースなら、なおさらだ。こいつなら、やってくれるんじゃないか。そう思わせる雰囲気を昔から折原は持っていた。エースの資質とでもいうべきものを。同じチームにいたころ、何度もそれに励まされた。そして、もっと折原を輝かせたいと。なぜかいつも願っていたような気がする。
 試合は、パスはつながるものの、なかなか得点に結びつかない時間が続いていた。見ることを避け続けていたことが信じられないくらい、俺はフィールド上の折原から目が離せなくなっていた。
 となりで叫んでいる栞の声も、観客席からの声援も、ひどく遠い。
 ――折原、だ。
 ふいに目の奥が熱くなって、誤魔化すように一度ゆっくりと瞬いた。それでも見下ろす先にある姿は変わらない。一緒にフィールドに立っていたころの折原じゃない。日本を代表する選手になった折原がいる。これだけの熱気に包まれて、今そこに在る。
 それは、ずっと昔に夢想した、いつかの未来だった。
 青い代表のユニフォームを着て、世界に羽ばたいていく。広い世界に続いていく道をただ歩んでくれればいい。
 なににでもなれる。どこへでも行ける。
 まるで――。
 そう、まるで。なれるはずのない自分の未来まで託すように、そう祈っていた。
 それがどれだけ傲慢な感情であるのかもわかっていて、でも、それでも、と。
 ――俺は、先輩が、そこにいないのはいやだ。
 あのとき、折原はそう言った。それで十分だと思った。十分すぎる。十分すぎた。
 ペナルティエリアに抜け出した折原の足元にボールが飛び込んできた。吸いつくようなボールさばきでふわりと浮いた球が、ゴールネットに突き刺さる。
「――――!」
 観客席が地響きのように揺れて、歓声が反響する。抱き着いてきた栞に応えることもできないまま、俺はただ息を詰めてフィールドを見下ろしていた。
 ゴールを決めた折原は、駆け寄ってくる仲間にではなく、たしかにこちらに向かって笑った。
 これだけの人がいるなかで見えているわけがない。俺がどこにいるかわかるわけがない。けれど、あのころの折原は、いつもゴールを決めると真っ先に俺を探して飛びついてきた。いつも、いつも。
 同じチームにいたあいだ、それは、ずっと。
 フィールドの上では、得点を奪い取ったエースが仲間にもみくちゃにされていた。大型スクリーンには折原の笑顔が映っている。そして、それを、俺はここから見ている。
 それはどこか奇妙な感覚だった。けれど、ゆっくりと胸に浸透していく。
「すごかったねぇ! また決めちゃった! って、あれ……、佐野? ちょ、佐野!」
「え、あ……悪ぃ、なに?」
 ざわめきのなかで声を張り上げると、栞が不思議そうな顔で俺を指差した。
「いやにすっきりした顔しちゃって。どうしたの?」
「……え?」
「うん、そりゃそうだよね、ごめん! 変なこと言った! 決まったねぇ、よし残りあと五分! 勝ち切れー!」
 納得がいったのか、栞はまたフィールドに向かって声援を送り始めていた。その興奮した横顔から視線を逸らして、「そうだな」と小さく呟いた。喧騒のなか、誰にも聞こえない本音を。
「すっきり、な」
 そうだ。俺はなにを血迷っていたんだろう。俺が知っているのは高校生のころまでの折原で。今ここにいる折原とはまったく違うのに。
 あの狭い世界のなかで、俺に触れていた子どもじゃない。


 試合はそのまま日本が一点を守り切って勝利した。
 波が引くように観衆が一斉に帰路につく。その人波に揉まれながら駅へと向かう道中で、「ねぇ」と栞が機嫌よく話しかけてきた。
「せっかく勝ったんだからさ、電話くらいしてあげれば?」
 すぐ前を行く庄司と真知ちゃんの試合内容を語り合う声が途切れ途切れに耳に届く。視界の端では栞の青いユニフォームの裾が、夏の夜風に揺れていた。
 ――サイン、か。
 まぁ、せっかく先輩たちが考えてくれたんだから、使ってもいいですけど。そんな生意気なことを折原が言っていたのも、随分と昔の話だ。
「そうだな」
「へ? 本気で?」
「本気でって。栞がしろって言ったんだろ」
「まぁ、そうなんだけど。佐野がそんなに素直に頷くとは思わなかったというか、なんというか」
 逡巡しながら、栞が首を傾げる。
「どういう心境の変化って、聞いてもいいのかな?」
「たいしたことじゃないけど」
 聞いていいのかどうなのかわからないけど、聞きたい。そんな顔を隠せていない栞に苦笑して応じる。
 そう、本当に、たいしたことじゃないのだ。
「ただ、いつまでも俺があのころに固執してるのも変な話だって、ようやく思っただけ。思った……というか、思えたというか」
「そうなんだ?」
「うん、そう。だって、そもそもおかしいだろ。何年も前にちょっと一緒にプレーしたことがあるってだけで、そのころの面影ばっかり追ってるってのも」
 折原は、あのころの折原じゃない。
 今の自分を見てほしいと折原は言っていたが、それは正しかった。中高生だったころに同じ時間を過ごした後輩はもういないと理解できた。
 だから、これは俺の意識の問題なのだと思った、本当に。
「いつまでも過去の栄光にしがみついてんのも、みっともねぇし」
 自嘲した俺を慰めるつもりだったのか、栞は「そういうんじゃないと思うけどなぁ」と首を捻っている。
「まぁ、佐野がそう思いたいんだったら、あたしはなんとも言えないけど。でも」
「え、なに? 悪い、聞こえなかった……」
「――だねって言ったの。余計なお世話だと思うんだけど、ごめんね。お節介で」
 話を終わらすように笑った栞が、腕を強く引く。
「ほら。早く行かないと庄司たちとはぐれちゃうよ。佐野、急いで!」
 わかったと応じようとした瞬間、携帯が着信を伝えて震え出した。表示された名前に、小さく息を呑む。
 ……なんで、今かけてきてんの、おまえ。
 驚愕とためらいと、誤魔化せなかったうれしさとがないまぜになったまま、「悪い」と、栞に断りを入れる。
「ちょっと、電話。悪ぃけど、庄司たちと合流して先に行ってて」
「了解! ちゃんとあとで連絡してねー!」
 大きく手を振った栞が前のふたりと合流したのを確認して、通話ボタンを押す。
「うわ、出た!」
 自分からかけておいて、どんな言い草だ。耳元で弾けた声に、思わず携帯を少し離す。
「先輩! ……あれ、先輩?」
「聞こえてる」
 電話の向こうで首を傾げている姿が想像できて、携帯の位置を元に戻す。音量の下がった声が耳に馴染む。昔はよく聞いていた声だ。
「よかった。ねぇ、先輩。俺のゴール見た?」
「見てないわけねぇだろ。というか、おまえこそ電話してていいのかよ」
「うん、大丈夫。ちょっとだけだから。ねぇ、先輩、俺、どうだった?」
 その言いように、懐かしさを覚えずにはいられなかった。
 本当に折原は、おまえに褒めてもらいたがるよな。
 だから犬なんだって、あいつ。絶対に属性、犬だろ。佐野に構ってもらってうれしいとか、ドエム。
 うるせぇな、おまえら。他人ごとだと思って、好き勝手に言ってんなよ。
 げ、やべぇ。こっちに飛んできた。マジ怖ぇー。
 佐野先輩、怖いっすよ、それ。
 似てねぇ物真似してんじゃねぇよ。
 こら、おまえたち、あまり騒ぐな。
 ――あのころとは違うと思い切ったはずなのに、なんでこうもあっさりと思い浮かぶかな。昔のチームメイトの声が次々とよぎる。嫌だとは感じなかった。
「さすがだよな」
 意識しなくとも穏やかな声を出せている自分が不思議で、けれど、それ以上にほっともした。
「うん、さすが。あのころとはぜんぜん違った」
 身体のつくりもプレーの質も。周りにいるチームメイトも、なにもかもが。
「でしょ? でも、なんだかんだ言って、そんなに変わってないとも言われるんですけどね。ほら、よく先輩が注意してくれてた癖とか」
「いや、変わったよ」
「……先輩? どうかした?」
 あぁもう、こいつはと思った。本当に無駄に聡い。折原の怪訝な顔が浮かんで、目を伏せる。
 どうもしていない。ただ強いて言うなら。
「どうもしねぇよ。そうだ、折原」
「なんですか?」
「俺、今度、深山の飲み会行くわ」
 その直後に訪れたのは沈黙だった。そして、弾かれたような声。
「本当ですか、それ!」
 必死の形相で言い募っている想像に、自然と笑みが浮かんだ。
「おぉ、久々に。いいかげんに顔出さないとなとは思ってたから。富原、俺の都合に合わせてくれるって言ってたし」
「金曜とか土曜はやめてくださいね! 俺、次の日が試合とかだと、ちょっと厳しいんで」
「あー、じゃあそのあたりで日程の調整頼むか」
「ちょ、先輩、ひどい! 俺だって出たいんですよ? 俺、いつかあんたが来てくれるんじゃないかってそれだけで、百パーセントに近い出席率誇ってたんですからね⁉」
「へぇ、そうなんだ」
「そうなんですって! あぁ……もう、なんか、もういいですけど。いや、よくはないですけど! どういう心境の変化なんですかって……いや、やっぱりいいや。今度会ったときに聞かせてください」
 そろそろ戻らないとやばいんで、俺。心底切りたくない調子で続けた折原に、早く戻れと促して通話を切る。切る直前に折原の声が聞こえたけれど、なにを言っていたかまではわからなかった。
 あのころの折原は、なぜかはわからないが俺のことを特別視していた。それは事実だ。もし今もそれが続いているのだとするならば、俺が中途半端に呑み込ませたことが原因にほかならなかった。
 それ以外に理由なんてあるはずがない。そうでなければ、とうに忘れていたはずだ。だから、これは。
 そこまで考えを巡らせて、もうやめようとゆるく頭を振った。そして言い聞かせるように呟く。
「そうだよな」
 折原が今の俺と直接の交流を持てば、きっと折原のなかで過去は昇華されていく。過去の幻影は消える。たとえ、今はそんなことはないとかたくなに信じていたとしても。
 俺も、そうだ。いつまでも折原を、自分のあとだけを追ってくる後輩のままだと思い込もうとしていた。傲慢にも折原を自分のもののように思っていた。
 それが間違っていたのだと、いまごろになって痛感した。
 だから、折原のなかの思い込みが消えるまでのあいだくらい、そばにいてもいいかと思った。
 いびつだった関係が、正しい先輩と後輩の関係に戻るまでくらいの時間だったら、そばにいてやることはできる。
 そのくらいだったら、あいつにしてやることができる。そう、思った。
 正しい関係に落ち着くころには、折原は日本を飛び出しているかもしれない。俺のことも忘れるかもしれない。けれど、そうであっても構わなかった。俺はきっと覚えてしまっているから。
 初恋の亡霊と呟いた栞の声が、脳内で妙な具合に反響していた。
 忘れられないのははじめての恋だったからなのか。口に出す前に消えてしまった言霊がさまよっているからなのか。
 それとも――……。
 直視したくない考えは捨てたはずだったのに、ふと思ってしまった。今朝の夢は、それだったのだろうかと。
 あの夢は、どうしようもない俺の未練だった。