夢の続きの話をしよう(上)【期間限定再録】

「なんか余計なこと言ったな、悪い」
「いや……」
 アパートを出て、最寄り駅に向かう途中。かけられた言葉に、俺は曖昧に返事を濁した。余計なことかどうかをさておけば、庄司が言ったことはなにも間違っていない。
 ただ、妙な感じだなとは思った。こんなことを話しながら、折原が出る試合を見に行くために歩いていることが。
「俺はおまえじゃないから、わかるわけないんだけどさ。ちょっと悔しかったというか。おまえが、今、サッカーをやろうとしないのとか、いろんなことぜんぶ、どうでもよさそうにしてるのとか」
「そんなふうか、俺」
「あー、まぁ、なんとなくだけどな。というか、結局、俺らみたいに高校でサッカーやってたやつは星の数ほどいるだろ? でも、そのうちのどれだけが選手権に出れるよ。国立に立てるよ」
 そして、そこから先の人生を、サッカーで食っていくことのできる人間はさらに少ない。トッププロの世界で活躍できる人間は、本当に一握りだ。
 中学、高校と部活サッカーをしていて、国立の地に夢を見ないやつはいない。それが叶ったのだから、俺は運にも恵まれていた。
「それなのに、そのおまえがって。それこそ勝手な話なんだけどな」
 空気を変えるために笑ったことがわかったから、俺も笑った。
「いいよ、なんとなくわかるから」
 頂点に向かおうとすればするほどわかってしまう。自分とは比べ物にならない才能の塊にいくつも出会う。悔しくないわけがない。苦しくないわけがない。それなのに素直に称賛する気持ちも同居しているから不思議だった。
 自尊心だとか妬心だとか未練だとか羨望だとか、そういった感情がないまぜになって、いつしか独りよがりなことを考えるようになる。自分の夢だったはずのものまで、そいつに被せたくなる。
 サッカーの神様。いつだったか寮の談話室でした他愛ない会話を思い出した。あれほどサッカーに愛された人間というものを、俺はあの後輩以外に見たことがない。


 ゴール裏じゃないから座ってゆっくり見れそうだねと、青いユニフォームを着た栞が笑う。
「そんなこと言っても、絶対に栞は始まった瞬間に立ち上がると思うけどな」
 同じように日本代表のレプリカユニフォーム姿の真知ちゃんがほほえむ。同意見らしい庄司にまで笑われて、栞が口を尖らせて反論を試みているのが、なんともいつもどおりの光景だった。大学に入ってから、いつのまにか当たり前になった自分の日常。
「でも、あれだな。どこもかしこもサムライブルーだな。タオルマフラーくらい買っとくべきだった? 俺らも」
「庄司も佐野もやる気がなさすぎるんだよ。というか、なんで持ってないの?」
 青色に染まる観客席を一瞥して、庄司が横に首を振った。
「見に行く予定なかったし。持ってねぇ」
「佐野は見に行く予定があっても、買わなさそうだけどね」
「それな」
 試合開始前の興奮に、会場の空気は揺れていた。そうかもなとだけ相槌を打って、はるか下のフィールドを見つめる。あの芝も、学生だったころに駆けずり回っていたものとは、まったく質が違うのだろう。
「あ、佐野。佐野。スタメン発表されてる」
 携帯の画面をのぞきながら、栞が口をへの字に曲げる。
「折原くん、ベンチからだ」
「そういえば、このあいだもスーパーサブって感じの出場だったねぇ」
 その台詞に、一ヶ月ほど前に、このメンバーで街角のスクリーンを見上げたことを思い出した。折原のA代表の、デビュー戦だった。その試合で決めた決勝弾。
 ずっと、ずっと。見ないようにしていたのに、立ち止まってしまった。思えば、あの瞬間からなにかが変わり始めていたのかもしれない。
「どうだろ。後半くらいから出てきてくれるかな。ねぇ、佐野」
「流れによるだろ」
「そりゃそうだろうけどさぁ。佐野、冷たい」
 リロードボタンをしつこくタップしている栞を、「何回押してもスタメンは変わらないから」と庄司がからかっている。そのやりとりをなんとはなしに見ていると、視界にあるものが留まった。
「それ……」
 零れた声に、栞がうれしそうにユニフォームの裾をひっぱった。濃い青だから、気がついていなかった。裾の部分に黒インクで書かれた文字は見覚えのあるものだった。
「いいでしょ、これ。このあいだ練習見に行ったときに、折原くんにサインしてもらったんだ」
「え? あたし、知らなかった。どれ、どれ?」
「言ってなかったっけ。スタジアムで観戦できると思ってテンション上がっちゃってさ。せっかくだからと思って、折原くんの背番号のやつ買っちゃったんだよね」
「あぁ、それで。栞、いつのまに新しいユニ買ったんだろって思ってたんだ。へぇ、折原くんのサインかわいいね。ハートだ」
「そうそう、かわいいよね。でも、不思議じゃない? こんなの書かれたらさ、もしかしてあたしに気があるの、みたいな勘違いしたくなるじゃん」
 わかってるけど、妄想は自由だよね。楽しそうに笑っているふたりの会話に割り込むつもりなんてなかったのに、言葉が滑り落ちていた。きょとんと瞳を瞬かせたふたりに、繰り返して取り繕う。
「藍っての。あいつの名前。恋愛とかの愛とは漢字違うけど」
「愛と藍をかけてるってこと? ハートに?」
 名前だからか。どっちにしてもかわいいね、それ。
 そう得心したらしいふたりに、「ある意味では正解だけど、違う」と訂正しようかと思ったが、割愛する。誤解のままにしておくのは、少し折原に悪いような気もしたけれど。
「なんだかんだ言って、よく知ってんね。雑誌チェックしたりしてんの?」
 手持ち無沙汰だったらしい庄司に話しかけられて、「してねぇよ」と笑って否定する。むしろ、折原がどこに載っているのかわからなくて、不意打ちで見つけてしまうのが怖くて、サッカー雑誌からもスポーツ紙からも遠ざかっていた。
 わっと沸いた歓声に導かれて視線を上げる。スタジアムの大型スクリーン。ベンチ入りしている選手の写真が流れ始めていた。ひとりひとり移り変わっていくそれは、今の日本のトップ選手ばかりだ。
「――じゃなくて」
「え、なに?」
「それ、昔、俺らが悪ノリして作ったやつなんだよ。あいつがいまだに使ってるとは知らなかったけど」
 俺たちの代が中等部の寮を出るときの馬鹿騒ぎのひとつだった。プロになったらサインも必要になるよな、なんて。幼い夢の話をしていた。思い出さないでおこうと決めたはずなのに、このままならさが、少しおかしい。
「それに、あいつ、あんまり自分の名前、好きじゃないらしいし。さすがに自分でハートのサインは作んねぇだろ」
「あー、女みたいだからだろ。あるよな、そういうの。どうせ、おまえら先輩がからかってたんだろ。あいちゃーんって」
「俺は言ってねぇよ、たぶん」
「それにしても、深山って普通にメンバーの仲、よかったんだな。あんなバリバリの強豪なのに」
 それは、体罰も、無駄と思えるほどの厳しい上下関係も、露骨な競争意識もなかったと。そういうことなのだろうか。
 そんなことはなかったと簡単に結論は出たけれど、曖昧に首を振るに留めた。苦しかったし、理不尽なこともあった。けれど、思い出すのは、楽しくて充実していた記憶のかけらばかりだ。
 もう始まるよと栞に袖を引かれて、眼下に意識を戻す。ちょうど選手たちの入場が始まったところだった。
「ね、佐野」
「なに?」
「楽しみでしょ」
 歓声にかき消されないように耳元で叫ばれた声は、断定的なものだった。視線を合わせると、にっこりと笑う。
「楽しみでしょ、折原くん見るの」
 サッカーをしている折原を見ることは好きだった。
 あの当時は純粋にすごいと思ってもいたし、同時に悔しいとも感じていた。けれど、深山を離れてからは一度も見ようとしていなかった。考えないようにもしていた。だから、楽しみなのかと問われても、すぐに答えは出なかった。
「……だな」
 けれど、頷く。半分は、そうであってほしいと願いたいような気持ちだった。
 聞こえていたのか、いないのか。わからなかったが、満足そうに視線をフィールドに向け直していたから、届いていたのだろう。
 今の俺を見てほしい。折原があのときそう言った理由も、本当はわかっている。気づいている。富原が、いいかげんに顔を出せと何度も背を押してくれている、その理由も。