懐かしい夢を見たと感じるよりも、嫌な記憶を思い起こされたという感覚のほうが強かった。
「……なにやってんだ、俺」
ぐしゃりと前髪をかき混ぜて、シーツに視線を落とす。下腹部が示していた反応に溜息が漏れた。言葉にするなら軽い絶望。いくら生理現象だと言い聞かせたところで、見ていた夢が夢だ。洒落にならない。
投げやりに熱を持っている下半身に手を伸ばす。夢精までしていなくてよかった。その有様だった日には、いろんな意味で立ち直れない。
――先輩も、俺の、触って?
夢の続きのように、ふいに耳の奥で折原の声が響いた。
一度だけ、いわゆる「抜き合い」をしたことがあった。男同士の悪ふざけの延長。けれど、それだけだとは言い切れないなにかがあったことは否定できない。
だからこそ、ずっと思い出すまいとしていた。
――先輩。
「――――っ……!」
耳鳴りのように折原の声がしたと思った瞬間に、手のなかで欲望が果てた。底知れない脱力感に負けて、後処理もそこそこにベッドに倒れ込む。
「最悪だろ、これ……」
零れた声は、我ながらひどく頼りなかった。たぶん、俺は、あのときに言うべきだったんだ。なにをやっているのだと。俺はそんなことに興味はないと。そう告げるべきだった。
俺が後悔しているとしたら、それなのだろうか。はっきりと拒絶してやれなかったこと。そのせいで殺せなかったなにかを、今になって悔やんでいるのだろうか。
二度目の目覚めをもたらしたのは、電子音だった。インターホンと、枕もとに置いてあった携帯の着信音。
中途半端に寝過ぎたせいか頭が重い。薄いカーテン越しに太陽光が差し込んでいて、本来の起床時間を大幅に過ぎていたことを悟る。玄関先はどうせ勧誘だろうと居留守を決め込んで、携帯に手を伸ばす。
「もしもし?」
「おい、佐野。おまえ、日曜だからって、いつまで寝てんだよ。もう三時だぞ、三時」
「なんで寝てたって決めつけてんだ」
寝ていたは寝ていたけれども。寝起きの頭に容赦なく響くテンションの高い声に、携帯を耳元から離す。
そもそもなにか約束していただろうか。そんなことを考えていると、またインターホンが鳴った。やけにタイミングがいい。
「庄司」
「なに?」
「おまえ、今、どこにいる?」
「え。佐野の家の前だけど」
それがなにかと言わんばかりの口調に、溜息を吐く。聞こえているだろうが問題はない。わざとだ。
「起きたんだったら早く開けてくれね? 暑いんだけど」
「知るか」
反射で吐き捨ててしまったが、開けないわけにもいかない。「わかったから、ちょっと待て。二分待て」
「えー、べつにいいのに。汚くても」
「……俺が構うんだよ」
返事を待たずに通話を切って、そのままベッドに放り投げた。着替えて窓も開ける。夢の名残を追い出すように。
冷水で顔を洗うと、ほんの少しだけ頭が冴えたような気がした。
あんなことは、もう二度と思い出したら駄目だ。自分にそう言い聞かせる。洗面台に設置されている鏡に映る顔は、当たり前だが夢の当時よりも大人びたものになっていた。
玄関を開けると、夏の熱気と一緒に庄司がするりと入り込んできた。暑かったと愚痴を零しながら、一直線にフローリングに倒れ込む。百八十を超えた男が大の字で寝転がっているのは邪魔でしかないが、そのうち起きるだろう。
「で。なんで来たの」
「せっかく迎えに来たのに、ひでぇ!」
「迎え?」
心当たりがなくて首を傾げると、庄司が憤慨したように口を尖らせた。かわいいつもりか。
「おまえは本当に冷てぇな。今日はなんの日だよ」
「知るか」
面倒くさくなってきているのがばれたのか、「それだよ、それ」と庄司が訴える。
「おまえのその言い方が基本的に冷たいんだって。おまえ、あれだろ。折原くんにもどうせその調子なんだろ」
「はぁ?」
なんで、ここで、その名前が出てくるんだ。
下がった声のトーンなんてお構いなしに、庄司は笑って起き上がった。ローテーブルを遠慮なく引き寄せて、据わり心地のいい場所を確保しながら、続ける。
「栞が、佐野が折原くんに冷たいって嘆いてたから」
「なんだ。おまえら仲よくやってんだな」
「その切り替えし、ないわー。まぁ、いいけど」
そもそもの意味のわからない問いのほうが「ないわ」と言ってやりたい。
「いや、まぁ。なんというか、いいように使われてるだけなんだけどな。つまり、今日の俺は佐野係なんだわ」
「はぁ? 俺係ってなんだよ、それ」
「なんだかんだ言い訳してドタキャンしそうな佐野くんを、スタジアムまでお連れする係を栞さんから任命されたんですが」
その台詞を、まだすっきりとしていない頭でゆっくりと噛み砕く。だからか。
だから、あんな夢を見たのか。
――今日、なんだな。
かつて何度も一緒にテレビに映る日本代表の選手たちを見た。折原とふたりで、じゃない。寮の談話室のテレビで、チームメイトと一緒に。
いつか、あんなふうに出場する日がくるのだろうか。そんな夢みたいなことを語った。このなかのひとりくらい、出るかもしれないよな、なんて。
そうだとしたら、そのひとりは折原だろう。漠然と俺はそう信じていた。こんなにも早く鮮烈なデビューを飾るとまでは想像していなかったけれど。
まだ麦茶の残りがあっただろうかと冷蔵庫を開ける。寮にいたころは、寮母さんがすべてを担ってくれていた。実家にいたころは母親が。ひとり暮らしを始めて、最低限の家事をようやくするようになった。これも時の流れだというのなら、きっとそうなのだろう。
適当なマグカップに注いで、庄司の前に置く。そうするともうすることがなくなってしまって、しかたなく俺も腰を下ろした。
「でもさ、おまえ、ほっとしただろ」
「なにが」
「俺が来て」
訳知り顔で笑うのに、ざわりと感情が逆撫でられる。我ながらどうかと思うが、この手の話をまだほかの誰かの口から聞きたくなかった。
「だってさ。これで、もう理由を見つけなくても、今日の試合、見に行けるだろ?」
口調は軽いのに、気にかけているのだという本音が見え隠れしていた。それに気がつくとなにも言えなくて、視線を机の上に外す。
そもそもなんで、俺が本当は行きたいと思っていることが前提なのだと言ってやりたい。
少なくとも、そうではないと俺は思っている。けれど、栞にも庄司にも、そう見えているらしい。
「栞も聞いたらしいけど、そんなに複雑なもんなわけ? 後輩が活躍してるところ見るの」
「そういうんじゃねぇけど」
コンプレックスをまったく刺激されないと言えば、嘘になる。でも、俺は折原が成功することを願っていたし、信じていた。それも本当のはずだった。
どこか納得していない顔ながらも、庄司が相槌を打つ。もういいだろと言おうとしたのを遮るように、庄司が口を開いた。
「ぶっちゃけさぁ、どうなの。深山って寮だっただろ、たしか。なんかあった?」
なんか、あった?
その言葉の意味するところを悟った瞬間に、血の気が引いた。それでも、絶対に否定しないといけないということだけはわかっていて普通を取り繕う。
それは、誰の目にも触れないように鍵をかけて厳重に隠した、秘密だった。
「なんかって、なんだよ」
「だからなんか、だよ。掘られかけたとか襲われたとか」
あるわけないだろ、そんなこと。一蹴するつもりだった反論を封じて、庄司が笑う。
「実は俺も高校のとき寮だったからさ、なんとなくわかるし。べつにあるだろ。触り合うくらいだったら、当たり前とまでは言わないけど、あってもおかしくないっつうか。溜まってるのはみんな同じだし、女子なんて連れ込めねぇし」
経験した人間にしかわからない、独特の空気が流れる空間だったことはたしかだ。
普通だったらありえないようなことが、当たり前になってしまう閉塞感。けれどそれは、隔離された空間だったから、かろうじて許されていた普通だ。
「それに、どうせ同じやるなら、きれいな顔のやつのほうがいいじゃん。べつにホモってわけじゃねぇんだから。おまえ、わりときれいな顔してるからさ。おまえと折原になんかあったんだって言われても、俺はあるかもなって思うよ」
「あってたまるか、そんなもん」
ぼろが出ないように短く吐き捨てる。なのに、庄司は疑念を解いてくれなかった。
「本当に、そうなんだ?」
「おまえの寮がどんなだったかは知らねぇけど。少なくとも、深山にそんな変な慣習はなかった」
「……ふぅん?」
「というか、なんで、そんなに疑わしそうなの。そのほうが俺は疑問だわ」
夏の風がカーテンを揺らす。一緒に入り込んできた子どもの賑やかな声が沈黙に響く。庄司がおもむろに伸びをして、視線を外へと向けた。そして呟く。
「そのほうが納得できるなって、思っただけ」
「納得って」
「だって、そうだろ。ただの高校のときの先輩後輩だって言うには、おまえの故障とかそういうのを差し置いても、おまえは無駄にかたくなだし。栞の話とか、このあいだの折原くんを見た感じでの俺の主観だけど、あの子はあの子で変におまえに固執してる気がする」
庄司の顔を無言で見つめてしまってから、聞き流せばよかったのだと思い至った。
「悪い。佐野が怪我で駄目になったのも、深山の一軍にいたことも知ってた」
なんでだろうなとは思った。なんで捨てたつもりの過去が、今に関わってくるんだろう、とは。けれど、それだけだ。
そのはずだったのに反応が遅れてしまった。気遣われる必要なんてない話題だと言い聞かせて、口を開く。
「真知ちゃん?」
「いや、というか、大学に入っておまえ見たときにわかった。深山の佐野だって。そいつが選手権の怪我でやめたらしいっていうのも噂で聞いてたし」
「庄司が知ってるって、俺も有名人だったんだな」
案外と笑うのは簡単だった。その空気に合わせるようにして、庄司の声のトーンも上がる。
「だって、俺の中学、深山のとなりの地区だったから。おまえと試合したことも何回かあるよ」
「マジか」
俺がそういった話題を避けていたからではあるが、過去に顔を合わせていたとは知らなかった。
「うちもそれなりに強豪だったから、校名くらいは知ってるんじゃねぇかな。成美だよ」
その略称の聞き覚えは十分にあった。私立の強豪校。あふれてきたのは、純粋な懐かしさだった。
「じゃあ、何度かやったことあるんだろうな。ポジションどこだったの?」
「フォワード。覚えてなくてもしかたないと思うけど、一応、中学のころはレギュラーだったのよ」
「……悪い」
「いや、べつにいいって。高校ではおまえと試合してないから、俺」
「上に進まなかったのか?」
深山と違い中高一貫校ではなかったが、近くに同系列の高校があったはずだ。そこもいわゆる古豪で、何度か対戦したこともあるはずだった。
中学時代に対戦した選手の記憶は、地区や県の選抜で一緒になったことがある相手か、よほど突出していた相手でなければ薄れてしまっている。
高校時代にも大活躍していた選手であれば記憶に残っているかもしれないが、今の庄司の顔と一致しそうにない。
「だから覚えてないというか、知らないと思うよ」
薄情さを責めるでもなく、庄司は肩をすくめた。
「なんて言ったらいいのかな。俺の全盛期って、中学だったんだよね。中三くらいからずっと伸び悩んで、高校もそのまま系列校に進んだけど、ずっと二軍だったな」
「そうか」
「自分が一番よくわかるだろ、結局。あぁ、ここで頭打ちかとか、もう無理だなとか。努力したらどうのこうのって次元じゃなくて」
庄司の言うそれは、よくわかった。俺も何度も思っていたことだ。そして、きっと、折原にはわからない。
「それでも俺は好きだったから、高校三年間、二軍でも三軍でもって部活にしがみついてた。そのおかげで踏ん切りもついたし」
「踏ん切り?」
「これで食ってくのは到底無理だって。うちの高校も古豪だなんだって言われてたけど、結局、三年間ずっと県代表にもなれなかったし、県予選の決勝に行けたのも一回だったかな、忘れたけど。そのくらいだったし」
いくら強豪でも、ずっと勝ち続けていられるわけがない。選手権の県予選に波乱はつきものだ。あのころの深山は、県内で頭ひとつ飛び抜けていると言われていた。理由は簡単で、折原がいたからだ。
レベルの高い選手が組織立った守備をするのが深山の持ち味だった。堅実な守備と、得点力のあるストライカー。はまればこれほど強いものはない。
「でも、そこでさえ、俺は試合に出れる側にはなれねぇんだって。こういう言い方するとあれだけど、悟ったみたいな?」
うん、そんな感じだなと。自分の言葉に納得したように頷いて、「でも」と俺を見た。
「佐野は違うだろ。中学のときからずっと深山で、……まぁ、入学直後から即スタメンみたいな怪物ではなかったかもしれないけど、二年でレギュラー獲れてたんだ。十分だろ。しかも名門深山の指令塔だ。おまけに高二で、全国大会の決勝」
「それは……」
「それでも、プロになれるかどうかなんて、わかんねぇけどさ。でも、なれたかもしれないわけじゃん、それがなかったら」
強引に言い切られた言葉から逃げるように目を伏せる。膝が目に入った。べつに、特別なことじゃない。スポーツに故障はつきものだ。俺のそれも、リハビリをして、身体を作り直すという手がないわけではなかった。何年出遅れようとも。
その道を選ばなかったのは俺なのに、そんな傲慢なことを考えていたのだろうか。そうではないと思いたかった。けれど、どこかが鈍くきしんだ。その痛みが図星だと突き付ける。
庄司がふっと息を吐いた。
「最後までやり切ってねぇから、たらればだけが残って未練になんだよ」
そうなのかもしれなかった。認めたくはなかったけれど。中途半端だったのは、すべて俺だ。あの当時は、それ以外に選択肢なんてないような気がしていたが、それも言い訳だ。
ふいに頭に浮かんだのは、退寮の日の一場面だった。
折原が言いかけたなにかを俺は遮った。聞いたら駄目だとわかっていたから。聞いてしまったときに否定できるだけの自信もなかったから。
そうやって中途半端に俺が終わらせてしまったから、今、あいつを思い悩ませているのだろうか。だとしたら、それは――。
鳴り響いた携帯の着信音に、視線を上げる。俺のものではない。悪いと断って庄司が電話に出る。特に隠しもしないところをみると、栞あたりだろう。推論を裏付ける明るい声が耳に入った。その声に、わずかに苛立ってしまった自分にうんざりとした。べつに、栞は悪くない。
外からは、蝉の声が響いていた。今年に入ってからはじめて聞いたかもしれない。この家に越してきて、三度目の夏がやってきていた。
時間は、あっというまに流れていく。誰の上にも等しい速さで。
「……なにやってんだ、俺」
ぐしゃりと前髪をかき混ぜて、シーツに視線を落とす。下腹部が示していた反応に溜息が漏れた。言葉にするなら軽い絶望。いくら生理現象だと言い聞かせたところで、見ていた夢が夢だ。洒落にならない。
投げやりに熱を持っている下半身に手を伸ばす。夢精までしていなくてよかった。その有様だった日には、いろんな意味で立ち直れない。
――先輩も、俺の、触って?
夢の続きのように、ふいに耳の奥で折原の声が響いた。
一度だけ、いわゆる「抜き合い」をしたことがあった。男同士の悪ふざけの延長。けれど、それだけだとは言い切れないなにかがあったことは否定できない。
だからこそ、ずっと思い出すまいとしていた。
――先輩。
「――――っ……!」
耳鳴りのように折原の声がしたと思った瞬間に、手のなかで欲望が果てた。底知れない脱力感に負けて、後処理もそこそこにベッドに倒れ込む。
「最悪だろ、これ……」
零れた声は、我ながらひどく頼りなかった。たぶん、俺は、あのときに言うべきだったんだ。なにをやっているのだと。俺はそんなことに興味はないと。そう告げるべきだった。
俺が後悔しているとしたら、それなのだろうか。はっきりと拒絶してやれなかったこと。そのせいで殺せなかったなにかを、今になって悔やんでいるのだろうか。
二度目の目覚めをもたらしたのは、電子音だった。インターホンと、枕もとに置いてあった携帯の着信音。
中途半端に寝過ぎたせいか頭が重い。薄いカーテン越しに太陽光が差し込んでいて、本来の起床時間を大幅に過ぎていたことを悟る。玄関先はどうせ勧誘だろうと居留守を決め込んで、携帯に手を伸ばす。
「もしもし?」
「おい、佐野。おまえ、日曜だからって、いつまで寝てんだよ。もう三時だぞ、三時」
「なんで寝てたって決めつけてんだ」
寝ていたは寝ていたけれども。寝起きの頭に容赦なく響くテンションの高い声に、携帯を耳元から離す。
そもそもなにか約束していただろうか。そんなことを考えていると、またインターホンが鳴った。やけにタイミングがいい。
「庄司」
「なに?」
「おまえ、今、どこにいる?」
「え。佐野の家の前だけど」
それがなにかと言わんばかりの口調に、溜息を吐く。聞こえているだろうが問題はない。わざとだ。
「起きたんだったら早く開けてくれね? 暑いんだけど」
「知るか」
反射で吐き捨ててしまったが、開けないわけにもいかない。「わかったから、ちょっと待て。二分待て」
「えー、べつにいいのに。汚くても」
「……俺が構うんだよ」
返事を待たずに通話を切って、そのままベッドに放り投げた。着替えて窓も開ける。夢の名残を追い出すように。
冷水で顔を洗うと、ほんの少しだけ頭が冴えたような気がした。
あんなことは、もう二度と思い出したら駄目だ。自分にそう言い聞かせる。洗面台に設置されている鏡に映る顔は、当たり前だが夢の当時よりも大人びたものになっていた。
玄関を開けると、夏の熱気と一緒に庄司がするりと入り込んできた。暑かったと愚痴を零しながら、一直線にフローリングに倒れ込む。百八十を超えた男が大の字で寝転がっているのは邪魔でしかないが、そのうち起きるだろう。
「で。なんで来たの」
「せっかく迎えに来たのに、ひでぇ!」
「迎え?」
心当たりがなくて首を傾げると、庄司が憤慨したように口を尖らせた。かわいいつもりか。
「おまえは本当に冷てぇな。今日はなんの日だよ」
「知るか」
面倒くさくなってきているのがばれたのか、「それだよ、それ」と庄司が訴える。
「おまえのその言い方が基本的に冷たいんだって。おまえ、あれだろ。折原くんにもどうせその調子なんだろ」
「はぁ?」
なんで、ここで、その名前が出てくるんだ。
下がった声のトーンなんてお構いなしに、庄司は笑って起き上がった。ローテーブルを遠慮なく引き寄せて、据わり心地のいい場所を確保しながら、続ける。
「栞が、佐野が折原くんに冷たいって嘆いてたから」
「なんだ。おまえら仲よくやってんだな」
「その切り替えし、ないわー。まぁ、いいけど」
そもそもの意味のわからない問いのほうが「ないわ」と言ってやりたい。
「いや、まぁ。なんというか、いいように使われてるだけなんだけどな。つまり、今日の俺は佐野係なんだわ」
「はぁ? 俺係ってなんだよ、それ」
「なんだかんだ言い訳してドタキャンしそうな佐野くんを、スタジアムまでお連れする係を栞さんから任命されたんですが」
その台詞を、まだすっきりとしていない頭でゆっくりと噛み砕く。だからか。
だから、あんな夢を見たのか。
――今日、なんだな。
かつて何度も一緒にテレビに映る日本代表の選手たちを見た。折原とふたりで、じゃない。寮の談話室のテレビで、チームメイトと一緒に。
いつか、あんなふうに出場する日がくるのだろうか。そんな夢みたいなことを語った。このなかのひとりくらい、出るかもしれないよな、なんて。
そうだとしたら、そのひとりは折原だろう。漠然と俺はそう信じていた。こんなにも早く鮮烈なデビューを飾るとまでは想像していなかったけれど。
まだ麦茶の残りがあっただろうかと冷蔵庫を開ける。寮にいたころは、寮母さんがすべてを担ってくれていた。実家にいたころは母親が。ひとり暮らしを始めて、最低限の家事をようやくするようになった。これも時の流れだというのなら、きっとそうなのだろう。
適当なマグカップに注いで、庄司の前に置く。そうするともうすることがなくなってしまって、しかたなく俺も腰を下ろした。
「でもさ、おまえ、ほっとしただろ」
「なにが」
「俺が来て」
訳知り顔で笑うのに、ざわりと感情が逆撫でられる。我ながらどうかと思うが、この手の話をまだほかの誰かの口から聞きたくなかった。
「だってさ。これで、もう理由を見つけなくても、今日の試合、見に行けるだろ?」
口調は軽いのに、気にかけているのだという本音が見え隠れしていた。それに気がつくとなにも言えなくて、視線を机の上に外す。
そもそもなんで、俺が本当は行きたいと思っていることが前提なのだと言ってやりたい。
少なくとも、そうではないと俺は思っている。けれど、栞にも庄司にも、そう見えているらしい。
「栞も聞いたらしいけど、そんなに複雑なもんなわけ? 後輩が活躍してるところ見るの」
「そういうんじゃねぇけど」
コンプレックスをまったく刺激されないと言えば、嘘になる。でも、俺は折原が成功することを願っていたし、信じていた。それも本当のはずだった。
どこか納得していない顔ながらも、庄司が相槌を打つ。もういいだろと言おうとしたのを遮るように、庄司が口を開いた。
「ぶっちゃけさぁ、どうなの。深山って寮だっただろ、たしか。なんかあった?」
なんか、あった?
その言葉の意味するところを悟った瞬間に、血の気が引いた。それでも、絶対に否定しないといけないということだけはわかっていて普通を取り繕う。
それは、誰の目にも触れないように鍵をかけて厳重に隠した、秘密だった。
「なんかって、なんだよ」
「だからなんか、だよ。掘られかけたとか襲われたとか」
あるわけないだろ、そんなこと。一蹴するつもりだった反論を封じて、庄司が笑う。
「実は俺も高校のとき寮だったからさ、なんとなくわかるし。べつにあるだろ。触り合うくらいだったら、当たり前とまでは言わないけど、あってもおかしくないっつうか。溜まってるのはみんな同じだし、女子なんて連れ込めねぇし」
経験した人間にしかわからない、独特の空気が流れる空間だったことはたしかだ。
普通だったらありえないようなことが、当たり前になってしまう閉塞感。けれどそれは、隔離された空間だったから、かろうじて許されていた普通だ。
「それに、どうせ同じやるなら、きれいな顔のやつのほうがいいじゃん。べつにホモってわけじゃねぇんだから。おまえ、わりときれいな顔してるからさ。おまえと折原になんかあったんだって言われても、俺はあるかもなって思うよ」
「あってたまるか、そんなもん」
ぼろが出ないように短く吐き捨てる。なのに、庄司は疑念を解いてくれなかった。
「本当に、そうなんだ?」
「おまえの寮がどんなだったかは知らねぇけど。少なくとも、深山にそんな変な慣習はなかった」
「……ふぅん?」
「というか、なんで、そんなに疑わしそうなの。そのほうが俺は疑問だわ」
夏の風がカーテンを揺らす。一緒に入り込んできた子どもの賑やかな声が沈黙に響く。庄司がおもむろに伸びをして、視線を外へと向けた。そして呟く。
「そのほうが納得できるなって、思っただけ」
「納得って」
「だって、そうだろ。ただの高校のときの先輩後輩だって言うには、おまえの故障とかそういうのを差し置いても、おまえは無駄にかたくなだし。栞の話とか、このあいだの折原くんを見た感じでの俺の主観だけど、あの子はあの子で変におまえに固執してる気がする」
庄司の顔を無言で見つめてしまってから、聞き流せばよかったのだと思い至った。
「悪い。佐野が怪我で駄目になったのも、深山の一軍にいたことも知ってた」
なんでだろうなとは思った。なんで捨てたつもりの過去が、今に関わってくるんだろう、とは。けれど、それだけだ。
そのはずだったのに反応が遅れてしまった。気遣われる必要なんてない話題だと言い聞かせて、口を開く。
「真知ちゃん?」
「いや、というか、大学に入っておまえ見たときにわかった。深山の佐野だって。そいつが選手権の怪我でやめたらしいっていうのも噂で聞いてたし」
「庄司が知ってるって、俺も有名人だったんだな」
案外と笑うのは簡単だった。その空気に合わせるようにして、庄司の声のトーンも上がる。
「だって、俺の中学、深山のとなりの地区だったから。おまえと試合したことも何回かあるよ」
「マジか」
俺がそういった話題を避けていたからではあるが、過去に顔を合わせていたとは知らなかった。
「うちもそれなりに強豪だったから、校名くらいは知ってるんじゃねぇかな。成美だよ」
その略称の聞き覚えは十分にあった。私立の強豪校。あふれてきたのは、純粋な懐かしさだった。
「じゃあ、何度かやったことあるんだろうな。ポジションどこだったの?」
「フォワード。覚えてなくてもしかたないと思うけど、一応、中学のころはレギュラーだったのよ」
「……悪い」
「いや、べつにいいって。高校ではおまえと試合してないから、俺」
「上に進まなかったのか?」
深山と違い中高一貫校ではなかったが、近くに同系列の高校があったはずだ。そこもいわゆる古豪で、何度か対戦したこともあるはずだった。
中学時代に対戦した選手の記憶は、地区や県の選抜で一緒になったことがある相手か、よほど突出していた相手でなければ薄れてしまっている。
高校時代にも大活躍していた選手であれば記憶に残っているかもしれないが、今の庄司の顔と一致しそうにない。
「だから覚えてないというか、知らないと思うよ」
薄情さを責めるでもなく、庄司は肩をすくめた。
「なんて言ったらいいのかな。俺の全盛期って、中学だったんだよね。中三くらいからずっと伸び悩んで、高校もそのまま系列校に進んだけど、ずっと二軍だったな」
「そうか」
「自分が一番よくわかるだろ、結局。あぁ、ここで頭打ちかとか、もう無理だなとか。努力したらどうのこうのって次元じゃなくて」
庄司の言うそれは、よくわかった。俺も何度も思っていたことだ。そして、きっと、折原にはわからない。
「それでも俺は好きだったから、高校三年間、二軍でも三軍でもって部活にしがみついてた。そのおかげで踏ん切りもついたし」
「踏ん切り?」
「これで食ってくのは到底無理だって。うちの高校も古豪だなんだって言われてたけど、結局、三年間ずっと県代表にもなれなかったし、県予選の決勝に行けたのも一回だったかな、忘れたけど。そのくらいだったし」
いくら強豪でも、ずっと勝ち続けていられるわけがない。選手権の県予選に波乱はつきものだ。あのころの深山は、県内で頭ひとつ飛び抜けていると言われていた。理由は簡単で、折原がいたからだ。
レベルの高い選手が組織立った守備をするのが深山の持ち味だった。堅実な守備と、得点力のあるストライカー。はまればこれほど強いものはない。
「でも、そこでさえ、俺は試合に出れる側にはなれねぇんだって。こういう言い方するとあれだけど、悟ったみたいな?」
うん、そんな感じだなと。自分の言葉に納得したように頷いて、「でも」と俺を見た。
「佐野は違うだろ。中学のときからずっと深山で、……まぁ、入学直後から即スタメンみたいな怪物ではなかったかもしれないけど、二年でレギュラー獲れてたんだ。十分だろ。しかも名門深山の指令塔だ。おまけに高二で、全国大会の決勝」
「それは……」
「それでも、プロになれるかどうかなんて、わかんねぇけどさ。でも、なれたかもしれないわけじゃん、それがなかったら」
強引に言い切られた言葉から逃げるように目を伏せる。膝が目に入った。べつに、特別なことじゃない。スポーツに故障はつきものだ。俺のそれも、リハビリをして、身体を作り直すという手がないわけではなかった。何年出遅れようとも。
その道を選ばなかったのは俺なのに、そんな傲慢なことを考えていたのだろうか。そうではないと思いたかった。けれど、どこかが鈍くきしんだ。その痛みが図星だと突き付ける。
庄司がふっと息を吐いた。
「最後までやり切ってねぇから、たらればだけが残って未練になんだよ」
そうなのかもしれなかった。認めたくはなかったけれど。中途半端だったのは、すべて俺だ。あの当時は、それ以外に選択肢なんてないような気がしていたが、それも言い訳だ。
ふいに頭に浮かんだのは、退寮の日の一場面だった。
折原が言いかけたなにかを俺は遮った。聞いたら駄目だとわかっていたから。聞いてしまったときに否定できるだけの自信もなかったから。
そうやって中途半端に俺が終わらせてしまったから、今、あいつを思い悩ませているのだろうか。だとしたら、それは――。
鳴り響いた携帯の着信音に、視線を上げる。俺のものではない。悪いと断って庄司が電話に出る。特に隠しもしないところをみると、栞あたりだろう。推論を裏付ける明るい声が耳に入った。その声に、わずかに苛立ってしまった自分にうんざりとした。べつに、栞は悪くない。
外からは、蝉の声が響いていた。今年に入ってからはじめて聞いたかもしれない。この家に越してきて、三度目の夏がやってきていた。
時間は、あっというまに流れていく。誰の上にも等しい速さで。



