寮の玄関前で先に降りて、折原は少し奥にある置き場に自転車を返しに行く。いつもだったらそのまま屋内に戻っていたが、そのときはそうしなかった。玄関わきの外灯の下で戻ってくるのを待っていた。
だからだろう、コンビニの袋を片手に戻ってきた折原が目を瞬かせた。けれど、すぐに笑顔に変わる。その顔に、これから言おうと考えていたことへの罪悪感が刺激された。
「おまえ、あんまり勘違いされそうなことばっかり言うなよ」
罪悪感を呑み込んで告げる。唐突で、曖昧な言い方だった。そうだったにもかかわらず、折原はさらりと笑った。
「でも、べつに嘘は言ってないですよ」
盛大に溜息でも吐いてやりたくなった。折れる気はないらしいと理解したからだ。
自分は間違っていないと静かに主張してくるときの折原は面倒だった。自惚れではなく、折原は自分自身よりも俺を優先するところがあった。体育会系における上下関係も影響していたのだろうが、基本的には俺の言い分を許して通す。けれど、あくまで「基本的には」だ。通すのは、折原が譲れる範囲のことだけ。そうではない、自分が引く気がないことは、梃子でも動かない。
中等部にまだ十二才だった折原が入ってきてから、もう四年だ。それだけの時間をともに過ごした後輩の性格だ。嫌でもわかるし、知っている。
「そう言うってことは、俺が言いたいこともわかってんだろ」
「なにがですか?」
笑顔のまま問い返してきた折原と向かい合うこと数秒。結局、折れたのは俺だった。「なんでもねぇよ」
消化不良な声にしかならなかった。けれど、詳細な言葉に変えることはしたくなかった。足元に視線を落とす。夜になっても、まだひどく蒸していた。
寮の部屋にはクーラーがなかったから、窓を開け放ったまま眠りにつくのが、この生活の常だった。部活で酷使された身体は、寝苦しいと思う間もなく泥のような眠りに引き込まれる。
それでも、酷暑が過ぎると眠れない夜もあった。暑いと、なにを考えていても思考がまとまらなくなることがある。
だから、きっと、その熱にやられたんだろう。棒に残っていた氷の塊が落ちていく。コンクリートの色が変わり、蟻が一匹、二匹と集まり始めていた。もったいねぇなと思った。
――そう、もったいない。
折原だったら、もっと、ずっと上に行ける。そのはずなのに、折原のうちにある屈託が、いつか妨げになってしまいそうで怖かった。
外灯に引き寄せられた蛾の、電光に当たる羽音が小さく響く。喋っていたら聞こえないような雑音が耳につくのは、言い表せない空気の重みのせいなのか。
ふと手の甲を伝う水滴が気になった。寮内に戻って洗い流したい。眉をひそめて雫を舐める。
「なに」
注がれる視線を無視し切れずに顔を上げる。さっさと終わらせたいとそればかりを考えていた。自分の部屋に帰って、寝て、そうして、すべてをなかったことにしてしまいたかった。
「その、なんか……」
言い淀まれたことは意外だったが、面倒になって「だから、なんだよ」と繰り返す。自分の声に棘があった自覚はあるが、折原はこの程度では委縮しないのだから問題ない。
富原に「言葉尻がきつい」と苦言を呈されることもたびたびあったし、それは事実で、昔から俺は愛想がいいタイプでも優しいと評されるタイプでもなかった。だから、俺は後輩に懐かれるタイプではないのだ、本当に。
いつのまにか、折原だけが、先輩、先輩とまとわりつくようになっただけで。
「いや、なんというか、先輩の舐め方、エロいなって」
折原が口を割った内容に、絶句する。聞かなきゃよかった。後悔したところで、耳にしてしまった事実は消えない。その心情を知ってか知らずか、「すみません、ついうっかり」と言い訳にもなっていない言葉が続く。
本当に面倒になってきて、なにも言わず背を向けた。その瞬間にビニール袋が視界に入って、あ、と思い至る。溶けているかもしれない。
――まぁ、いいだろ。こいつのせいってことで。
「おまえ、溜まってんなら、適当に処理しとけよ。そのうち、なんにでも興奮できるようになるぞ」
最後に軽口を投げたのは、冗談ですませたかったからだ。そのはずだったのに、玄関の取手を掴もうとした指先が空を掻く。
「おまえな。急に後ろから人の腕、取るな」
振り返って、一段低い場所にいた折原を見下ろす。中等部を卒業したときは、まだ俺のほうが高かった。なのに、高等部に折原が上がってきて一年ぶりに顔を合わせたときは、ほとんど変わらなくなっていた。生意気と笑ったら、折原も、成長期なんでと笑った。
そんなこと言ったら、俺も成長期なんだよ。呆れながらも、そのうち抜かれるかもしれないと思ったことを覚えている。折原の手のひらは大きかったから。センスだけでなく体格にも恵まれた、いい選手になるのだろうと、そう。
だから折原を見下ろしたのは、随分とひさしぶりのことだった。
「しないっすよ」
真剣な顔を崩して折原が笑う。泣いているような笑顔に見えた。折原がそんな顔をするはずがないのに。
「先輩以外に、しない」
腕を掴んだまま、折原が段差を詰めた。目の前に視線の変わらなくなった顔がある。その瞳がふっと逸れた。自嘲するように。けれど一瞬だった。また、まっすぐな瞳が射抜く。
「たぶん、できないんだと思う。俺は、もう、先輩じゃないと」
なにがとは聞きたくなかった。聞けるわけもない。そう思うと同時に、なにか言わないと駄目だともわかっていた。この空気を変えないといけない。危険信号のように必死に訴えている。これ以上、踏み込むなと。それなのに、なにも言えなかった。ただ呑まれたように、折原を見ていることしかできなかった。
すみませんと小さく呟く声を耳が拾ったときには、後の祭りだった。
ほんの一瞬のことだった。唇に掠めるようにして当たった、あたたかい感触。キスとも呼べないような触れただけのそれは、けれどたしかにキスだった。
これは夢だ。けれど実際にあったことだ。嫌になるほど忠実に再現された記憶。あの狭い箱のなかで、ふたりで染め上げた秘密。
そして俺が、かたくなに忘れたいと願っている過去だった。
だからだろう、コンビニの袋を片手に戻ってきた折原が目を瞬かせた。けれど、すぐに笑顔に変わる。その顔に、これから言おうと考えていたことへの罪悪感が刺激された。
「おまえ、あんまり勘違いされそうなことばっかり言うなよ」
罪悪感を呑み込んで告げる。唐突で、曖昧な言い方だった。そうだったにもかかわらず、折原はさらりと笑った。
「でも、べつに嘘は言ってないですよ」
盛大に溜息でも吐いてやりたくなった。折れる気はないらしいと理解したからだ。
自分は間違っていないと静かに主張してくるときの折原は面倒だった。自惚れではなく、折原は自分自身よりも俺を優先するところがあった。体育会系における上下関係も影響していたのだろうが、基本的には俺の言い分を許して通す。けれど、あくまで「基本的には」だ。通すのは、折原が譲れる範囲のことだけ。そうではない、自分が引く気がないことは、梃子でも動かない。
中等部にまだ十二才だった折原が入ってきてから、もう四年だ。それだけの時間をともに過ごした後輩の性格だ。嫌でもわかるし、知っている。
「そう言うってことは、俺が言いたいこともわかってんだろ」
「なにがですか?」
笑顔のまま問い返してきた折原と向かい合うこと数秒。結局、折れたのは俺だった。「なんでもねぇよ」
消化不良な声にしかならなかった。けれど、詳細な言葉に変えることはしたくなかった。足元に視線を落とす。夜になっても、まだひどく蒸していた。
寮の部屋にはクーラーがなかったから、窓を開け放ったまま眠りにつくのが、この生活の常だった。部活で酷使された身体は、寝苦しいと思う間もなく泥のような眠りに引き込まれる。
それでも、酷暑が過ぎると眠れない夜もあった。暑いと、なにを考えていても思考がまとまらなくなることがある。
だから、きっと、その熱にやられたんだろう。棒に残っていた氷の塊が落ちていく。コンクリートの色が変わり、蟻が一匹、二匹と集まり始めていた。もったいねぇなと思った。
――そう、もったいない。
折原だったら、もっと、ずっと上に行ける。そのはずなのに、折原のうちにある屈託が、いつか妨げになってしまいそうで怖かった。
外灯に引き寄せられた蛾の、電光に当たる羽音が小さく響く。喋っていたら聞こえないような雑音が耳につくのは、言い表せない空気の重みのせいなのか。
ふと手の甲を伝う水滴が気になった。寮内に戻って洗い流したい。眉をひそめて雫を舐める。
「なに」
注がれる視線を無視し切れずに顔を上げる。さっさと終わらせたいとそればかりを考えていた。自分の部屋に帰って、寝て、そうして、すべてをなかったことにしてしまいたかった。
「その、なんか……」
言い淀まれたことは意外だったが、面倒になって「だから、なんだよ」と繰り返す。自分の声に棘があった自覚はあるが、折原はこの程度では委縮しないのだから問題ない。
富原に「言葉尻がきつい」と苦言を呈されることもたびたびあったし、それは事実で、昔から俺は愛想がいいタイプでも優しいと評されるタイプでもなかった。だから、俺は後輩に懐かれるタイプではないのだ、本当に。
いつのまにか、折原だけが、先輩、先輩とまとわりつくようになっただけで。
「いや、なんというか、先輩の舐め方、エロいなって」
折原が口を割った内容に、絶句する。聞かなきゃよかった。後悔したところで、耳にしてしまった事実は消えない。その心情を知ってか知らずか、「すみません、ついうっかり」と言い訳にもなっていない言葉が続く。
本当に面倒になってきて、なにも言わず背を向けた。その瞬間にビニール袋が視界に入って、あ、と思い至る。溶けているかもしれない。
――まぁ、いいだろ。こいつのせいってことで。
「おまえ、溜まってんなら、適当に処理しとけよ。そのうち、なんにでも興奮できるようになるぞ」
最後に軽口を投げたのは、冗談ですませたかったからだ。そのはずだったのに、玄関の取手を掴もうとした指先が空を掻く。
「おまえな。急に後ろから人の腕、取るな」
振り返って、一段低い場所にいた折原を見下ろす。中等部を卒業したときは、まだ俺のほうが高かった。なのに、高等部に折原が上がってきて一年ぶりに顔を合わせたときは、ほとんど変わらなくなっていた。生意気と笑ったら、折原も、成長期なんでと笑った。
そんなこと言ったら、俺も成長期なんだよ。呆れながらも、そのうち抜かれるかもしれないと思ったことを覚えている。折原の手のひらは大きかったから。センスだけでなく体格にも恵まれた、いい選手になるのだろうと、そう。
だから折原を見下ろしたのは、随分とひさしぶりのことだった。
「しないっすよ」
真剣な顔を崩して折原が笑う。泣いているような笑顔に見えた。折原がそんな顔をするはずがないのに。
「先輩以外に、しない」
腕を掴んだまま、折原が段差を詰めた。目の前に視線の変わらなくなった顔がある。その瞳がふっと逸れた。自嘲するように。けれど一瞬だった。また、まっすぐな瞳が射抜く。
「たぶん、できないんだと思う。俺は、もう、先輩じゃないと」
なにがとは聞きたくなかった。聞けるわけもない。そう思うと同時に、なにか言わないと駄目だともわかっていた。この空気を変えないといけない。危険信号のように必死に訴えている。これ以上、踏み込むなと。それなのに、なにも言えなかった。ただ呑まれたように、折原を見ていることしかできなかった。
すみませんと小さく呟く声を耳が拾ったときには、後の祭りだった。
ほんの一瞬のことだった。唇に掠めるようにして当たった、あたたかい感触。キスとも呼べないような触れただけのそれは、けれどたしかにキスだった。
これは夢だ。けれど実際にあったことだ。嫌になるほど忠実に再現された記憶。あの狭い箱のなかで、ふたりで染め上げた秘密。
そして俺が、かたくなに忘れたいと願っている過去だった。



