夢の続きの話をしよう(上)【期間限定再録】

 サッカーの神様というものが存在しているとしたなら、どんな姿かたちをしているのだろう。
 そんな話を、いつだったか寮の談話室でしたことがある。他愛ない、昔の記憶だ。チームメイトたちがこぞって世界で活躍する有名選手の名前を挙げるなかで、俺の頭に浮かんだのはひとつ年下の後輩の顔だった。
 全国大会常連校だった深山学園サッカー部のなかでも、ひときわ輝いていた天才。それでいて、人当たりもよく天真爛漫で、誰からも好かれていた。それなのに、なぜか俺の近くにいることを好んでいた変わり者。
 神様と問われて浮かんだのが後輩の顔だなんて、言えるわけもない。ひとり答えず黙っていた俺のとなりに、やはりその日もそいつはいたのだと思う。


 中等部で三年、高等部で二年。あわせて五年もの時間をサッカー部の寮で過ごしたにしては、持ち帰る荷物は多くなかった。けれど、それも当たり前かもしれない。この寮にいたあいだはサッカー漬けの生活で、それ以外はなかったのだから。
 ――でも、それも、もう終わるんだな。
 窓の外からは、練習しているサッカー部の声が響いていた。自分がその輪にいないことに覚えた違和感も、いつか薄れていくのだろうか。
 想定していたより一年早く訪れた競技人生の終わりも、当初は受け入れがたかった。それでも実際に終わりの日を迎えると、案外と心は凪いでいた。
 窓の向こうの世界に、必要以上の感情を抱かなかった自分にほっとする。この調子だったら、彼らと顔を合わせても問題はなかったかもしれない。とはいえ万が一を考えれば、これでよかったのだろう。
 まとめてさえおけば荷物はあとで送ってやる。そう請け負ってくれたのは、同室者だった。世話焼きの男に、最後の最後で甘えてしまった。悪いなと謝ると、水臭いと怒られた。それが数日前の夜にした電話のすべてだった。言いたそうにしていたなにかには気づかないふりで電話を切って、そして今日、誰もいない時間を選んで寮に戻った。誰にも会わずに終わらせるために。
 その、叩かれるはずのないドアが鳴ったのは、名残を捨てて窓から視線を外したときだった。
 そこに立っていた姿に、小さく息を呑む。
「折原」
 なんでいるんだと驚いたのは一瞬だった。俺が戻っていることを知る人間はふたりしかいなかった。監督と、お節介な同室者。
 もの言いたげな電話での声がよみがえれば、犯人はひとりしか思い当たらない。
「あの、富原さんから聞いて。今日、先輩が来るって。でも、ちゃんと監督に許可はもらってきましたから」
「なんの許可だよ」
「先輩の退寮の手伝い」
 よく女子からかっこいいと称されていた顔に、ぎこちない笑みが浮かぶ。
 ――なんで、おまえが泣きそうな顔をするかな。
 しばらくして胸に湧いたのは、呆れに近い愛しさだった。まったく笑えてねぇし。そもそもとして片付けも、もう終わったし。言ってやろうかと思ったが、俺自身も笑えそうになくて、やめた。
 深山学園きっての天才で、うちの不動のエースストライカー。人懐っこくて誰からもかわいがられていたくせに、いつも俺の近くにいた変なやつ。
「折原」
 宥めるように、その後輩を呼ぶ。こんなふうに向き合って話すことも、きっと今日で最後だ。
 怪我をしてからは家に戻っていたから、顔を合わせることもひさしぶりだった。
 誰にも言うなって言ったのに。余計な気を回してくれた同室者を内心で責めながら、視線を合わせる。
 折原が中等部に入ってきたばかりのころは、俺よりもずっと低かった。それが今では変わらないどころか、少し高い位置にある。これからももっと伸びるんだろうなと思った。日本を代表するストライカーとしてふさわしく。
「泣くなよ」
「泣いてないですよ」
「嘘吐け、泣いてんだろ」
「これは先輩が泣かないから、かわりに俺が泣いてあげてるだけなんです」
 その言葉に、俺は笑った。
 俺は泣きたかったのだろうか。自問してみたけれど、よくわからなかった。
 できないことはないと医者は言った。
 きみはまだ若い。しっかりとリハビリに取り組めば、またボールに触れるようになる。ただ、今みたいにプロを目指すところまで状態を戻すことは難しいと思う。けれど、きみの努力によっては、可能性はゼロではない。だから、まずはリハビリを頑張ろう。
 その説明を聞きながら、もう深山に戻ることはないのかもしれないと考えていた。あの後輩のような天才じゃない。あんな飛び抜けた才能を持って生まれてはいない。それでも必死に努力をして、伝統校の司令塔の座をもぎ取った。俺の実績はそれだけだった。
 卒業するまであと一年。そのあいだにコンディションを戻せるとは到底思えなかった。そして、そのあとも。たとえ怪我がなかったとしても、高校卒業後にプロから誘いがくる保証はなかった。それが現実だった。わかっていた。
 もう十分でしょうと言ったのは母だった。全国大会で優勝。立派な思い出よ。今までずっとあなたはサッカーばかりだったけれど、大学に進学すれば世界はもっと開けるわ。
 サッカーから離れる。
 世界が開ける。
 そうなのかもしれないとも、たしかに思った。けれど、それ以上に俺の目には世界の終わりのように映った。
 続けたいと願う熱意と、投げ捨てたくなる焦燥とが胸中で混ざり合う。悩んだ時間は、それほど長くなかったかもしれない。最後に俺が選んだのは、深山から逃げ出すことだった。
 この場所にいることは、苦しかった。だから、誰にも会わずに出て行くつもりだった。それなのに、そのなかでも一番会いたくなかったはずの後輩と、最後にふたり向かい合っている。
 なんでだろうと思った。よくわからなかった言葉への返事を避けて別れを告げる。終わりにしたかった。なにもかもを。
「じゃあな、折原」
「先輩」
 なにをそんなにと言いたくなる切羽詰まった声が引き留める。
「俺、また、連絡してもいいですか」
 似合いもしない殊勝なことを言っている。そう思ったが、了承できる余裕はなかった。
「そうだな」
 曖昧に笑って目を伏せた。それが精一杯だと思うと、少し笑えた。なにが、必要以上の感情は抱かない、だ。顔を合わせても問題ないかもしれない、だ。俺にとっての万にひとつをさらっていくのは、いつもこの後輩の言葉だった。
 ふたり部屋だった寮室から、ひとり分の荷物がなくなる。俺がいたポジションには違う誰かが入って、深山のチームは問題なく機能している。それだけのことだ。けれど、その「それだけのこと」を受け入れる度量がない。
「しばらくサッカーから離れたい、かな。おまえのことは応援してやりたいと思うし、いつかおまえは世界で活躍していくんだろうとも思う。でも、それと違う次元で、俺はおまえに触れたくない」
 サッカーの神様と問われたときに、かつて思い浮かんだ顔だった。その顔が、苦しそうに歪む。
「サッカーじゃなくても、俺」
「おまえからサッカーがなくなったら、なにが残るんだよ」
「残りますよ」
「そうだな、顔はいいもんな」
 重苦しい声を聞いていたくなくて、おざなりに茶化して流す。どうでもいいと思わないとやっていられなかった。
「先輩」
 その声に、だから似合わねぇんだよとうんざりとした。そんな切ないような、葛藤をはらんだような、そんなものは。おまえには似合わない。
「ねぇ、先輩」
 呼びかけと同時に、肩に手が伸びてくる。避けられたはずの接触を甘んじて受け入れた。言い訳は、すぐには思いつかなかった。
 ――最後だから。
 卒業するまでのあいだだけだから。そう繰り返して、続けていたふたりだけの秘密が頭をよぎる。
「先輩」
 もう何度、その声で「先輩」と呼ばれただろう。けれど、本当にこれで最後だ。落としていた視線を上げる。
「キスしてもいいですか」
 捨てていくはずだった秘密を、簡単に折原は口にする。
「最後にしますから」
「駄目」
「なんでですか」
「なんでも」
「……最後にできなくなるからですか」
 そうやっておまえが、さも当然みたいな顔でありえないことを言うからだよ。そう答えるかわりに繰り返す。
「駄目なものは、駄目なんだよ」
 いつかと思った。その顔を見ながら。テレビの画面越しに折原を見る日がくるのかもしれない。そしてその日は、きっと遠くない。青い日本代表のユニフォームを着た折原が、フィールドを自由に駆ける姿を想像することはたやすかった。
 それは、折原にとって当たり前の未来だった。その未来に俺はいらない。
「なぁ、折原」
 肩に触れていた手は、懸念していたよりもずっと簡単に振り払うことができた。
「俺には未来が見えるんだ」
 なにを言っているのだろう。自分でもそう思った。けれど本気だった。今までの人生でこれほど頭を使ったことはないと思うくらい、必死に考えていた。
 折原の未来のことを。守るべき先を。考えて、考えて、別れの言葉を選んだ。
「おまえは高等部にいるあいだも、ずっとレギュラーのままでいられる。怪我することもあるかもしれないけど、大丈夫。ちゃんと治る」
「せんぱ……」
「それで、プロからいくつも誘いがくる」
 先輩と遮るように折原が言い募る。外からは変わらず練習中の声が聞こえていて、それが少し奇妙だった。
「でもそこには、あんたがいないじゃないですか」
「それはしかたないだろ」
 なにを当たり前のことを言っているんだとも思った。今まではたまたま同じところでサッカーをやっていた。けれど、持っている能力も才能も違う。この先は、同じではない。
 折原はサッカーそのものに愛されているような選手だった。俺とは違う。どこまでも駆け上っていくことができる。
「佐野先輩がいないのは、いやだ」
「わがまま言うなよ。おまえはなににでもなれる。どこだって行ける」
 だから、おまえは大丈夫だ。言い切ると、折原がふっと視線を落とした。
「俺は自分に才能がないとは思わないけど」
「当たり前だ。おまえがそんなこと言ったら、刺されるぞ」
「でも、俺は先輩とやるサッカーが一番楽しかった。ユースでやるより、どこの選抜でやるより、ずっと」
「……そりゃ光栄だな」
 未来の日本のストライカーにそこまで言われたら、いい思い出になる。笑ったのに、折原は笑わなかった。伏せていた顔が上がる。
「茶化さないでくださいよ、そうやって」
 変わらない真剣さに、かすかに苛立った。じゃあ、どうしろっていうんだよ。言うべきではない言葉が燻ぶる。
 俺はここで終わりにしたい。おまえだって、そうじゃないのか。これ以上のなにを求めたいっていうんだ。重荷にしかならないって、おまえだってわかっているだろう。
「先輩」
「なんだよ」
「先輩、俺は」
 それ以上を聞く気はなかった。終わらせたい。忘れたい。逃げ出したい。この場所から。この、自分ではコントロールできなくなりそうな、激情から。
 だから、なにも言わせなかった。なにも聞かないまま、ドアを閉めた。それが最後だった。


 折原が俺のことをどう思っていたのか、まったく気がついていなかったと言えば嘘になる。
 けれど一過性のものだと思っていたし、閉鎖的な寮生活から離れたらすぐに消えるものだとも思っていた。
 ただ、自分がどうだったのかはわからないままだった。惹かれていたのはたしかだ。けれど、同時にずっと悔しかった。俺にはないものをいくつも持っている折原が羨ましくて、妬ましかった。
 先輩と笑顔で寄ってくるあいつを見るたびに俺がそんなことを考えていたなんて、折原は知らなかっただろうけれど。
 これで終わる。言い聞かせるように繰り返す。心のうちを占める感情は、やはり安堵のほうが大きかった。
 ここにいることは苦しかった。それだけはたしかだった。
 サッカーの神様なんて遠くの世界にいてくれなければ、焦がれることすらできない。同じ世界線になんて、立っていられない。それだけのことだと思っていたかった。
 あるいは、あの当時の俺にとって、サッカーというものは折原そのものだったのかもしれない。
 そんなふうに思っていたこともすべて、昔の話ではあるけれど。