金曜日
3日前に書いた『退部届』はカバンに入ったままだ。
今年のインターハイブロック地区予選で、僕は左太ももをケガした。
リハビリはうまくいっていると思う。
お医者さんの「復帰できる」という言葉にしがみついたまま、部員として秋を迎えてしまった。
でももう限界かもーー
左右の筋力の差が嫌でもわかるし、全力で走るのはどうしても怖い。
夕方の真っ赤なグラウンドを背にして、サブバッグに手を入れた。
今日こそは先生に出そう。
取り出した少ししわくちゃになった『退部届』をブレザーのポケットに入れ直す。
「水城」
ドクンと心臓がはねた拍子に声の方へと振り向いた。
土屋がゆっくりと気怠く近づいてくる。
土屋とは違う中学だったが、大会で何度も競っていた仲間だ。
同じ高校に入学したのはうれしかったけど、土屋の存在は大きくて、正直邪魔だった。
少なくとも僕は土屋をライバルだと思ってた。
土屋が僕のことをどう見てたか知らないけど。
「お疲れ」
「ああ、お疲れ」
お前の方が疲れてるだろう。
そんな言葉を飲み込んで横に並んだ土屋と校舎へ歩き出した。
今日も走れずに軽くストレッチをして終わった。
なにか文句を言われるかな。
ポケットの封筒を軽く握りしめた。
「脚、痛む?」
「いや、大丈夫」
土屋が笑顔で頷く気配がして、空気がふわりと軽くなった。
部を去ろうとする罪悪感が胸をチクリと刺す。
「陸上……やめるつもり?」
へ!?
咄嗟に見た土屋の目が鋭く僕をにらんでいる。
「え……っと」
土屋を直視できずに長く伸びた影に視線を落とした。
なんでわかったんだ。
今更ごまかしても意味ないのに言葉が出てこない。
「もしそうなら」
土屋の短い言葉の間に小さな期待をする僕がいた。
僕は土屋になんて言ってほしいんだろう。
さびしい?
悲しい?
つらい?
ひょっとして、清々するとか?
でも、どれも僕を引き留める言葉ではないんだと、僅かなショックに胸が痛む。
まだ退部する覚悟ができてないことを実感してしまう。
退部届を書いてみたけど、本当に出すつもりで書いたのか、僕自身わからない。
でも走る恐怖に向き合えない僕のせいで、これ以上みんなに迷惑はかけられないし……
ますます俯いて短くため息をついた。
「水城」
腕を掴まれ、思わず、おぉ? と声が出た。
「マネージャーしないか?」
え?
マネージャー?
「もちろん復帰に向けてリハビリしながら」
夕日に照らされた土屋の顔がどこか恥ずかしそうに見えたのは気のせいか?
「――考えてもなかったな」
違う道を差し出され、僅かに胸が明るく跳ねた。
でもそれって酷なこと言ってないか?
「でも無理だよ」
「どうして?」
「は? みんなが走るの見てろってこと? 僕走れないんだよ?」
少し見上げた土屋の目が見開いた。
ああ、完全な八つ当たりだ……
走れないんじゃないのに……
罪悪感が胸をよぎるが、もう引き戻れない。
「そっか……そうだよね」
掴んだ腕から土屋は手を離すと深いため息をついた。
いや、土屋が悪いんじゃなくてだな……
落ち込んでいく土屋にますます胸が痛い。
「ごめん、気持ち考えなくて。でもさ――」
後に続く言葉を待っても、土屋は口を閉ざしたまま。
でもさ――の続きが気になるが、罪滅ぼしになにか言わなきゃって思うのに、いい言葉が見つからない。
今までありがとう?
いろいろ考えてくれてありがとな?
期待に応えられなくてごめん?
ぐるぐると考えていると、土屋がやっと口を開いた。
「俺さ……中学から一緒にやってきたお前が突然いなくなるのは考えられなくて」
なんだ、この告白は。
ちょっとでもライバルとして認知してくれてたってことなのかな。
「でも、みんなを見てたら走りたくなるし、それができないのがきついんだ。ごめんな。ありがとう」
なんか僕、綺麗事言ってるなぁ。
それよりなんで土屋の方が僕より傷ついた顔してんだよ。
「——ごめん、行かないと」
立ち止まった土屋を見ながら、後ろ向きに校舎に向かう。
今のこの勢いのまますぐ先生に渡したい。
この罪悪感とか、ごまかす自分から早く抜け出したい。
前に向き直りながら足を速めようとしたとき、グイっとまた二の腕をつかまれポケットに突っ込んでた手が抜き出た。
退部届がひらりと地面に落ちる。
あ……やば。
「これ……」
僕の腕をつかんだまま、土屋はそれを拾い上げた。
「やっぱり……本気?」
真剣に問われて息をのんだ。
「冗談にみえる?」
僕は開き直り、少しおどけて答えた。
癇に障ったのかにらみつけながら土屋は僕の腕を引き一歩近づく。
「許さない」
「なんだよ、許さないって」
少し見上げてにらみ返すと、僅かに頬を膨らませ視線だけ逸らされた。
てか、許さないってどういうことだよ。
そんなこと言われる筋合いないけど?
なんだか無性に腹が立って、僕は舐めるようににらみつけた。
「僕が辞めても問題ないだろ」
「水城に辞められたら俺が困る」
「なんでだよ」
視線を外したままつぶやく土屋に怒気を強める。
走れない僕がいたところで、みんなの邪魔になるだけじゃないか。
なんでわからない?
「僕がいなくったって、他に速いやついるだろ」
「いる」
即答され、ぐさりと胸を抉られた。
いやいやいや。今更傷ついてどうするんだって。
「でも、水城は水城だけだ」
鋭い視線を向けられたじろいだ。
さっきからなんの告白だよ。
「無理強いはしない。でももう一度考えてほしい」
刺すような眼光がにじんだように見えた。
だから、なんでお前の方が傷ついてるみたいなんだって。
そんなこと考えてたら、土屋が自分のブレザーのポケットに退部届を押し込んだ。
「お前なにしてんだよ」
「俺が預かる」
「勝手なことするな」
強く手首をつかみ上げると、土屋は下唇を噛んでがっくりと項垂れた。
そしてのっそりとポケットから退部届を出したかと思ったら交換条件を口にした。
「今日出さないなら返す」
「はぁ? 無理強いしないって言ったじゃん」
「前言撤回」
「ふざけんなって!」
「出さない?」
「僕の勝手だろ!」
「なら返さない」
「だからなんで!?」
「だから! 俺がいやなんだって!」
いつも冷静な土屋の張り上げた声に瞠目した。
「——ごめん」
謝りながら俯く土屋に、なんか気まずくて目を逸らした。
なんだよ。まるで僕がいじめてるみたいじゃないか。
で、困るってどういうこと……?
僕はため息をついて土屋の握りしめた退部届に手を伸ばした。
慌てて引っ張ろうとする土屋の手をもう一度強く握り、俯いたその耳に顔を寄せた。
「考えるから。返して」
目を見開いた土屋の緩んだ手から奪うように封筒を取り返した。
「本当だな」
「ああ。3日考えるよ」
「1週間」
「3日」
「だめだ。1週間」
強気の土屋の視線が痛い。
てかさ。なんでそんなに必死なんだよ。
チクチクするまなざしに短く息をついた。
「わかった。1週間な」
たぶん気持ちは変わらないけど。
ほんのり綻んだ土屋の頬に一瞬気持ちが揺らいだ。
3日前に書いた『退部届』はカバンに入ったままだ。
今年のインターハイブロック地区予選で、僕は左太ももをケガした。
リハビリはうまくいっていると思う。
お医者さんの「復帰できる」という言葉にしがみついたまま、部員として秋を迎えてしまった。
でももう限界かもーー
左右の筋力の差が嫌でもわかるし、全力で走るのはどうしても怖い。
夕方の真っ赤なグラウンドを背にして、サブバッグに手を入れた。
今日こそは先生に出そう。
取り出した少ししわくちゃになった『退部届』をブレザーのポケットに入れ直す。
「水城」
ドクンと心臓がはねた拍子に声の方へと振り向いた。
土屋がゆっくりと気怠く近づいてくる。
土屋とは違う中学だったが、大会で何度も競っていた仲間だ。
同じ高校に入学したのはうれしかったけど、土屋の存在は大きくて、正直邪魔だった。
少なくとも僕は土屋をライバルだと思ってた。
土屋が僕のことをどう見てたか知らないけど。
「お疲れ」
「ああ、お疲れ」
お前の方が疲れてるだろう。
そんな言葉を飲み込んで横に並んだ土屋と校舎へ歩き出した。
今日も走れずに軽くストレッチをして終わった。
なにか文句を言われるかな。
ポケットの封筒を軽く握りしめた。
「脚、痛む?」
「いや、大丈夫」
土屋が笑顔で頷く気配がして、空気がふわりと軽くなった。
部を去ろうとする罪悪感が胸をチクリと刺す。
「陸上……やめるつもり?」
へ!?
咄嗟に見た土屋の目が鋭く僕をにらんでいる。
「え……っと」
土屋を直視できずに長く伸びた影に視線を落とした。
なんでわかったんだ。
今更ごまかしても意味ないのに言葉が出てこない。
「もしそうなら」
土屋の短い言葉の間に小さな期待をする僕がいた。
僕は土屋になんて言ってほしいんだろう。
さびしい?
悲しい?
つらい?
ひょっとして、清々するとか?
でも、どれも僕を引き留める言葉ではないんだと、僅かなショックに胸が痛む。
まだ退部する覚悟ができてないことを実感してしまう。
退部届を書いてみたけど、本当に出すつもりで書いたのか、僕自身わからない。
でも走る恐怖に向き合えない僕のせいで、これ以上みんなに迷惑はかけられないし……
ますます俯いて短くため息をついた。
「水城」
腕を掴まれ、思わず、おぉ? と声が出た。
「マネージャーしないか?」
え?
マネージャー?
「もちろん復帰に向けてリハビリしながら」
夕日に照らされた土屋の顔がどこか恥ずかしそうに見えたのは気のせいか?
「――考えてもなかったな」
違う道を差し出され、僅かに胸が明るく跳ねた。
でもそれって酷なこと言ってないか?
「でも無理だよ」
「どうして?」
「は? みんなが走るの見てろってこと? 僕走れないんだよ?」
少し見上げた土屋の目が見開いた。
ああ、完全な八つ当たりだ……
走れないんじゃないのに……
罪悪感が胸をよぎるが、もう引き戻れない。
「そっか……そうだよね」
掴んだ腕から土屋は手を離すと深いため息をついた。
いや、土屋が悪いんじゃなくてだな……
落ち込んでいく土屋にますます胸が痛い。
「ごめん、気持ち考えなくて。でもさ――」
後に続く言葉を待っても、土屋は口を閉ざしたまま。
でもさ――の続きが気になるが、罪滅ぼしになにか言わなきゃって思うのに、いい言葉が見つからない。
今までありがとう?
いろいろ考えてくれてありがとな?
期待に応えられなくてごめん?
ぐるぐると考えていると、土屋がやっと口を開いた。
「俺さ……中学から一緒にやってきたお前が突然いなくなるのは考えられなくて」
なんだ、この告白は。
ちょっとでもライバルとして認知してくれてたってことなのかな。
「でも、みんなを見てたら走りたくなるし、それができないのがきついんだ。ごめんな。ありがとう」
なんか僕、綺麗事言ってるなぁ。
それよりなんで土屋の方が僕より傷ついた顔してんだよ。
「——ごめん、行かないと」
立ち止まった土屋を見ながら、後ろ向きに校舎に向かう。
今のこの勢いのまますぐ先生に渡したい。
この罪悪感とか、ごまかす自分から早く抜け出したい。
前に向き直りながら足を速めようとしたとき、グイっとまた二の腕をつかまれポケットに突っ込んでた手が抜き出た。
退部届がひらりと地面に落ちる。
あ……やば。
「これ……」
僕の腕をつかんだまま、土屋はそれを拾い上げた。
「やっぱり……本気?」
真剣に問われて息をのんだ。
「冗談にみえる?」
僕は開き直り、少しおどけて答えた。
癇に障ったのかにらみつけながら土屋は僕の腕を引き一歩近づく。
「許さない」
「なんだよ、許さないって」
少し見上げてにらみ返すと、僅かに頬を膨らませ視線だけ逸らされた。
てか、許さないってどういうことだよ。
そんなこと言われる筋合いないけど?
なんだか無性に腹が立って、僕は舐めるようににらみつけた。
「僕が辞めても問題ないだろ」
「水城に辞められたら俺が困る」
「なんでだよ」
視線を外したままつぶやく土屋に怒気を強める。
走れない僕がいたところで、みんなの邪魔になるだけじゃないか。
なんでわからない?
「僕がいなくったって、他に速いやついるだろ」
「いる」
即答され、ぐさりと胸を抉られた。
いやいやいや。今更傷ついてどうするんだって。
「でも、水城は水城だけだ」
鋭い視線を向けられたじろいだ。
さっきからなんの告白だよ。
「無理強いはしない。でももう一度考えてほしい」
刺すような眼光がにじんだように見えた。
だから、なんでお前の方が傷ついてるみたいなんだって。
そんなこと考えてたら、土屋が自分のブレザーのポケットに退部届を押し込んだ。
「お前なにしてんだよ」
「俺が預かる」
「勝手なことするな」
強く手首をつかみ上げると、土屋は下唇を噛んでがっくりと項垂れた。
そしてのっそりとポケットから退部届を出したかと思ったら交換条件を口にした。
「今日出さないなら返す」
「はぁ? 無理強いしないって言ったじゃん」
「前言撤回」
「ふざけんなって!」
「出さない?」
「僕の勝手だろ!」
「なら返さない」
「だからなんで!?」
「だから! 俺がいやなんだって!」
いつも冷静な土屋の張り上げた声に瞠目した。
「——ごめん」
謝りながら俯く土屋に、なんか気まずくて目を逸らした。
なんだよ。まるで僕がいじめてるみたいじゃないか。
で、困るってどういうこと……?
僕はため息をついて土屋の握りしめた退部届に手を伸ばした。
慌てて引っ張ろうとする土屋の手をもう一度強く握り、俯いたその耳に顔を寄せた。
「考えるから。返して」
目を見開いた土屋の緩んだ手から奪うように封筒を取り返した。
「本当だな」
「ああ。3日考えるよ」
「1週間」
「3日」
「だめだ。1週間」
強気の土屋の視線が痛い。
てかさ。なんでそんなに必死なんだよ。
チクチクするまなざしに短く息をついた。
「わかった。1週間な」
たぶん気持ちは変わらないけど。
ほんのり綻んだ土屋の頬に一瞬気持ちが揺らいだ。

