The Everest Protocol(ジ・エベレスト・プロトコル)

 三人は荷物を掴み、山小屋から飛び出した。

 外は、雪混じりの突風が吹き荒れている。
 振り返った視界の端、北の稜線から、黒い鉄の塊が競り上がってきた。
 軍用ヘリ――
 その側面が赤く閃光した刹那、死の予感が背筋を駆け抜ける。

「伏せろ!」

 涼の絶叫と同時に、四人は雪だまりへダイブした。  
 鼓膜を劈く爆音が轟く。  
 数秒前まで彼らがいた山小屋が、巨大な拳で叩き潰されたように粉砕される。木材と石材が爆ぜ飛び、黒煙と火柱がロブチェの白い空を汚していく。

「嘘だろ……」
 舞い上がる灰の中で、涼は震える手で顔を拭った。
「見て……」  
 ユナがスマホを差し出す。新たな速報が入っている。 

【テロリストの所持品を回収】
 画像には、円筒形のデバイスを中心に、ユナの父の腕時計、涼のQRコード付きザック、真田のネックレスが、まるで犯罪の証拠物件のように整然と並べられていた。
「……なんだこれ」  
 三人は顔を見合わせ、言葉を失う。  
 周囲を囲むヒマラヤの巨峰が、彼らを押し潰そうと迫ってくるようだ。
 
 再びスマホが震えた。  

 【速報:フランス国防省が現場写真を公開】
 テロリストの遺体……  
 そこに映っていたのは――川のほとりで黒く炭化した、三つの人型シルエット。
「……俺たちの、死体……?」  
 涼の喉から、ひきつった音が漏れる。
 
 頭上でローター音が唸った。黒煙を突き破り、ヘリが旋回して戻ってくる。
「こっちです!」スニルの声が弾ける。
「私はあなたちのガイドです。カトマンズまで無事に送り届ける使命があります」
 スニルが登山道を外れた岩場を指差す。四人は氷と岩の急斜面へと駆け出した。
 ヘリの側面のドアが開き、特殊部隊の兵士が銃口を向けるのが見えた。
「走れ!」  
 四人は斜面を滑り落ちるように駆けた。
 背後で乾いた銃声が連続する。
 足元の氷が砕け、雪煙が舞い上がる。  

「なんで私たちがこんな目にっ!」
 
 ユナの悲鳴が、凍気の中へ散っていく。  
 心臓が破裂しそうだ。標高五千メートルでの全速力は、緩慢な自殺に等しい。  
 喉がヒューヒューと鳴り、視界が白く明滅する。
「はぁ……はぁ……もう、ダメ……」  
 真田が膝をつきそうになった時、スニルがその腕を強引に引いた。
「大丈夫です! あの岩陰まで!」  
 巨岩の裏に滑り込み、荒い息を整える。
「追って……こない?」  
 涼が肺をさすりながら覗き込む。ヘリは高度を上げ、旋回を続けている。
 雪はハラハラ舞っていたが、朝方より降り方は弱まっていた。
「地上には降りてきません」  
 スニルが冷静に言った。
「高度順応していない身体で五千メートルに降り立てば、体内の酸素濃度が急低下し数分以内に昏倒します。空からの狙撃しかできない」
「つまり……へへっ、逃げ足なら、俺たちの勝ちってわけか」  
 涼は乾いた唇で笑おうとしたが、恐怖は消えない。
「また風が出てきました。ヘリも低空飛行は難しくなります。今のうちに谷へ降りましょう」

 岩陰を伝い、さらに下ると、眼前に深い渓谷が現れた。  
 強風に煽られ、谷を跨ぐ吊り橋が生き物のようにうねっている。
「うわっ」涼がたじろぐ。
「石橋は叩かないで渡るくせに」ユナが涼を追い越した。
「こんなのどうってことねえ」
 涼が橋板に足をかけた時、谷底から突風が吹き上げた。 
 同時に、頭上から重低音が降ってくる。

「見つかった!」  

 ヘリが谷の上空に静止し、銃口が火を吹く。  
 弾丸の雨が、橋の木板を次々と吹き飛ばす。削り取られた木片が、咆哮を上げながら谷底へ舞い落ちる。  
 三人は、ワイヤーにしがみつき、祈るように身を伏せた。
 強風がヘリを揺さぶり、照準が定まらない。

「今のうちに渡れ!」涼が叫ぶ。
「だめっ! 靴が!」  
 ユナのトレッキングシューズが、割れた板の隙間に深く食い込んでいた。
「抜けない!」  
 涼が這いつくばって駆け寄り、靴を掴む。
「クソッ、硬てぇ!」
「私を置いて逃げて!」
「置いてけるかよ!」  
 ヘリが体勢を立て直し、二人に照準を固定する。  
 黒い銃口の奥が、死神の目のように光った。

「逃げろ!」真田の絶叫。  

 発射炎が見えた。  
 黒い弾丸が、動けない二人めがけて一直線に迫る。  

 死ぬ――。  

 涼はユナに覆い被さり、きつく目を閉じた。  
 まぶたの裏に、あの黒焦げ死体の残像が焼き付く。
   
 終わった、と観念した時、世界から音が消えた。
 
 ……?  

 目を開けると、風が止み、橋の揺れが止まり、迫り来る弾丸が、鼻先数センチの空中で凍りついたように静止している。  
 ヘリのローターは氷像のように固まり、舞い落ちる雪の結晶が、ダイヤモンドの星屑のように宙に固定され、光にきらめく。

「……どうなってるんだ」  
 涼が呆然と呟く。  

 真田の胸元で、ペンダントが青白く脈打ち始めた。
 呼応するように涼のザックのQRコード、ユナの腕時計も共鳴音を響かせながら青白い光を放った。  
 ユナのポケットの中、父の形見のデバイスも激しく明滅している。

「局所的な時間場が閉じている。このフィールドの内側だけ——僕たちだけが、動いている」

 それぞれのアイテムから放たれた光の粒子が、空中で絡み合い、橋の上空で一つの像を結び始めた。  
 光が収束し、ホログラムが立ち上がる。  
 白衣を着た、西洋人の男。  
 病的なまでに白い肌、目の下の深い隈。光の粒子で編まれたその顔が、ゆっくりと眼下の四人を見下ろす。  
 鼓膜ではなく脳内に直接響くような、冷たいノイズ混じりの声を発した。

「——条件が揃った。ここから先は、観測者ではなく、変数だ」
 
 吊り橋のはるか下の川に向かって、落下中の木片が空中で連なって静止している。
 涼がユナを庇いながら後ずさる。
「誰だ、てめぇ……!」  
 ホログラムの男は、口角だけで薄く笑った。
「お前たちは、三つのアイテムを揃えた。共鳴媒質Q-13、通信ノードChrono-Seal、そして時間位相反転触媒Δデルタコード」  
 男の視線が、腕時計、ペンダント、QRコードを順になぞる。

「ようこそ、実験領域へ」  

 優雅に両手を広げ、デバイスが入っているユナのポケットを見た。

「私はラウル・デュモン。それは私が開発した、世界を終わらせることも、救うこともできる量子キーだ」 
 
 涼の背中で、ザックのQRコードが赤く明滅し始めた。 
 ユナの腕時計とポケットの中のデバイス、真田のペンダントも、赤い光を放ち共振するように明滅する。

「お前たちは量子キーを目覚めさせた」

 ホログラムの声が渓谷の冷たい空気を震わせる。

 空中に霧のスクリーンが展開され、目を背けたくなる映像が映し出された。  
 倒壊した建物、燃え上がる炎、逃げ惑う人々。画面下部にはテロップが流れている。

『緊急速報:フランス・ラディーグ核研究複合施設で爆発』  
 次の瞬間、白い閃光が画面を塗り潰した。
 衝撃が遅れて届き、巨大なキノコ雲がパリの輪郭を消し去る。
「嘘……」  
 ユナが口元を押さえる。  

 映像が切り替わる。
 報復宣言をする大統領。
 発射されるミサイル。
 世界地図が赤い光で埋まっていく。

『欧州全域に緊急事態宣言。人類規模の連鎖的危機へ——』

「なんだよこれ……映画か?」  
 涼の声が震える。  

 真田が画面の隅を指差し声を絞り出した。
「日付を見てください、今から……七日後だ」  
 真田の顔から血の気が引いていた。
 ——未来のニュース。

「七日後に核戦争が起きる?」
「その通りだ」  
 ラウルのホログラムが、絶望する四人を見下ろす。
 光の粒子で編まれた姿が不安定に揺れている。
「量子キーが起動すると、七日後に戦略統括AI〈HELIX〉は核のボタンを押す。そう設定されている」
「AIが……核戦争を?」ユナの声が震えた。 
 ラウルの瞳に、狂気とも希望ともつかない冷徹な光が宿る。
「なぜ?」ユナが疑問をぶつける。
 ラウルは答えなかった。
「俺たちのせいなのか?」  
 涼が顔あげる。
「誰のせいかはもはやどうでもいい。条件が揃う可能性は低かった」
「実験とか条件とかって何なんだ」
 数秒の沈黙があった。
 ラウルは答えない。
「核の暴走を止める方法はありますか?」
 真田が詰め寄る。
「未来のニュースが確定する前に、三人で量子キーをAIの中枢に接続しろ」

 スクリーンに、パリ近郊ラディーグ核研究複合施設の映像と地図が映し出される。
「七日以内にコアに接続すれば、核の暴走も、お前たちの量子崩壊も止まる」

 ラウルが真田の右手を見下ろした。
「これは——」
 真田が右手を見て絶句する。
 指の色が薄くなっている。
「——何だこれ」
 涼も広げた指先を見つめた。
 指の輪郭が砂のように崩れかけていた。  

 ラウルは言葉を切り、涼の顔とQRコードを見つめた。  
「……お前は、計算になかったな」
「どう言うことだ」
 ラウルの姿がノイズ混じりに崩れ始める。
「待て!これどうなるんだ」
「未来を書き換えろ」
 ラウルは、裂けた時間の皮膜を押し分けるように言葉を発した。
 同時にスクリーンの映像がフェードアウトしていく。

「頼む……」

 それが最後の言葉だった。
 入れ替わるように、空中に無機質なデジタル数字が浮かび上がった。
  
 60.00