The Everest Protocol(ジ・エベレスト・プロトコル)


 ——笑って、リョウ。

 夕焼けの公園。鉄棒にぶら下がった涼に、小さなデジカメを向ける少女。
 二つ年下なのに大人びていて、おせっかいで、買ってもらったばかりのカメラを宝物みたいに抱えている。

 紗良(さら)——

 涼はハッと目を開けた。
 薄暗い山小屋の天井。
 吐く息は白い。

「へぇ、紗良さん、ね」

 寝袋から顔だけ出したユナが、こちらを見ていた。
「寝言、聞こえてたよ」
「は?ちげーし」
 ただの幼馴染。——そう続けるが、声が裏返る。
「そういうんじゃねーって……」
 言い終わる前に、気道を冷気が直撃し、激しい咳が込み上げた。

 一行は標高四千九百四十メートルのロブチェまで来ていた。
 酸素濃度は平地の半分。シャツのボタン一つ留めるだけで、全力疾走した直後のように心臓が跳ねる。

「何むきになって否定してんの?……いたた」
 ユナも酸素不足による頭痛に顔をしかめた。 
「大丈夫ですか?」
 左隣で、真田も寝袋から顔を出す。

 昨夜から降り続いていた雨は、明け方に雪に変わっていた。
 窓ガラスの隙間から吹き込む冷気で、枕元のペットボトルが凍り付いている。
 涼がぼやきながらスマホを手に取った時、ユナが声を上げた。
「あっ、アンテナ立ってる」
「え、俺のは圏外だけど」
「僕もです」
 涼と真田がそれぞれスマホを見て首を振る。

「ん……?なに、これ……」
 液晶の光に照らされたユナの顔から、血の気が引いていく。
「どうした?」
 寝袋から這い出し、二人がユナのスマホを覗き込む。 

【テロリスト三名の居場所が判明】
 フランス国防省は、核兵器作動デバイスを盗み逃走したテロリスト三名をヒマラヤ山中で追跡——。

 真田が息を呑み、涼は瞬きを止める。 
 
 ——射殺した

 と発表しました。 
 
 三人の背筋が凍りつく。
 射殺された三人のテロリストは——。

「……冗談だろ」

 藤原亮 二十七歳。
 真田湊人 三十一歳。
 ユナ・セオ 二十二歳。
 
 冷たい汗が背筋を伝う。
 粉雪を舞い上がらせ風が窓を叩く。

「日付……これは、いつのニュースですか?」
 かろうじて発した真田の問いに、ユナが震える指で画面をスクロールする。
「今日の……午前十時になってる」
 ユナが答える。  
 真田が腕時計を見た。
「今は、八時です」
 つまり、二時間後。
「未来の……ニュース!?」 
 三人が声を揃えて言った。
「ないない、フェイクニュースだろ」
 涼が強張った笑顔で手を振る。 
「でも、三人の名前と年齢が正確に出てる」ユナが目を細めた。「こっちに来てから、私たちのことを誰かに話した?」
「してねえよ」
「僕も、そもそも友達がいません」
 その言葉に嘘がないか、ユナは二人の表情を注意深く観察する。
「そっちこそどうなんだよ?」
 涼が挑むよう視線でユナを見返す。
「そんなことするわけないでしょ。二人の年齢だって知らないし」
 
 スニルが朝食の支度を告げに入ってきた。ユナがスマホの画面を見せる。
「あなたの会社しか、私たちの名前と年齢知らないはずよ」
 スニルはスマホのニュース画面を見つめ、首を横に振った。
「あり得ません。こんな悪質な……それに、何のメリットがあるんです?」
「素粒子かも」
 真田がメガネのブリッジを左手の人差し指で持ち上げながら震える声で言った。
「……クロノン」

 四人は食堂に移動し、薪ストーブのそばのテーブルを囲む。
 真田が緊張した顔で口を開く。
「光速を超えて移動すると予測されている未発見の素粒子があります」
「それがどう関係するの?」
 ユナが強い口調で問いかける。
「光速を超えた素粒子は、時間を逆行する可能性があります」

 風が窓を叩きつける。
 遠くの空でヘリのロータ音が響いている。

 真田は震える手でジンジャーティーを口に運び、独り言のように呟いた。
「もし二時間後のネットニュースの電波を、超光速素粒子クロノンが運んだら……」
「電波が時間を逆行するって言うのか」涼が鋭く反応する。
「そして未来のニュースを受信する」ユナが手に持ったスマホを見ながら言う。

 風が止み、窓を叩く音が消えた。
 ヘリのローター音が大きくなる。

「この標高、宇宙線量の多さ、希薄な大気。いろんな条件が重なり、〈時間の影〉をすり抜けたクロノンによって未来のニュースを受信したのかもしれません」
「どうしてさなだっちはそんなこと知ってるの?」
「僕は大学で、量子物理学を専攻していました」
「え、パティシエじゃなかったの?」
 ユナと涼が驚いた顔で真田を見る。
「研究者の道は——」真田が俯く。「挫折しました」
 真田は胸のペンダントをぎゅっと握り沈黙した。
「そう言えば、自己紹介の時そんなこと言ってたね」とユナ。
「挫折ばっかじゃねーか」涼が真田の肩を叩きながら言う。「オレと同じだ」

 ユナのスマホが再び振動する。

「待って、これ……!」
 画像が表示される。
 
【主犯格の女】
 写真の中のユナは、赤いフリースを着て、あの金属デバイスを手に持っていた。
「これって……」
 涼と真田が、正面に座るユナを見る。手には金属製のデバイス、着ているのは赤いフリース。
「マジか」涼が唸る。

 スニルが窓の外を見上げて眉間に皺を寄せた。
「このローター音、観光用ヘリでも、救助ヘリでもありません」
「じゃあ、なんだって言うんだ?」
「……軍用ヘリの可能性が高いです」 
「逃げるぞ」
 涼が椅子から立ち上がった。 
「もし違ってたら?逃げたら本当にテロリスト扱いされるわ」
 咳き込みながらザックを背負う涼に、ユナが言い返す。
「石橋を叩いてる時間はない!その時はその時だ」