The Everest Protocol(ジ・エベレスト・プロトコル)


 湯気を立てる朝食のトゥクパの香りが、眠気と混ざった身体の内側をゆっくり温める。
 ここは標高四千三百メートルのディンボチェ村。
 パクディンの山小屋からナムチェバザールを経て三日かけて登ってきた。

「ユナのお父さんって、登山家だったの?」
 湯気の向こうから涼が尋ねる。
「……違うよ」
 トゥクパの湯気を見つめたままユナが答えた。
「家族ほったらかしにして、勝手に山に行って……勝手に死んだ。そう思ってた。ずっと」

 涼は湯気越しにユナの横顔を見て、何も言わずにトゥクパを啜った。
 真田は、ジャガイモとトマトのオムレツを機械的に口に運んでいた。胸元からのぞく細い革紐。その先で、銀色のペンダントトップが薪ストーブの光を弾いている。
 窓の外が白み始め、アマダブラムの峰から斜めに差し込む朝の光が、集落の屋根を溶かすようにじわりと照らす。

「半年前ね。修理に出したままの父の腕時計が、急に母の元に戻ってきたの」
 ユナはバックパックを開き、古い金属バンドの腕時計をそっと取り出した。
「あの人を嫌ってた気持ちを思い出した。でも、小さい頃好きだった気持ちも……全部いっしょくたになって、なんか胸がぎゅっとして。それで、お墓参りに行こうって決めたんだ」
 ユナはトゥクパをスプーンですくい無理に笑って口に運んぶ。その瞳の奥に、まだ整理しきれないものが揺れているのを、涼も真田も感じていた。

 屋根の端から、朝日で温められた朝露が水滴となって落ちる。
 遠くでヤクのガンタが、風の音に混じってカランと鳴った。



「皆さん」
 衛星電話で情報収集を終えたスニルが戻ってきた。
「お天気は心配なさそうです。午前中はディンボチェから緩やかに登り、ペリチェの谷を見下ろしながら進みます」
「緩やかに、ねぇ……」
 涼が疑わしげにコーヒーを啜る。
「ええ。ですが、トゥクラ川のティーハウスで昼食を食べた後、急な登りが待っています」スニルは少し表情を引き締めた。「そこを登り切った場所が、鎮魂の峠です」
「鎮魂の峠?」
「エベレストで命を落とした登山家たちの慰霊碑が並ぶ場所です」
 ユナの手が、腕時計の上で止まった。
「峠には古い庵があって、チベット仏教の僧侶が常駐しています」
 スニルがユナを見た。
「お父様の遺品を預かっているそうです」
 ユナは驚いた顔をして小さく頷いた。
   
 食事を終え、トレッキングシューズの紐を固く結ぶ。
 ロッジを出る前、涼はザックに縫いつけたQRコードに、そっと手を合わせた。
「験担ぎね?」
「まあな」
「じゃあ私も」
 ユナは父の腕時計を胸の前でしばらく握りしめ、静かに左腕につけた。
 真田も胸元のペンダントを握り、誰にも聞こえない声で何かを呟いた。
 三人とも、自分だけのお守りを持っている。
 そのことに誰も言及しなかったが、三人ともそれに気づいていた。

 外に出ると、空は群青と金のあいだで揺れ、東の稜線の向こうに、雪を頂いたローツェが朝日を受けて神々しく聳えている。振り返ると、すり鉢状の谷にへばりついたディンボチェの集落が、霧の中に淡く霞んでいた。

「ここからは空気がさらに薄くなります。水はこまめに飲んでください」先頭を登るスニルが振り返る。「呼吸は短く、回数を増やしましょう」

 三人は深くうなずいた。時おり小石に足を滑らせながら、一歩一歩登っていく。
 空の青さが、恐ろしいほど近くに迫ってくる。

  

 正午過ぎ、トゥクラ川のほとりにあるティーハウスに着いた。
 氷河の融け水で灰色に濁った川が荒れ狂ったように流れ、岩と岩に結び付けられたタルチョが風を受け千切れそうな悲鳴をあげている。  
 モモとホットジンジャーレモンティーで身体を温めながら、三人はそれぞれスマホを確認した。かろうじてまだ電波が届いている。
「ここまで来ると、さすがにデリバリーの注文は入らねえな」
 涼がスマホ片手に笑いながら言った。
「午後からは、いよいよ峠への急登です。ここが正念場ですよ」
 スニルがジンジャーティーのカップを置いた。
 三人は覚悟を決めるように小さく返事をした。

 ティーハウスを出発してすぐ、目の前に巨大な壁のような斜面が立ちはだかった。ジグザグに続く砂礫の道。息が切れ、頭が万力で締め付けられるように重くなる。肺の中の酸素を、誰かに奪われているような感覚だ。

「これ……あとどれくらい……?」  
 足を引き摺りながらユナが声を絞る。
「見上げちゃダメです……足元だけ見ましょう……」  
 真田が自分にも言い聞かせるように言った。
 涼は一歩踏み出すたびに足を止めて呼吸を整える。
「みなさん、その調子です。ゆっくりでいい」  
 スニルは三人のペースに合わせ、静かに励まし続けた。
 
 草木一本生えてない、ただ岩と風だけの世界。呼吸が苦しく、足は鉛のように重いが、目に映る景色は残酷なほど美しい。すべてが削ぎ落とされ、ただ「歩く」という行為だけが残っていく。
 歩を進めるたび、世界がゆっくりと高みにほどけていくようだった。 




 最後の急峻な岩場を這い上がるようにして登り切った時、視界が開けた。
 風の音が変わった。

 鎮魂の峠——トゥクラ・パス。

 荒涼とした天空の高台に、無数の石積み(ケルン)が並んでいる。
 エベレストに挑み、命を落とした登山家たちの慰霊碑だ。
 
 色とりどりのタルチョが、空に向かって激しくなびいている。  
 ユナは、足の震えを感じながら一歩一歩進んだ。  
 無数の石碑の中に、それを見つけた。
   
 ——Satoshi. Seo  
 
 息を呑む。
 粗削りな石に刻まれた、父の名。  
 冷たく色のない風が頬をなでる。  
 ユナはその場に膝をつき、石に触れた。冷たい。でも、なぜか懐かしい感触。
 記憶の中で、父の背中が再び歩き出す。成田のゲートに消えたきりの、あの背中。 
 目を閉じ、両手を合わせる。胸の奥で、何かが静かにほどける音がした。

 どれくらいそうしていただろうか。  
 風に混じって、砂利を踏む音が聞こえた。  

「セオ氏の、娘さんですね?」

 ユナが顔を上げると、えんじ色の衣を纏った老僧が立っていた。風雪に晒された顔には、岩肌のような深いシワが刻まれている。
 ユナは、涙を拭うのも忘れて頷いた。
 老僧は合掌し、慰霊碑に一礼した。
 それからユナの方を向き直り「お父様の遺品をお預かりしています。来てください」と静かに言った。  
  


 峠の巨岩の隙間に、石造りの庵があった。

 屈まなければ入れないほどの低い入口をくぐると、土壁に煤けたタンカ(仏画)が掛けられ、ヤクのバターランプの炎が揺れていた。  
 お香の煙が漂っている。奥の祭壇に、奇妙なものが祀られていた。

「何だ、あれ……」
 涼が声を潜めた。
「イエティの頭蓋です」  
 スニルが淡々と答えた。
「まじで?」
「チベット仏教においてイエティは、聖なる守護者として信仰の対象となってきました」
 老僧が、煙の中から言葉を紡ぐ。
「イエティって、実在するの?」
「いると思えばいます、いないと思えばいません。観る者がいなければ、それは骨ですらありません」
 真田の顔が上がった。
「観測者効果……」
 掠れた声が、庵の静寂に波紋を広げる。
「なに? それ」ユナが振り返った。
 真田はペンダントを握ったまま、祭壇から目を離さずに言った。
「事象は、誰かに観測されるまで複数の可能性として重なり合っています。観測するという行為が、あやふやな状態を一つの現実として確定させるんです」  
 言い終えてから、真田は気恥ずかしそうに俯き、ペンダントを握り直した。
 
「さて」
 老僧は祭壇の脇にある古い木箱から、分厚い布に包まれた物を取り出した。 
「お渡しする前に、確認をさせてください」
 老僧の目がユナを真っすぐに見る。
「あなたがお父様を最後に見た場所はどこですか?」
「成田空港です」
「その時、どんな約束をされましたか」
 ユナの声が詰まった。搭乗口に消えていく背中が蘇る。
「……世界の秘密を見つけたら、教えてね、と」
 老僧は静かに頷いた。
「試すような質問をして申し訳ありませんでした」

 そう言いながら老僧は穏やかな表情で布を開いた。  
 中から現れたのは——円筒形の金属だった。
 古びているのに、精密機械のような冷たい気配を放っている。継ぎ目がない。ボタンもない。表面はわずかに光を帯び、バターランプの炎を鈍く反射していた。

「これはあなたが持っているべきものです」

 老僧がユナの手にそれを渡した。 
 ずしり、と重い。ただの金属ではない密度を感じる。

『——信じながら——』

 金属が手の中で震え何かの声が聞こえた気がした。

『——安全装置は——』

 空耳だろうか。ユナは首を振った。

 老僧は目を細めた。

「これを預かってからというもの、庵の中でランプの炎が揺れる向きが変わることがあるのです。風がないのに」

「僕にも見せてもらえますか」
 真田がおずおずと手を差し出した。ユナが渡すと、真田はレンズ越しに表面をじっと観察した。
「微細な加工痕がある。旋盤で削ったものじゃない。もっと精密な——」真田の指が表面をなぞる。「……何かの規則性を感じるけど、分からない」
「オレにも」涼が受け取った。手の中で慎重に転がし、重さを確かめる。
「なんだろうな、これ。ただの金属じゃなさそうだけど——すまん、俺にはわからん」
 涼はそっとユナに返した。

 その時、風の音が止んだ。
 バターランプの炎が真横になびき——戻った。
 庵の中の空気が、一瞬だけ薄く歪んだように感じた。
 ユナが金属デバイスを見る。
 老僧は静かに目を細め、数珠を揉みながら祈りの言葉を呟いた。

「世界は、見えぬ秩序の上にあります。意味が追いつくのは、いつもあとです。今、動き始めたものを信じなさい」

 ユナは、腕時計と金属デバイスを胸に抱き、深く頭を下げた。



 
 庵を出ると、峠の風が正面から吹きつけた。
 タルチョが千切れそうにはためき、石積みの影が午後の光の中で長く伸びている。

 ユナは父の慰霊碑を振り返った。
 粗削りの石に刻まれた名前。その向こうに、雪を纏ったエベレストの頂が見えていた。

 ——意味が追いつくのは、いつもあとです。    

 老僧の言葉が、風の中で繰り返された。  
 ユナは腕時計とデバイスをバッグにしまい、歩き出した。  

 意味は、まだ来ない。でも足は動く。