The Everest Protocol(ジ・エベレスト・プロトコル)


 床に映る初冬の西日が、ユナのブーツの先で揺れている。

 成田空港第二ターミナル。暖房が効いた出発ロビーのガラスの向こうでは、茜色に染まった滑走路に長い影が伸びている。 
 電光掲示板が点滅し、発着便のアナウンスがサテライトの高い天井に反響していた。

「次は夏に戻るよ。お母さんの言うこと、ちゃんと聞いて、いい子にしてるんだぞ」

 父の言葉はいつも「次」や「また」で終わるけれど、それが本当になったことは一度もなかった。

CERN(セルン)って、そんなに遠いの?」

「遠い。けど——世界の秘密にいちばん近い場所だ」

 父はポケットから何かを取り出しかけて、思い直したように手を引っ込めた。指がポケットの中で丸いものを握っているのが、布地の上からわかった。 

「じゃあ、お父さん、世界の秘密を見つけたら教えてね」ユナは明るく言った。

 夕日がガラスに反射し、横顔を赤く染める。
 父は目を伏せかすかな笑みを浮かべた。 

「……約束する」

 父の笑みの奥に、痛みのようなものがよぎった。

 十一歳のユナにはそれが何なのか分からず、ただ胸の奥で言葉にならない不安が膨らむ。

「……なんで、行かなきゃいけないの?」

 声に出した瞬間、自分でも驚いた。泣かないつもりだったのに、喉の奥が熱くなる。

「いつも《《誰かを信じながら》》動け」

 父はそっと頭を撫でた。掌の温もりが、父だけが持っていた温度として心に刻まれた。

 チューリッヒ行き最終案内を告げるアナウンスが響く。
 父はユナの頭から手を離し、振り向いて歩き出す。
 歩幅はゆっくりなのに、離れていく速度だけが速く感じた。
 ゲートの中にその背中が消えた時、ロビーのざわめきも、機械の声も、夕日に吸い込まれるように遠のいていった。

 それが、ユナの記憶に残る父の最後の姿だった。

 

 ユナは、山小屋の窓ガラスに手を当てた。
 指先に、冷たい感触が伝わる。 
 あの時ガラスに映る自分の外側で、滑走路の誘導灯が点滅していた。
 その光が時の呼吸のように見えた。

 ——時間は止まらない。

 けれど、父の背中だけは、今も動かず胸の奥にある。

 光の残像となって。






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◾️CERN(セルン)とは、スイス・ジュネーブとフランスの国境付近にある世界最大級の素粒子物理学研究所「欧州原子核研究機構」です。巨大な粒子加速器を使って物質や宇宙の根源を探る研究を行っています。

◾️ユナの父親はジュネーブにあるCERNに行くのに、どうしてチューリッヒ行きのフライトに搭乗するのか?
ー日本とスイスを結ぶ直行便はチューリッヒ行きしかないためです。