The Everest Protocol(ジ・エベレスト・プロトコル)


 午前一時。

 寝静まったカトマンズの街に、エンジン音だけが響いていた。
 スニルがミニバンの屋根の荷物を確認し、運転席に乗り込む。
「では、ラメチャップ空港に向かいます」
 タメル地区を抜け、一行を乗せた車は幹線道路を北東へと走った。街の灯りが一つ、また一つ、闇に溶けていく。

「眠い……」後部座席で涼が呟く。
 ユナが振り返ると、涼は真田の肩に頭を預け、一瞬で寝落ちていた。
 真田は身動きが取れず、困った顔のまま固まっている。
「真田さん、大丈夫ですか?」
「は、はい、大丈夫です」
 涼が寝言を漏らす。
「……もう食えないよ……」
「こんな状況でご馳走の夢って」
 ユナが呆れて笑うと、真田も口元をわずかに緩めた。初対面の時より、その動きが少しだけ自然になっていた。
「そうだ」ユナが声を落として言う。「これから二週間近く一緒にいるんだから、敬語やめません?」
「え、は、はい」
「私のことはユナで。真田さんのことは……『さなだっち』って呼んでいい?」
 真田は耳まで赤くなり、窓の外の暗闇に目をそらした。
「……わかりました」

 四時間半の山道の果てに、ラメチャップ空港に到着し、そこからセスナ機に乗って標高二千八百メートル、エベレスト・トレッキングの玄関口ルクラに飛んだ。
 タラップを降りると、薄い空気が肺の奥まで届かない感覚に、三人は顔をしかめる。

「さあ、ここからが本番です」  
 スニルの声に導かれ、エベレスト街道の石畳を歩き出す。
 ヒマラヤの透明な風がマニ車の隙間をすり抜け、足元に咲き溢れるゲンティアナの紫の花弁を揺らす。荷物を背負ったヤクの列とすれ違い、渓谷沿いの細い道を半日歩いて、パクディンの山小屋に着いた頃には、三人の足はすでに限界だった。

「腹減って死にそうだ」
 涼が丸太テーブルの椅子に腰を下ろすと、湯気の立つモモとシェルパスープ、ビリヤニ、ダルバートが運ばれてきた。
「皆さん、お腹が空いたでしょう。さあ、どうぞ」
 さっそく涼がダルバートのカレーを口に運び、顔を緩める。
「うまい」
 ユナはネパール版の餃子、モモに箸を入れ、とろりと溢れ出る黄金色の肉汁に目を細めた。
「こっちも美味しそう」
 真田は、ビリヤニを一口頬張り固まった。
「……すごい」
 涼とユナが顔を上げる。
「……混ざっているのに……喧嘩していない」
 真田は皿を見つめたまま、言葉を選ぶように続ける。
「洋菓子は、一度の温度で全部変わるんです。湿度にも敏感で、環境を完璧にコントロールしないと味が崩れる。でもこの料理は——」
 真田は窓の外を見た。渓谷の山肌にへばりつくような質素な集落。決して恵まれた環境ではない厨房。
「こんな場所で作られているのに、全部が調和している」  
「お、職人の感想だ」
 涼がおどけて笑う。
 真田はハッと口を閉じ、耳を赤くした。
「い、今の、偉そうでしたね……」
「ぜんぜん。もっと聞かせてよ、さなだっち」
 ユナが言うと、真田はスプーンを持ったまま、どう反応していいか分からない顔をした。

 食事を終え、マサラチャイを飲みながら薪ストーブを囲んだ。
 外では風が唸り、タルチョの五色旗が闇の中ではためいている。
「明日はナムチェバザールまで。きつい登りになります」
 スニルが言った。
「おお、早く寝よ……」
 涼があくびをしながら寝袋を広げる。
「それ、何のコード?」
 涼のザックの上蓋に縫い付けてあるQRコードを、ユナが指差した。
「昔の仕事の名残」
「フードデリバリーの?」
「そう、仕事で使ってたバッグを解体して縫い付けた。——お守りみたいなもん」 
 ユナは縫い目を見た。糸の運びが丁寧で、ところどころ補強の返し縫いが入っている。意外と手先が器用なのか、それとも、よほど大事なものだったのか。
「……お守りって、何の?」
「さあな」
 涼は寝袋に潜り込み、それ以上語らなかった。

 風が強くなった。山小屋の壁板が鳴り、ランプの炎が横に倒れるように揺れた。
 壁に張りついた影が、一瞬大きく膨らんで縮む。
 ユナがマサラチャイのカップに手を伸ばしたとき、スマホの画面が暗転した。

 ——あれ? 

 黒い背景に、白い文字が一行浮かぶ。

「……ΔT(デルタティー) : sequence detected」

 ユナの指が止まった。
 ΔT。時間差分。AI倫理の講義で扱ったパラメータだ。
 時間軸の異常検知に使われる記号。それがなぜ、自分のスマホに。
 画面が点滅し、もう一行文字が走る。

『——選択が——安全装置——』

 目を瞬いた時には消えていた。

「ユナさん、どうしました?」スニルの声に我に返る。
「いえ……なんでもないです」
 ユナはなんでもない、と自分にも言い聞かせた。

 ——疲れてるんだ。

 真田も涼もすでに、すやすや寝息を立てている。
 ユナはスマホをバッグに戻し、マサラチャイのカップを両手で包んで窓ガラスに目をやった。
 漆黒の闇を背景にしたガラスが鏡になっている。
 そこに映る自分の顔。 
 その輪郭が、ふと別の記憶と重なった。
 ——あのときの自分。
 父を見送った、十一歳の冬。
 最後に交わした約束。

 それは——