The Everest Protocol(ジ・エベレスト・プロトコル)

 乾いた風が、砂埃を巻き上げる。

 タメル地区の路地裏。
 電線が蜘蛛の巣のように絡み、古びた看板が何層にも重なってぶら下がっている。
 排気ガスとスパイスの匂いが混じり合う喧噪の中、藤原涼(ふじわらりょう)は汗を拭いながら真新しいザックを背負い直した。

「……ここで合ってんのか?」

 スマホの地図を見ても、GPSのピンは不安定に揺れている。
 ネパールの電波は野良犬よりも気まぐれらしい。
 通りの角に小さな看板が見えた。

 「Himalayan Route Treks & Expeditions(ヒマラヤン・ルートトレックス&エクスペディション)」

 涼はほっと息をつき、扉を押した。線香の残り香が鼻をくすぐる。
 奥のテーブルに、二人の先客がいた。
 ひとりは細身の男性。
 銀縁の眼鏡の奥で、視線が落ち着きなく動いている。
 涼に気づき、視線を合わせかけて、すぐに手元のカップに目を落とした。
 もうひとりは、黒髪を束ねた若い女性で、テーブルに広げた資料から顔を上げ、涼をまっすぐ見た。

「おっと」
 
 涼は軽い調子で片手を上げた。
「お二人は新婚さん?まさかハネムーンでエベレストへ?」
「そんなわけないでしょ」
 女性が冷めた声で返す。
 眼鏡の男性も困ったように首を振ったが、声は出さなかった。
「なんだ、他人同士か。てっきり俺がお邪魔虫かと思ったよ」
 涼は頭を掻きながら椅子に腰を下ろした。

 壁にはエベレスト街道の地図と、氷雪に覆われたヒマラヤの峰々の写真が貼られてる。
「うわ……ほんとに行けんのか、こんなとこ」
「あなた、登山経験は?」
 女性が涼の服装を値踏みするように見ながら訊いた。
「ゼロ。ゼロゼロ、ナッシング。今この瞬間この写真見てビビってる」
「は?そんなんでよくこのツアーに参加しますね?」
「なんつーか、でっかいことしたくて。エベレストって言ったら世界一高い山じゃん?バイト代ぜんぶこのツアーに突っ込んだ」
「小学生みたいな動機」
 女性は呆れたように呟き、視線を外した。 

 天井の電球がチカチカ点滅する。
 光がコマ送りのように揺れ、奥のドアが開いた。
 手編みのカシミアセーターにサフラン色のスカーフを巻いた女性が現れる。
「ナマステ」——胸の前で両手を合わせ、穏やかに微笑んだ。
「私は代表のローワン・ベネットです。ようこそカトマンズへ」
 金色のピアスが光を弾く。
「皆さんが不安に思っていることは、すべて理解しています。山で一番大切なのは、チームを信じること。そして、自分の限界を知ることです」

 続いて短髪で鋼のような筋肉質の男性が入って来た。
「彼が皆さんの山岳ガイドを務めるスニルです」
「ナマステ。スニル・タマンと申します」
「彼は経験豊富なガイドです。高度順応、天候の急変、時間の影、彼の指示に従っていれば問題ありません」
「時間の影、って?」
「あなたはユナ・セオさんね」ローワンは唇を結んだが、すぐ穏やかな笑顔に戻った。
 ユナはその変化を見逃さなかった——が、今は気にしなかった。
「標高が上がると電波は消え、時計やコンパスの針さえ狂います。でも面白いことに、人の勘や記憶は、むしろはっきりしてくる。時間の影ではAIに頼らない旅を楽しむのです」
「AIに頼らない旅、か。便利さを手放すって、案外“人間らしさ”の訓練なのかも」
ユナは頷きながら言った。

 再び隣の部屋のドアが開き、ネパール人スタッフがマサラチャイを運んできた。
カルダモンとジンジャーの香りが、湯気とともにテーブルの上に漂う。
 涼がカップを受け取りながら部屋の奥に目をやると、デスクに置かれた通信端末の画面に、暗号のような文字列が浮かんだのが見えた。

 ——NEXUS-9(ネクサスナイン) // PROTOCOL STANDBY

 その光の文字の意味を涼たちが理解するのは、後のことになる。


「では、明日からの行程をご説明しますね」
 ローワンがマサラチャイをすすめながら説明を始めた。
 ルクラ、ナムチェバザール、ディンボチェ、ロブチェ、ゴラクシェプ——そしてエベレストベースキャンプを経て最終目的地、カラパタール、標高五千五百四十五メートル。
 壁の地図にピンが打たれていく。
「今回のトレッキングツアーの参加者はここいる皆さん三名です。明日の早朝、セスナ機でルクラへ飛びます。そこからカラパタールまで十二日間、徒歩で登ります。ガイドのスニルに加え、荷物を運ぶシェルパがルクラで合流します。質問は?」
「私はカラパタールまで行くかどうかは——」
「ええ、把握してますよ、ユナさん。あなたのメインの目的は鎮魂の峠でのお墓参りですね」
 ローワンの言葉に、ユナは小さく頷いた。
「お墓?」涼が聞く。
「エベレスト街道は車が通れません。ご遺体を運ぶのが難しいため、エベレストで亡くなった方の多くは、標高四千二百メートルの鎮魂の峠に埋葬されます」
「へー、そんな辺鄙な場所の墓なんて、行くだけで命がけだな」
 ユナは涼を見た。
 何か言いかけたが、口をつぐんだ。
 バッグの中にある父の形見の腕時計が、かすかに振動した気がした。
 ローワンがユナに目配せする。ユナはこくんと頷いた。
「ユナさんのお父様は、エベレストでお亡くなりになりました」
「まじ?」
 涼は気まずそうに目をそらした。
 マサラチャイのカップに手を伸ばし、口に運ぶ。
「あちっ!」
 慌ててカップをソーサーに戻し、ペットボトルの水をがぶ飲みする。
「大丈夫ですか?」スニルが心配そうに覗き込む。
「大丈夫、ちょっと焦っただけ」
 照れ笑いをしながら、涼はもう一度カップを持ち上げた。
 今度はゆっくり啜りながら言う。
「なんか、妙な組み合わせだな、俺たち」
「妙って?」とユナ。
「今まで会ったこともないのに、偶然同じツアーに申し込んで、こんなすげー山、三人一緒に歩くとか」
 ローワンが壁のエベレストの写真を見ながら静かに言う。
「不思議なもので、ヒマラヤのツアーは毎回、歩き終えた頃に"このメンバーでなければならなかった"と参加者が気づくんです。理由は山が教えてくれる」

 少し間があった。

 今日まだ一言も喋っていない眼鏡の男性が、胸元のペンダントを握りしめた。
 指の関節が白くなるほど強く。
 そして意を決したように、口を開いた。
「あ、あの。僕は——真田です。真田湊人(さなだみなと)
 声が震えていた。だが、止めなかった。
「大学で物理学を学んでいましたが……途中で、折れてしまって。パティシエに転身して、神戸で、小さなパティスリーをやっていました」
 過去形だった。テーブルの空気が変わった。
「信じていた仲間に……裏切られて。お金も、夢も、全部失くなって」
 声がかすれ、消え入りそうになる。
「それから……人と話すことが、うまくできなくなって」
 ペンダントを握る指が、まだ震えていた。
 ローワンが静かにうなずく。
「大丈夫です、真田さん。山は言葉を求めません。あなたが沈黙の中で見つけたものも、きっと登る理由になる」
「よろしくお願いします」
 最後は消え入るような声で、小さく頭を下げた。

「私も自己紹介しとこうかな」
 ユナは、真田と涼を交互に見ながら立ち上がった。
「私は瀬尾(せお)ユナです。父は日本人、母は韓国人、今はシンガポール大学でAI倫理を専攻してます。登山初心者ですが、父の墓に行くため卒論と並行してトレーニングしてきました。足手まといにならないよう頑張ります」

 ほんじゃ俺も――涼が頭をかいていた右手を挙げた。
「俺は藤原亮。さっきも言ったけど、でっかいことしたくて来た。普段はフードデリバリーで走り回ってるから、足腰には自信あるつもり。よろしく」
「それは頼もしいですね」
スニルが白い歯を見せて笑った。
「皆さん、高山病が不安だと思いますが、水分をこまめに摂ってスニルの指示を守れば大丈夫です。今夜からアルコール禁止ですけどね。それからナムチェバザールから先は肉食も禁止です」
「うへぇ、酒も肉も断じて山登りとか、修行僧かよ」
 涼の嘆きに笑いが起きた。
 真田も、ほんのわずかに口元を緩めた。

「さあ、一旦ホテルに戻って休んでください。午前一時にロビーにお迎えに行きます。ラメチャップ空港まで四時間半のドライブですよ」
 
 オフィスを出ると、夕闇に包まれたタメル地区は電球とネオンに照らされ、人やバイクが行き交い、埃と線香の匂いに包まれていた。
 遠くで民族音楽の演奏が聞こえる。
 そのリズムが、心臓の鼓動と重なり、ユナは路地の狭い空を見上げた。

 あの空の続く先に、父の眠る“時間の影”がある。