サビハ・ギョクチェン空港の入国審査場は、巨大なシェルターのような威圧感で彼らを迎えた。
何百もの監視カメラの「眼」が三人の頭上を無機質に舐めていく。EU圏に隣接するトルコの空港は、テロ対策の名目で欧州レベルの顔認証システムを導入していた。
「カトマンズとは勝手が違う」真田が列に並びながら小声で言った。「ここのシステムは国際データベースと連動しているはずです。もしフランス国防省が僕たちの顔を手配リストに載せていたら——」
「バレる、ってこと?」ユナの声が強張った。
「背乗りパスポートは通っても、顔認証で本人と照合される可能性がある」
三人は顔を見合わせた。
「……でも」涼が列の先頭にあるブースを観察しながら言った。「あのニュースでは俺たちは射殺された。死んだ人間を手配リストに載せるか?」
真田が考え込んだ。
「……確かに。フランス国防省は三人の射殺を発表した。その未来は書き換えられたが、発表自体は行われた可能性がある。つまり——フランス側の記録では、僕たちは死んでいる」
「死んだ人間の顔は、手配リストから外される」ユナが理解した。
「外されるか、あるいはそもそも載せる前に射殺の報告が上がったか。どちらにせよ、顔認証で引っかかる可能性は低い」
「賭けだな」涼が言った。
「賭けです」真田が頷いた。「ただ、量子崩壊でカメラに映りにくくなっている僕たちは——皮肉なことに、顔認証にとっても幽霊のような存在です」
涼の番が来た。
ブースに立ち、パスポートを差し出す。
イスタンブールの審査官は、カトマンズの係官とは目つきが違った。訓練された視線。顔とパスポートを照合するだけでなく、手の動き、姿勢、視線の揺れまで見ている。
カメラがスキャンを開始した。
モニターにノイズが走る。涼の顔の輪郭がブレて、照合バーが進まない。
「……動くな。カメラを見て」
「機内で変な体勢で寝ちゃって、顔がむくんでるかも」
涼は「軽薄な若者」の仮面を被り、必死に愛想笑いを浮かべた。
審査官が眉をひそめる。
涼の心臓が跳ねた。だが——審査官は涼の顔ではなく、モニターを見ていた。
「システムの問題だな」審査官が同僚に声をかけた。「また顔認証が落ちた」
「三件目だ。今朝からずっとだ」同僚が溜息をついた。
涼は気づいた。自分たちだけの問題ではない。空港のシステム自体が不調を起こしている。——それが偶然なのか、量子キーの影響なのか、あるいは別の何かの介入なのかは分からなかったが。
審査官はマニュアル照合に切り替え、パスポートの写真と涼の顔を肉眼で見比べた。
「シンガポールから?」
「ネパールから。トレッキングの帰りです」涼はウォン・ウェイ・ホンの笑顔を作った。
「イスタンブールの滞在目的は」
「観光です。アヤソフィアを見たくて」
審査官は数秒間、涼の目を見つめた。機械ではなく、人間の目で。
涼はその視線を受け止めた。逸らさなかった。
スタンプが押された。
「楽しんでいけ」
涼は笑顔のまま通過した。膝は震えていたが、足は止めなかった。
真田とユナも同様に——システム不調のおかげで顔認証が機能せず、マニュアル照合で通過した。ユナはカトマンズでの傲慢な演技ではなく、ミンジらしい地味で無口な学生を静かに演じきった。
到着ロビーに出た瞬間、真田がベンチに崩れた。
「……もたない」
真田の声が掠れていた。
「体が透けていくスピードが速くなっています。フライト中は気圧のせいかと思っていたけど——着陸しても戻らない」
涼は自分の手を見た。指先の透明な範囲が、腕全体にまで広がっている。影に掴まれた足首は踵から膝の下まで透け始めている。
「急ごう」涼が言った。「ガラタ橋だ」
何百もの監視カメラの「眼」が三人の頭上を無機質に舐めていく。EU圏に隣接するトルコの空港は、テロ対策の名目で欧州レベルの顔認証システムを導入していた。
「カトマンズとは勝手が違う」真田が列に並びながら小声で言った。「ここのシステムは国際データベースと連動しているはずです。もしフランス国防省が僕たちの顔を手配リストに載せていたら——」
「バレる、ってこと?」ユナの声が強張った。
「背乗りパスポートは通っても、顔認証で本人と照合される可能性がある」
三人は顔を見合わせた。
「……でも」涼が列の先頭にあるブースを観察しながら言った。「あのニュースでは俺たちは射殺された。死んだ人間を手配リストに載せるか?」
真田が考え込んだ。
「……確かに。フランス国防省は三人の射殺を発表した。その未来は書き換えられたが、発表自体は行われた可能性がある。つまり——フランス側の記録では、僕たちは死んでいる」
「死んだ人間の顔は、手配リストから外される」ユナが理解した。
「外されるか、あるいはそもそも載せる前に射殺の報告が上がったか。どちらにせよ、顔認証で引っかかる可能性は低い」
「賭けだな」涼が言った。
「賭けです」真田が頷いた。「ただ、量子崩壊でカメラに映りにくくなっている僕たちは——皮肉なことに、顔認証にとっても幽霊のような存在です」
涼の番が来た。
ブースに立ち、パスポートを差し出す。
イスタンブールの審査官は、カトマンズの係官とは目つきが違った。訓練された視線。顔とパスポートを照合するだけでなく、手の動き、姿勢、視線の揺れまで見ている。
カメラがスキャンを開始した。
モニターにノイズが走る。涼の顔の輪郭がブレて、照合バーが進まない。
「……動くな。カメラを見て」
「機内で変な体勢で寝ちゃって、顔がむくんでるかも」
涼は「軽薄な若者」の仮面を被り、必死に愛想笑いを浮かべた。
審査官が眉をひそめる。
涼の心臓が跳ねた。だが——審査官は涼の顔ではなく、モニターを見ていた。
「システムの問題だな」審査官が同僚に声をかけた。「また顔認証が落ちた」
「三件目だ。今朝からずっとだ」同僚が溜息をついた。
涼は気づいた。自分たちだけの問題ではない。空港のシステム自体が不調を起こしている。——それが偶然なのか、量子キーの影響なのか、あるいは別の何かの介入なのかは分からなかったが。
審査官はマニュアル照合に切り替え、パスポートの写真と涼の顔を肉眼で見比べた。
「シンガポールから?」
「ネパールから。トレッキングの帰りです」涼はウォン・ウェイ・ホンの笑顔を作った。
「イスタンブールの滞在目的は」
「観光です。アヤソフィアを見たくて」
審査官は数秒間、涼の目を見つめた。機械ではなく、人間の目で。
涼はその視線を受け止めた。逸らさなかった。
スタンプが押された。
「楽しんでいけ」
涼は笑顔のまま通過した。膝は震えていたが、足は止めなかった。
真田とユナも同様に——システム不調のおかげで顔認証が機能せず、マニュアル照合で通過した。ユナはカトマンズでの傲慢な演技ではなく、ミンジらしい地味で無口な学生を静かに演じきった。
到着ロビーに出た瞬間、真田がベンチに崩れた。
「……もたない」
真田の声が掠れていた。
「体が透けていくスピードが速くなっています。フライト中は気圧のせいかと思っていたけど——着陸しても戻らない」
涼は自分の手を見た。指先の透明な範囲が、腕全体にまで広がっている。影に掴まれた足首は踵から膝の下まで透け始めている。
「急ごう」涼が言った。「ガラタ橋だ」
