離陸から二時間。機内の照明が落とされ、乗客の大半が眠りについていた。
涼は窓際の席で、自分の右手を見ていた。
機内の薄暗い光の中では、指先の透明感が目立たない。だがよく見れば分かる。小指と薬指の第一関節から先が、向こう側を透かしている。カトマンズを発った時より、範囲が広がっていた。
痛みはない。それが一番怖い。痛ければ「自分の身体だ」と実感できる。痛みすらないまま消えていくのは、存在そのものが否定されているようだった。
「眠れない?」
通路を挟んだ向かいの席で、ユナが小声で言った。バンダナを巻いた手を膝の上に置いている。
「お前こそ」
「……寝たら、目が覚めた時に自分がいなくなってたらどうしようって」
涼は何も言えなかった。同じことを考えていたからだ。
前の列で、真田が振り返った。眠れていないのは三人とも同じだった。
「ねえ、さなだっち」ユナが囁いた。「リカルド・タナカって、どんな人だったんだろう」
真田はパスポートの写真を見た。神経質そうな眼鏡の男。日系ブラジル人。ポカラで消えた農園主の息子。
「……分からない。でも、この人にも人生があった。家族がいたかもしれない。夢があったかもしれない」
「ウォン・ウェイ・ホンも」涼がパスポートを見た。シンガポールの好青年。人の良さそうな笑顔。「こいつがどんな奴だったか、俺は知らない。でも今、こいつの名前で飛行機に乗ってる」
「キム・ミンジは二十二歳だった」ユナが言った。「私と同い年。ゲストハウスに荷物を残して消えた。——何があったんだろう」
三人は黙った。
エンジンの低い振動が、機体を包んでいる。窓の外は暗く、雲の上にいるのか下にいるのかも分からなかった。
「俺たちがやってることは、正しくないかもしれない」涼が天井を見上げたまま言った。「死んだ人間の名前を盗んで、嘘ついて、逃げ回って」
「……うん」
「でも、止まったら終わりだ。俺たちが消えるだけじゃない。核兵器の暴発で、もっとたくさんの人間が死ぬ」
「だから走るしかない」真田が静かに言った。「——走り終わったら、この人たちに謝りに行きましょう。名前を借りたこと」
ユナが頷いた。
「走り終わったら、ね」
涼は窓の外を見た。暗闇の中に、機体の翼端灯が赤く点滅していた。それが、自分たちの存在がまだ点滅している証のように見えた。
真田が小さな声で言った。
「消えていく感覚って、不思議です。痛くない。ただ、自分と世界の間に——薄い膜が一枚ずつ増えていくような感じがする」
「どういうこと」ユナが訊いた。
「たとえば、さっき機内食を食べたでしょう。味がしたんですが、少し遠い。舌の上にあるのに、ガラス越しに味わっているような」
涼はハッとした。
「……俺も。コーヒー飲んだ時、熱さが一拍遅れて来た」
「感覚が薄れてるんだ」ユナがバンダナの下の指先を見た。
「触覚も?」
「たぶん。五感が少しずつ、この世界から剥がれていく」
三人の間に沈黙が落ちた。
それは量子崩壊が指先の透明感だけの問題ではないことを意味していた。身体だけでなく、世界を感じる力そのものが消えていく。
「……五感が消える前に」ユナが呟いた。「パパのお墓があったあの峠の景色。青い空に旗が舞ってた。あの景色だけは、忘れたくない」
「俺は風だな」涼が目を閉じた。「フードデリバリーで配達してる時感じる風」
真田はペンダントに触れた。
「僕は——音です。バターと小麦粉が焼きあがる音。あれを忘れたら、僕が僕でなくなる」
消える前に、守りたい感覚がある。
それが今の三人を、この世界に繋ぎとめている細い糸だった。
涼は窓際の席で、自分の右手を見ていた。
機内の薄暗い光の中では、指先の透明感が目立たない。だがよく見れば分かる。小指と薬指の第一関節から先が、向こう側を透かしている。カトマンズを発った時より、範囲が広がっていた。
痛みはない。それが一番怖い。痛ければ「自分の身体だ」と実感できる。痛みすらないまま消えていくのは、存在そのものが否定されているようだった。
「眠れない?」
通路を挟んだ向かいの席で、ユナが小声で言った。バンダナを巻いた手を膝の上に置いている。
「お前こそ」
「……寝たら、目が覚めた時に自分がいなくなってたらどうしようって」
涼は何も言えなかった。同じことを考えていたからだ。
前の列で、真田が振り返った。眠れていないのは三人とも同じだった。
「ねえ、さなだっち」ユナが囁いた。「リカルド・タナカって、どんな人だったんだろう」
真田はパスポートの写真を見た。神経質そうな眼鏡の男。日系ブラジル人。ポカラで消えた農園主の息子。
「……分からない。でも、この人にも人生があった。家族がいたかもしれない。夢があったかもしれない」
「ウォン・ウェイ・ホンも」涼がパスポートを見た。シンガポールの好青年。人の良さそうな笑顔。「こいつがどんな奴だったか、俺は知らない。でも今、こいつの名前で飛行機に乗ってる」
「キム・ミンジは二十二歳だった」ユナが言った。「私と同い年。ゲストハウスに荷物を残して消えた。——何があったんだろう」
三人は黙った。
エンジンの低い振動が、機体を包んでいる。窓の外は暗く、雲の上にいるのか下にいるのかも分からなかった。
「俺たちがやってることは、正しくないかもしれない」涼が天井を見上げたまま言った。「死んだ人間の名前を盗んで、嘘ついて、逃げ回って」
「……うん」
「でも、止まったら終わりだ。俺たちが消えるだけじゃない。核兵器の暴発で、もっとたくさんの人間が死ぬ」
「だから走るしかない」真田が静かに言った。「——走り終わったら、この人たちに謝りに行きましょう。名前を借りたこと」
ユナが頷いた。
「走り終わったら、ね」
涼は窓の外を見た。暗闇の中に、機体の翼端灯が赤く点滅していた。それが、自分たちの存在がまだ点滅している証のように見えた。
真田が小さな声で言った。
「消えていく感覚って、不思議です。痛くない。ただ、自分と世界の間に——薄い膜が一枚ずつ増えていくような感じがする」
「どういうこと」ユナが訊いた。
「たとえば、さっき機内食を食べたでしょう。味がしたんですが、少し遠い。舌の上にあるのに、ガラス越しに味わっているような」
涼はハッとした。
「……俺も。コーヒー飲んだ時、熱さが一拍遅れて来た」
「感覚が薄れてるんだ」ユナがバンダナの下の指先を見た。
「触覚も?」
「たぶん。五感が少しずつ、この世界から剥がれていく」
三人の間に沈黙が落ちた。
それは量子崩壊が指先の透明感だけの問題ではないことを意味していた。身体だけでなく、世界を感じる力そのものが消えていく。
「……五感が消える前に」ユナが呟いた。「パパのお墓があったあの峠の景色。青い空に旗が舞ってた。あの景色だけは、忘れたくない」
「俺は風だな」涼が目を閉じた。「フードデリバリーで配達してる時感じる風」
真田はペンダントに触れた。
「僕は——音です。バターと小麦粉が焼きあがる音。あれを忘れたら、僕が僕でなくなる」
消える前に、守りたい感覚がある。
それが今の三人を、この世界に繋ぎとめている細い糸だった。
