The Everest Protocol(ジ・エベレスト・プロトコル)

 カトマンズ・トリブバン国際空港の出発ロビーは、混沌の坩堝だった。  
 
 バックパックを背負ったトレッカー、出稼ぎに向かう労働者の列、怒号のようなアナウンス。熱気とスパイスの匂いが渦巻く雑踏の中で、スニルが足を止めた。
 視線の先に、一人の女性が立っている。
 サフラン色のスカーフ。金のピアス。カトマンズのオフィスでブリーフィングをした時と同じ、穏やかな笑み。
 ローワン・ベネットだった。
「ナマステ。無事な帰還を、心から歓迎します」  
 ローワンはサングラスを外し、三人の顔を交互に見た。
「事情はスニルから聞いてます。やはりあなた方は、山に選ばれた人たちでした」
 ユナはローワンの目を見た。あの時と同じ穏やかな笑み——だが、その奥にある何かが違う。カトマンズのオフィスで感じた「ただのツアー会社の代表ではない」という直感が、今は確信に変わっていた。
「これを」
 ローワンが真田に封筒を差し出した。
 中身を確認するとイスタンブール行きの航空券三枚、ユーロ紙幣の束、そして一枚のメモが入っていた。
「これは……どうしてイスタンブールに?」
 真田がローワンを見て訊いた。
「イスタンブールは欧州への入口でありながら、EUの司法権が届かないグレーゾーンです。フランスの諜報機関も、あの街では派手な軍事行動はできません」
 ローワンは微笑んだ。
 数秒の沈黙が続く。 
「……あなたは何者なんですか」ユナが言った。
「あなた方のツアー会社の代表です。それは変わらない」
 ローワンは、ユナの輪郭がぼやけている指を優しく撫でた。
「これは、運命を書き換えたツケよ。あなたたちの肉体がこの世界に留まれる時間は、さらに削られた」
「僕たちの体は、フランスまで持たないと言うことですか?」
「分かりません」
 ローワンは三人に一歩近づき、声を落とした。
「イスタンブールには、私が信頼する、より専門的なガイドがいます」
 真田が封筒の中のメモを読む。
 ——ガラタ橋。日没の十五分後。アジア側へ向かうフェリーターミナル。
「信用できる人ですか」
「私は、限界に挑む人間が好きなの」ローワンは人当たりの良い笑顔に戻った。「あとはそのガイドに従ってください」

 ローワンが下がり、スニルが一歩前に出た。
「私のガイドは、ここまでです」
 スニルの声は、山でのそれと変わり、優しい温もりを含んでいた。
 ユナの目が潤む。
「スニル——」
「泣かないでください。山では涙は凍りますが、空港では恥ずかしいだけです」
 ユナは頷いて、目元を拭った。
「スニルがいなかったら、俺たちはあの吊り橋で終わってた」
 涼が手を差し出す。
 スニルはその手を見た。透けかけた右腕。スニルは目を伏せ、それから涼の手をしっかりと握った。
「最初はバラバラでしたが、あなた方は山でいいチームになった」スニルは涼の手を離さないまま言った。「どうかご無事でフランスまで辿り着いてください」
「ガイド料の残りは、フランスから払うよ」
「急流くだりの追加分も忘れないでくださいね」
 スニルは胸の前で両手を合わせ、穏やかに微笑んだ。
 真田が深く頭を下げた。何か言おうとして、言葉が見つからず、ただ一言「ありがとう」と言ってもう一度頭を下げた。 
 スニルは静かに頷いた。 
 
 出国審査に並ぶ列は遅々として進まなかった。空港の空調は効きが悪く、じっとりとした汗が背中を伝う。
「次の方」  
 無機質な声が響く。涼の番だ。  
 涼は頬に入れた詰め物の違和感を堪え、ニラジに言われた通りのへらっとした笑みを浮かべてブースの前に立った。
「パスポート」  
 係官は気だるげに手を伸ばす。涼は『ウォン・ウェイ・ホン』のパスポートを差し出した。  
 係官が顔写真と目の前の涼を交互に見る。  
 長い。永遠のような数秒。
「……帽子を取れ」  
 涼はキャップを脱いだ。刈り込んだ髪。シンガポールの好青年。  
 係官は無言でパスポートをスキャナーに通し、カメラを涼に向けた。
「レンズを見ろ」  
 涼はカメラの黒い瞳を見つめた。   
 モニター画面がザザッと歪む。  
 係官が眉をひそめ、モニターを叩く。  
 涼の顔が映るはずの画面にノイズが走っている。顔の輪郭がブレて、二重三重に重なっていた。
 涼の拳が、カウンターの下で握りしめられた。
 ——俺はここにいる。ウォン・ウェイ・ホンとして、ここにいるんだ。
「機械の調子が悪いな」係官が舌打ちし、再起動のボタンを押した。
 後ろの列から苛立ちの溜息が漏れる。そのプレッシャーが、さらに涼の身体を不安定にさせる。
「もっと前に出ろ」
 涼はカメラに顔を近づけた。頼む、写ってくれ。
 シャッターが切れる音がした。
 係官は画面を睨み、首を傾げたが、最後は面倒くさそうにスタンプを叩きつけた。
「行け」
 涼は膝が崩れそうになるのを堪え、笑顔のままゲートを通過した。

 次は真田——リカルド・タナカの番だった。
 真田はブースの前で立ち止まり、眼鏡を外して拭いた。手が震えていた。だが眼鏡をかけ直した時、その目は落ち着いていた。パティスリーで客の前に立つ時と同じだ。恐怖を押し込め、微笑みを作る。それだけは、真田にもできた。
「仕事で? 観光で?」
「観光です。ネパールの山が素晴らしかったので」
 真田の声は穏やかだった。リカルド・タナカという人間が、数十年かけて培ったであろう穏やかさを、真田は借りていた。
 係官がパスポートをスキャナーに通した。カメラが向けられる。
 真田はレンズを見つめた。 
 モニターにわずかなノイズが走ったが、係官は先ほどの涼の時に機械の不調を経験したばかりだった。
「またか」と呟いただけでスタンプを押した。
 真田は礼を言い、静かに通過した。

 最後にユナ——キム・ミンジの番だった。
 ユナの状態は三人の中で最も悪かった。顔色は紙のように白く、立っているのがやっとだ。
「具合が悪そうだな」係官が疑わしげな目を向けた。「ドラッグでもやっているのか」
 別室に送られれば、全てが終わる。
 ユナは深呼吸し、顎を上げた。
「ハァ?」
 不機嫌そうに眼鏡をずらし、充血した目で係官を睨みつけた。
「ここが汚くて臭いからよ。早く通してくれない?」
 見た目は地味だが、傲慢で生意気な韓国人留学生。ニラジの教えを、ユナは完璧に演じきった。
 係官は鼻白み、「さっさと行け」と手を振った。
 ユナは乱暴にパスポートを掴み、ふてぶてしくブースを通り過ぎた。
 涼の隣に来た瞬間、ガクッと力が抜けて倒れかかった。
「……よくやった」
「あと四日」ユナが囁いた。「私の身体が消える前に、絶対に止めなきゃ」
 ユナの指先は氷のように冷たく、透けていた。
  
 三人は搭乗ゲートへと続くエスカレーターに乗った。
 ガラス越しに滑走路が見える。巨大な機体が、次々と空へ吸い上げられていく。
「量子キーをHELIX中枢に届ければ、核の暴走も、僕たちの崩壊も止まる」真田がリカルド・タナカの黒縁眼鏡を、半透明の指で押し上げながら言った。「それが唯一の方法です」
「私たちにできるかな」ユナが呟いた。
「できるかどうかは知らねえ」涼が前を向いたまま言った。「ただ、紗良もユナの親父さんも、答えをラディーグに置いてった。取りに行かない理由がない」

 ターキッシュ・エアラインズ、イスタンブール行き。
 搭乗アナウンスが響く中、身体が消えかけた三人は、借り物の名前でネパールの地を蹴った。
 
 タイミリミットまで、あと四日