迷路のような路地の入り口で、スニルは車を止めた。
「少し歩きます」
リキシャのベル、クラクション、土埃と排気ガス、そしてどこからか漂う香辛料と線香の匂い。タメル地区の喧噪を縫うように進み、スニルが足を止めたのは、今にも崩れそうな建物が密集する路地の奥だった。
古びた木の看板に、塗装の剥げかけた文字で『Niraj’s Old Books & Maps(ニラジ古書古地図店)』とある。
「ここです」
スニルは扉に手をかけ——一瞬、止まった。
「ここに来るのは、本当なら避けたかったのですが」
三人を振り返らずに言った。
「今は他に選択肢が見つかりません」
扉を開けた。カランと乾いた鈴の音が鳴った。
店内には線香と古書の匂いが充満していた。埃の粒子が、窓から射し込むわずかな光の中で踊っている。
奥のカウンターに、男が座っている。
白髪混じりの短髪に、乾燥した革のように日焼けした肌。片方の眉に深い古傷が走り、鋭い眼光は彼がただの古本屋の店主でないことを物語っていた。
「ニラジ、客だ」
スニルが短く言うと、男はゆっくりと立ち上がった。
「……スニルか。随分と厄介な匂いのする客を連れてきたな」
ニラジと呼ばれた男は、元グルカ兵特有の、静かだが圧倒的な威圧感を放っている。その射抜くような目で三人を一瞥すると、カウンターの下から古びた木箱を取り出し無造作に置いた。
「事情は聞かん」
箱の蓋を開けた。中には、さまざまな国のパスポートが放り込まれている。
「ここにあるのは『帰らなかった者たち』の抜け殻だ。 山で滑落した者。カトマンズの闇に消えた者。あるいは金に困って己の身分を売った者」
ニラジは箱の中を見せながら言った。
「今の時代、顔写真の貼り替えごときじゃ空港のゲートは通れない。 ICチップと生体認証ですぐに弾かれる」低い声で続ける。「お前たちがやるのは偽造じゃない。『背乗り』だ」
「背乗り?」ユナが眉をひそめた。
「消息不明者の身分を、そのまま被る。骨格の近い者を探し、お前たちがその顔に寄せるんだ」
三人の間に沈黙が落ちた。
ユナが口を開いた。
「……それって、死んでるかもしれない人の人生を盗むってこと?」
「そうだ」ニラジは表情を変えなかった。
ユナは箱の中のパスポートを見た。一冊一冊に、かつて生きていた人間の顔がある。名前がある。その人にも家族がいたかもしれない。誰かに愛されていたかもしれない。
「……やろう」
涼が言った。静かな声だった。
「やらなきゃ、もっと多くの人間が死ぬ」
ユナは唇を噛んだ。そして頷いた。
「わかった」
——ごめんなさい。
箱の中のパスポートに向かって、小さく頭を下げた。
最初に真田が前に出た。
ニラジがパスポートを数冊を選び、真田の顔と見比べる。
「お前には知性的な影があるが、今の目は負け犬だ」
一冊のパスポートが滑らされた。
『RicardoTanaka(リカルド・タナカ)』
日系ブラジル人、三十五歳。写真は神経質そうな眼鏡の男だ。
真田はその写真を凝視した。自分とは違う人生。だが、今の自分と同じように、人生の迷路に迷い込んだ男の顔。
「三ヶ月前にポカラで消えた農園主の息子だ。顔の輪郭、鼻の高さが近い。少し日焼けして、黒縁の眼鏡をかけろ。髪は七三に分けろ」
「指紋認証は?」真田が訊いた。
「それが問題だ」ニラジが真田の手を取ろうとし、眉をひそめた。
「……何だ、これは」
真田の指先が、透けている。
「これは……病気だと思ってください」真田は手を引いた。
「指紋が読み取れないなら、事故で指紋を欠損したという診断書を出す。顔認証だけで通す」ニラジは偽造フォームを取り出した。
「三人とも同じ手でいける。むしろ好都合だ」
次に涼が箱を覗き込む。
「お前は……これしかない」
放られたのはシンガポールのパスポート。
『WongWeiHong(ウォン・ウェイ・ホン)』。
少し小太りの、人の良さそうな青年だ。
「似てねぇよ」涼が抗議する。
「似せるんだ」ニラジが涼の顎を掴んだ。
「髭を剃り、髪を刈り込め。頬に詰め物をして、馬鹿みたいに笑え。今のその野良犬みたいな目を捨てろ。できるか」
涼は写真の男を見た。平和ボケしたような笑顔。今の自分とは対極にある。
「……やってやるよ。デリバリーのバイトで作り笑いなら慣れてる」
最後に、ユナが進み出た。
ニラジの手が止まる。
「……いないな」
「え?」
ニラジは箱をひっくり返した。
「お前のような派手な顔立ちの『死人』は在庫切れだ」
沈黙が流れる。
「じゃあ、私は……」
「ここに残れ。それが一番安全だ」
「無理」
ユナは強い語調で言った。
「私は行く。これはパパからの宿題なの、絶対に行く」
ニラジはユナの目をしばらく見ていた。それから一冊のパスポートを拾い上げた。
『Kim Min-ji(キム・ミンジ)』
大韓民国、二十二歳。写真は、黒髪のストレートヘアで、化粧っ気のない地味な顔立ちだ。
「タメルのゲストハウスに荷物を置いたまま消えた女子学生だ。骨格はギリギリ合う。だが雰囲気が真逆だ。お前は華やかすぎる」
「平気よ」
ユナがパスポートを受け取った。
「地味になればいいんでしょ? メイクを落として、髪を黒く染めて、ダサい眼鏡をかける。それくらい何でもない」
「見た目は地味だがキレやすい性格だ」
「演じる」
「名前も捨てるんだぞ」ニラジが冷酷に言った。「父親の姓も」
ユナの手が止まった。
瀬尾。父が残した名前。この旅の出発点にある名前。
ユナはパスポートの写真を見た。Kim Min-ji。知らない女性の顔。知らない人生。
ユナは唇を噛み、小さく息を吐いたが、顔をあげニラジの目を見据えた。
「全然平気」
父への想いは心の中にしまえばいい。今は、泥を被ってでも前に進む時だ。
その覚悟の目に、ニラジは口元を緩めた。
「決まりだな。いいか」ニラジが三人を見渡した。「空港では絶対に挙動不審になるな。機械は誤魔化せても、人間の目は誤魔化せない。お前たちは今からリカルドであり、ウォンであり、ミンジだ。寝言でもその名前を言えるようになれ」
店を出ると、タメルの喧騒は相変わらずだった。
だが、三人の顔つきは変わっていた。
真田湊人、藤原涼、瀬尾ユナという名前は、薄暗い古書店に置いてきた。
「髪を切りに行きましょう。そして、服も買わないと」
スニルが言うと、ユナが心配そうな目でスニルを見た。
「追っ手は?」ユナが周囲を見回した。
「地元警察にいる知り合いに、不審な外国人武装集団の情報を流しておきました。しばらくは表立って動けないはずです」
「お前、ガイドの範囲超えてるだろ」涼が言った。
「元グルカですから」
スニルは前を向いたまま、小さく笑った。
「少し歩きます」
リキシャのベル、クラクション、土埃と排気ガス、そしてどこからか漂う香辛料と線香の匂い。タメル地区の喧噪を縫うように進み、スニルが足を止めたのは、今にも崩れそうな建物が密集する路地の奥だった。
古びた木の看板に、塗装の剥げかけた文字で『Niraj’s Old Books & Maps(ニラジ古書古地図店)』とある。
「ここです」
スニルは扉に手をかけ——一瞬、止まった。
「ここに来るのは、本当なら避けたかったのですが」
三人を振り返らずに言った。
「今は他に選択肢が見つかりません」
扉を開けた。カランと乾いた鈴の音が鳴った。
店内には線香と古書の匂いが充満していた。埃の粒子が、窓から射し込むわずかな光の中で踊っている。
奥のカウンターに、男が座っている。
白髪混じりの短髪に、乾燥した革のように日焼けした肌。片方の眉に深い古傷が走り、鋭い眼光は彼がただの古本屋の店主でないことを物語っていた。
「ニラジ、客だ」
スニルが短く言うと、男はゆっくりと立ち上がった。
「……スニルか。随分と厄介な匂いのする客を連れてきたな」
ニラジと呼ばれた男は、元グルカ兵特有の、静かだが圧倒的な威圧感を放っている。その射抜くような目で三人を一瞥すると、カウンターの下から古びた木箱を取り出し無造作に置いた。
「事情は聞かん」
箱の蓋を開けた。中には、さまざまな国のパスポートが放り込まれている。
「ここにあるのは『帰らなかった者たち』の抜け殻だ。 山で滑落した者。カトマンズの闇に消えた者。あるいは金に困って己の身分を売った者」
ニラジは箱の中を見せながら言った。
「今の時代、顔写真の貼り替えごときじゃ空港のゲートは通れない。 ICチップと生体認証ですぐに弾かれる」低い声で続ける。「お前たちがやるのは偽造じゃない。『背乗り』だ」
「背乗り?」ユナが眉をひそめた。
「消息不明者の身分を、そのまま被る。骨格の近い者を探し、お前たちがその顔に寄せるんだ」
三人の間に沈黙が落ちた。
ユナが口を開いた。
「……それって、死んでるかもしれない人の人生を盗むってこと?」
「そうだ」ニラジは表情を変えなかった。
ユナは箱の中のパスポートを見た。一冊一冊に、かつて生きていた人間の顔がある。名前がある。その人にも家族がいたかもしれない。誰かに愛されていたかもしれない。
「……やろう」
涼が言った。静かな声だった。
「やらなきゃ、もっと多くの人間が死ぬ」
ユナは唇を噛んだ。そして頷いた。
「わかった」
——ごめんなさい。
箱の中のパスポートに向かって、小さく頭を下げた。
最初に真田が前に出た。
ニラジがパスポートを数冊を選び、真田の顔と見比べる。
「お前には知性的な影があるが、今の目は負け犬だ」
一冊のパスポートが滑らされた。
『RicardoTanaka(リカルド・タナカ)』
日系ブラジル人、三十五歳。写真は神経質そうな眼鏡の男だ。
真田はその写真を凝視した。自分とは違う人生。だが、今の自分と同じように、人生の迷路に迷い込んだ男の顔。
「三ヶ月前にポカラで消えた農園主の息子だ。顔の輪郭、鼻の高さが近い。少し日焼けして、黒縁の眼鏡をかけろ。髪は七三に分けろ」
「指紋認証は?」真田が訊いた。
「それが問題だ」ニラジが真田の手を取ろうとし、眉をひそめた。
「……何だ、これは」
真田の指先が、透けている。
「これは……病気だと思ってください」真田は手を引いた。
「指紋が読み取れないなら、事故で指紋を欠損したという診断書を出す。顔認証だけで通す」ニラジは偽造フォームを取り出した。
「三人とも同じ手でいける。むしろ好都合だ」
次に涼が箱を覗き込む。
「お前は……これしかない」
放られたのはシンガポールのパスポート。
『WongWeiHong(ウォン・ウェイ・ホン)』。
少し小太りの、人の良さそうな青年だ。
「似てねぇよ」涼が抗議する。
「似せるんだ」ニラジが涼の顎を掴んだ。
「髭を剃り、髪を刈り込め。頬に詰め物をして、馬鹿みたいに笑え。今のその野良犬みたいな目を捨てろ。できるか」
涼は写真の男を見た。平和ボケしたような笑顔。今の自分とは対極にある。
「……やってやるよ。デリバリーのバイトで作り笑いなら慣れてる」
最後に、ユナが進み出た。
ニラジの手が止まる。
「……いないな」
「え?」
ニラジは箱をひっくり返した。
「お前のような派手な顔立ちの『死人』は在庫切れだ」
沈黙が流れる。
「じゃあ、私は……」
「ここに残れ。それが一番安全だ」
「無理」
ユナは強い語調で言った。
「私は行く。これはパパからの宿題なの、絶対に行く」
ニラジはユナの目をしばらく見ていた。それから一冊のパスポートを拾い上げた。
『Kim Min-ji(キム・ミンジ)』
大韓民国、二十二歳。写真は、黒髪のストレートヘアで、化粧っ気のない地味な顔立ちだ。
「タメルのゲストハウスに荷物を置いたまま消えた女子学生だ。骨格はギリギリ合う。だが雰囲気が真逆だ。お前は華やかすぎる」
「平気よ」
ユナがパスポートを受け取った。
「地味になればいいんでしょ? メイクを落として、髪を黒く染めて、ダサい眼鏡をかける。それくらい何でもない」
「見た目は地味だがキレやすい性格だ」
「演じる」
「名前も捨てるんだぞ」ニラジが冷酷に言った。「父親の姓も」
ユナの手が止まった。
瀬尾。父が残した名前。この旅の出発点にある名前。
ユナはパスポートの写真を見た。Kim Min-ji。知らない女性の顔。知らない人生。
ユナは唇を噛み、小さく息を吐いたが、顔をあげニラジの目を見据えた。
「全然平気」
父への想いは心の中にしまえばいい。今は、泥を被ってでも前に進む時だ。
その覚悟の目に、ニラジは口元を緩めた。
「決まりだな。いいか」ニラジが三人を見渡した。「空港では絶対に挙動不審になるな。機械は誤魔化せても、人間の目は誤魔化せない。お前たちは今からリカルドであり、ウォンであり、ミンジだ。寝言でもその名前を言えるようになれ」
店を出ると、タメルの喧騒は相変わらずだった。
だが、三人の顔つきは変わっていた。
真田湊人、藤原涼、瀬尾ユナという名前は、薄暗い古書店に置いてきた。
「髪を切りに行きましょう。そして、服も買わないと」
スニルが言うと、ユナが心配そうな目でスニルを見た。
「追っ手は?」ユナが周囲を見回した。
「地元警察にいる知り合いに、不審な外国人武装集団の情報を流しておきました。しばらくは表立って動けないはずです」
「お前、ガイドの範囲超えてるだろ」涼が言った。
「元グルカですから」
スニルは前を向いたまま、小さく笑った。
