The Everest Protocol(ジ・エベレスト・プロトコル)

 タムダンダ村の外れ。

 闇に溶けるように停まっていた古い四輪駆動車の前で、スニルが男からキーを受取り、短い頷きを交わした。  
 男は何も聞かず、闇へ消えていく。
「……よく借りられたな」  
 涼が低く唸る。
「この時間で、理由も聞かずに」
 ユナも安堵と驚きが混ざった吐息を漏らす。
「特別なことじゃありません」
 スニルは慣れた手つきでイグニッションを回した。
「この国では、助けられるときに助ける。それだけです」
 エンジンが咳き込むように目覚め、車は漆黒の山道へ滑り出した。
 
 東の空が白み始め、尾根のシルエットが浮かび上がる。谷底には、夜の残滓のような霧が澱んでいた。
「カトマンズまでは?」  
 助手席の真田が、ノイズが走る指先でダッシュボードを押さえながら訊いた。
「順調なら今夜には」
スニルの返答は簡潔だった。  
  
 集落の灯りが遠ざかると、道は牙を剥いた。  
 ガードレールもなければ舗装の痕跡もない。
 右手は垂直の岩壁、左手は——ヘッドライトが吸い込まれる底なしの谷。
 車体が激しく跳ねる。内臓が浮き上がるような浮遊感の直後、暴力的な着地が襲う。
「くっ……」  
 ユナが呻く。
「舌を噛まないように。ここから十時間、この調子です」 
 スニルがハンドルを細かく操作しながら言った。轍が蛇のようにのたうち、道を踏み外す恐怖に身がすくむ。
「やべぇぞ……」
 涼は影に掴まれた足首を見た。
 振動のたびに、透明感が増している。床を踏み込む力に問題はないが、揺れるたびに輪郭が薄くなる。七日間の猶予が、一秒ごとに削られているのを目で見せられている感覚だった。
 真田も自分の手を確認していた。ペンダントを握る指先が、向こう側を透かしている。
「……悪路は体力を削ります。崩壊の進行を早める可能性がある」真田が低い声で言った。「できるだけ体力を温存しましょう」
  
 いくつかのヘアピンカーブを越えた先だった。  
 スニルが短く息を吸い、ブレーキを踏む。  
「——塞がれている」  
 前方の道を、横向きに停められた車両とドラム缶が遮断していた。
 その周囲には、銃を携えた男たちの影。  
「正規軍じゃない」  
 スニルの目が鋭くなった。
「服装が不揃いです。傭兵か、あるいは——」
「懸賞金狙いか」涼が歯を噛んだ。
「Uターンします」  
 スニルの判断は早かった。
「気づかれない?」ユナの声が震える。
 スニルはミラーを見た。
「気づかれたら、終わりです」  
 ウィンカーを出し、静かに路肩へ車を寄せた。検問の男の一人が顔を上げる。  
 ——見るな。こっちを見るな。  
 祈るような静寂の中、旋回するタイヤが小石を弾いた。  
 カッ、と乾いた音が響く。  
 男の視線がこちらに突き刺さった。無線機を握り、怪訝な顔で近づいてくる。窓の中を覗き込もうとする。
 スニルがアクセル踏み抜いた。
「伏せて!!」  
  四輪駆動車が咆哮を上げ、タイヤが地面を抉った。背中がシートに叩きつけられる。  
 直後、リアガラスが乾いた破裂音と共に弾け飛んだ。銃撃だ。
「追って来てる!」  
 涼が叫ぶ。バックミラーの中で、白い閃光が二つ、三つ、四つと増えていく。
「四台いる!」 
 
 道幅が極端に狭まった。  
 ガードレールのない絶壁の縁を、スニルは狂気的な速度でハンドルを捌く。  
 車体が傾くたび、谷底への落下が現実味を帯びる。
 後方のライトが、バックミラーを白く焼き尽くすほど迫った。
「追いつかれる!」  
 突然、正面から巨大な影がせり上がってきた。極彩色の装飾を施した大型トラックだ。山を割るようなクラクションを鳴らして突進してくる。
「ぶつかる!」  
 ユナが悲鳴を上げた。  
 だが、スニルはブレーキを踏まない。 
 ハンドルを逆に切り、トラックと岩壁の間のわずか数十センチの隙間へ車体を滑り込ませた。ボディが岩壁を削り、火花が散る。 凄まじい風圧が車体を殴り、窓ガラスが悲鳴を上げる。
 すれ違った直後、背後で重い衝撃音と金属が引き裂かれる音が響いた。
「一台、落ちた!」涼が叫ぶ。  
 トラックが壁となり、追っ手の視界が一瞬遮断された。だが、すぐにまたライトの光芒が伸びてくる。   
 息つく暇もなく、二台目のトラックがカーブの先から現れた。
「まずい!」  
 しかしスニルはアクセルを緩めず、再び針の穴を通すようなライン取りでトラックの脇をすり抜ける。サイドミラーがボディを擦り、鼓膜が麻痺するような不快な音を響かせ弾け飛んだ。
「後ろは?」
「……見えない。離れた」  
「今のうちに引き離します」  
 スニルはさらに加速した。
 涼はふと思った。この男の運転は、ガイドのそれではない。
「スニル、お前——」
「元グルカです」
 スニルが前方を見たまま、短く答えた。
「グルカ兵?」真田が息を呑んだ。
「退役してからガイドになりました。——今はただの山岳ガイドです」
 それ以上は語らなかった。
 これで逃げ切れると思った矢先、行く手の闇に浮かんだ赤い光が、その希望を打ち砕く。 
 ゆっくりと揺れる、二つのテールライト。
「……バスだ」  
 真田が呻くように言った。  
 黒煙を吐きながら、旧式の路線バスが山道を喘ぐように登っている。道幅は狭く、追い越すスペースが見当たらない。  
 退路も進路も塞がれた。
「どうすんだこれ」  
 涼が苛立ちを露わにする。
「詰んだか……」  
 真田の言葉に、スニルが視線を巡らせた。
 前方。ミラー。地形。何かの計算が、その瞳の中で弾き出される。
「……降ります」
「はっ?」  
 ユナが裏返った声を出す。
「車を捨てて、あのバスに乗ります」  
 スニルの声には、反論を許さない響きがあった。
「今です!」  
 バスの死角に入った瞬間、急ブレーキを踏み、車体を横に向けて道を塞いだ。
「走ってください!!」  
 四人は転がり出る。  
 背後のカーブから、追っ手のタイヤ音が迫る。
 涼がバスの後部梯子に飛びついた。右手がバーを掴む。透けた指先が滑りかけ、涼は慌てて左手で握り直した。
「乗れ!」  
 真田とユナを引き上げ、最後にスニルが飛び乗った。
 追っ手の車が土煙を裂いて現れたが、目の前にあるのは道を塞ぐ乗り捨てられた車だけだった。 
 バスは黒煙を吐き、何食わぬ顔でカーブの先へ消えていった。
 
 バスの中は、驚くほど平穏だった。  
 日焼けした地元の老人、鶏の入った籠を抱く女、眠そうな眼をした子供たち。  
 外で繰り広げられた死闘など、誰も知らない。別の時間が流れているような静けさだった。
 ユナは透けかけた指先にそっとバンダナを巻いて隠した。隣の席の子供が不思議そうにユナを見ている。ユナは笑顔を作って手を振った。子供は笑い返した。  
 しばらくして、バスが減速を始めた。窓外に山の斜面に張り付くように並ぶ石造り集落が見える。
「ここで降ります」小声で誰かと電話をしていたスニルが短く告げた。
 四人は何事もなかったかのような顔を作り、乗客の流れに紛れてバスを降りた。
 
 バスのエンジン音が遠ざかると、冷涼な山の空気が肌を刺した。犬の鳴き声と、谷に響く祈りの鐘。  
 まだ朝の早い市場には、野菜の籠や空の木箱が無造作に積まれている。その裏手にある倉庫のような建物の前で、スニルが足を止めた。  
「別の車を用意しました」
 薄汚れた小型車から出てきた男とスニルが抱擁を交わす。二、三の言葉と、鍵の受け渡し。それだけだった。
「お前、どれだけ顔が広いんだ」  
 涼が呆れたように呟く。  
「グルカの連帯は、退役後も続きます」
 スニルは静かに笑った。
 
 乗り込んだ車内は狭く、シートのスプリングが背中に当たった。エンジン音は頼りなく、振動が足元から直に伝わってくる。
「こんなオンボロで逃げるのかよ」  
 涼が呆れたようにシートを叩く。
「これでいいんです」  
 スニルは静かに笑い、ミラー越しに涼を見た。
「速さよりも、見えないことの方が重要ですから」
 
 車は老人の歩みのようにゆっくりと動き出し、再びカトマンズへの道に戻った。  
 五分もしないうちに、スニルの肩が強張った。
「来ます」  
 前方から、暴力的なエンジン音が迫ってくる。
「後ろの二人は伏せてください」  
 ユナと涼は狭い足元に体を折りたたむ。  
 現れたのは、窓をスモークで覆った黒い四輪駆動車だった。殺気を纏った車両が、対向車線から迫ってくる。  
 ユナの心臓が早鐘を打つ。涼の背中を、油汗が伝う。
 スニルは顔色一つ変えず、地元の農夫になりきってハンドルを握っていた。  
 すれ違う刹那、真田は見た。運転手が、血走った目で前方だけを睨んでいるのを。彼らは「逃げ去る車」を探している。すれ違うオンボロ車など、眼中にない。  
 黒い車は、疾風のように過ぎ去っていった。
「……行ったか?」  
 涼が顔を上げる。
「ええ。あと二台、すれ違うはずです」  
 スニルの声は変わらず静かだった。
 緊張が張り詰めたまま次のカーブを曲がったところで、彼らは無残な光景を目にした。道路脇の岩壁に二台の車が突っ込んでいる。一台は大破し、もう一台は側面が抉り取られていた。  
 トラックとすれ違った場所だ。  
 スニルは速度を変えず、その残骸の脇を静かに通過した。
「追ってきたのは四台。谷に落ちた一台、すれ違った一台、そして自滅した二台」  
 スニルが淡々と数えた。
「もう、大丈夫です」 
  
 さらに山道を進む。  
 日は完全に昇り、やがて傾き始めた。  
 山の輪郭が後方へと流れ去り、まばらだった建物が密集し始める。荒れた路面は舗装路へと変わり、道幅が広がっていく。  
 視界の先に、盆地を埋め尽くす光の海が現れた。
「カトマンズです」  
 車は市街地へと滑り込み、無秩序な交通の波に溶け込んだ。    
 ここまで来れば、もう一台のオンボロ車を見分けることはできない。
 涼はポケットの中で右手を握った。指先の感触が、朝より薄くなっていた。
 
 タイミリミットまであと五日。