静かにオールを漕いでいたスニルが空を見上げ、眉をひそめた。
「……変ですね」
青空が広がっているはずの場所に、薄い膜のような靄が張りついている。
涼も視線を上げた。
「揺れてる?」
空気の層がゆらいで、上空を舞う風が不吉にざわめいている。
突然、山全体が重い唸り声を上げた。
「え?」ユナが振り向く。
尾根の上部から白い壁が崩れ落ちてきた。雪と岩と氷が混ざった塊が、斜面を丸ごと飲み込みながら迫ってくる。
「地滑りだ! 走れ!」
四人はボートを捨て、岩場を駆けだした。
だが逃げる先にも、雪煙の壁が迫ってくる。
「こっちです!」
スニルが岩の裂け目を指差した。
「飛び込め!」
四人が暗闇に滑り込んだ直後、外の世界が轟音で塗りつぶされた。
地鳴りが頭蓋骨を揺らす。天井から岩塊が落下し、入り口を容赦なく塞いでいく。
「もっと奥へ!!」
スニルの叫び声で四人はさらに走った。
背後でルートが一つずつ潰れる音が響く。
やがて、振動が止んだ。
スニルがヘッドライトを点ける。光の筋が舞い上がる土煙を切り裂いた。
「皆さん、無事ですか?」
他の三人も続けてライトを点灯した。細い光が闇を照らす。
「入り口は……完全に埋まったな」
涼が壁に手をつき、荒い息を吐く。
「奥へ進むしかないようです」
スニルが先頭に立ち、空気が流れる方角へ歩き出した。
十メートルほど進むと、洞窟の様相が一変した。
氷の下に、直線に削られた痕跡がある。
「……これ、掘削跡だ」
真田が指で氷をなぞった。
さらに進むと、鉄骨やボルトや配管が見えてきた。
「事故で放棄された水力発電計画の導水トンネルのようです」
スニルがライトで奥を照らした。闇はどこまでも深く続いている。
「……これが山の裏側まで抜けていれば……徒歩二日の行程を、半日に短縮できます。出口はサレリ村に続く旧道の近くのはずです」
四人は顔を見合わせた。
「地獄に仏とはこのことか」
涼が薄く笑った。
「行こう」
四人は体を寄せ合い、闇の中を進んだ。
コツン、コツン……
足音が反響する。だが、何かがおかしい。
水滴が天井から落ちる音。自分たちの呼吸。それ以外は何もない——はず。
「……なぁ」
涼が立ち止まった。背筋に氷を押し当てられたような悪寒が走る。
「足音、多くないか?」
涼は後方を振り返ったが、ライトの先に、暗闇が広がっているだけだ。
「反響にしてはおかしいですね」
真田が掠れた声で返事をする。
天井から、ザラッと砂が落ちてきた。
全員が息を呑んでライトを上に向ける。
何もない。ただの天井……
その闇の奥から——声が聞こえた。
『今のうちに渡れ!』
四人が息を呑む。
聞き覚えのある声だった。
『だめっ! 靴が!』
「なに?この声……」
ユナが幽霊でも見たように顔を引き攣らせる。
『クソッ、硬てぇ!』
『もういい、私を置いて逃げて!』
『置いてけるかよ!』
吊り橋での会話が、トンネルの暗闇の中で反復されている。
『今のうちに渡れ!』
『だめっ! 靴が!』
『クソッ、硬てぇ!』
『もういい、私を置いて逃げて!』
『置いてけるかよ!』
——これって、私たちの……
ユナが震える声で呟く。
「私たちは死ななかった」
だから——
涼が続ける。
「未来が歪んで」
真田が顔面蒼白で呻いた。
「死んでいたはずの“影”が漏れ出した……!?」
理解した瞬間、四人の全身が総毛立った。
「僕たちは、射殺される未来を書き換えた。でも——書き換えられた未来は消えたわけじゃない。重ね合わせの状態で残留する」
「残留って——」
壁面が蠢いた。
壁から、黒い染みのような影が剥がれ落ち、のたうちながら、輪郭が焼け焦げた人の形になる。
——ニュース映像で見た黒焦げの死体。
影が口を裂き、耳をつんざくようなノイズの悲鳴をあげ、ユナに向かって手を伸ばしてくる。
「ユナ!」
涼が叫ぶ。
しかしユナの足が動かない。恐怖が神経を凍りつかせていた。
影の手が、ユナの足元の闇に触れる。
「いやぁ!」
ユナの身体がよろめく。
「引き摺り込まれたら終わりだ!『未実現の未来』と融合して、量子の窪みに落ちる!」
影の手が、じわじわとユナの足に迫る。
「どうすればいいんだ?」涼が叫んだ。
真田は考えた。
暗闘の中で、頭だけが高速で回転している。
「ライトを当てて」
ユナが震える手でライトを影に向けた。
スニルも強力なビームライトを照射した。
光に撃たれた影が——ぴたりと静止する。
輪郭が薄くなり、焼け焦げた手が凍りつく。
「効いてます」
スニルが叫ぶ。
「観測されている間は、未来が固定されるはずです。あいつらは“固定される未来”に進めない」
安堵したのも束の間、壁や天井や氷の下から、黒い染みのような影が次々に剥がれ落ち始める。
「逃げろ!」
四人は走った。
「後ろは俺がやる!」
涼が後方をライトで薙ぎ払い、光の届かない角度から伸びてくる影を照らす。
スニルは先頭で道を切り開く。
ユナと真田がその間を走る。
前方に、微かな光の粒が見えた。
「出口です!」
スニルが叫ぶ。
背後から、黒焦げの影たちが津波のように押し寄せてくる。
壁を滑り、天井を這い、四人の現在と未来の境界を侵食するように追ってくる。
「来んなぁ!」
涼が叫び、ライトを乱暴に振りかざす。
壁に当たった光で影がわずかに遅れる。
出口まであと数メートル。
「ユナ、行け!」
涼が叫んでユナを押し出す。
スニルと真田も外へ転げ出る。
涼が飛び出そうとした時、影の手が足首を掴んだ。
視界がぐにゃりと歪む。暗闇が涼の身体に染み込んでくる。
「涼!」
ユナが叫び、涼の腕を掴んだ。
涼の指先は、今までで一番透けていた。
真田とスニルも加勢し、必死で引っ張る。
影の手は紙のように薄いのに、凄まじい力で涼を闇に引きずる。
「離せ!」
涼はライトを影の顔に、ゼロ距離で突きつけた。
ジュッ! と音がして影が霧散する。
その反動で、涼は外の世界へ弾き出された。
直後、トンネルは轟音とともに崩落した。
暗闇の奥から、影たちの断末魔のような反響が遅れて届き——消えた。
四人は草むらに大の字になって倒れ込み、荒い息を繰り返した。
誰も言葉を発せない。
見上げると、夕映えの光がヒマラヤの山々を赤く染め、宝石のように美しい光景が透明な風の中に佇んでいる。
「……ここは?」
ユナが体を起こす。
「タムダンダ村の近くです」
スニルが遠くの集落の灯りを指差した。
「予想してたサレリ村ではありませんが……結果的に大幅なショートカットになりました」
涼は泥だらけの顔を拭い、笑った
「死神のトンネルを抜けて近道とはな」
涼の指先の透明感は変わっていない。だが足首に——影に掴まれた場所に、かすかな痺れが残っていた。そこだけ、肌の色が薄い。
涼はそれを誰にも言わなかった。
「行こう」涼は立ち上がった。「まだ歩ける」
真田も透けた手で眼鏡を直し、立ち上がる。
ユナも立ち上がり、西の空を見た。
タイムリミットまであと六日。
渓谷の頭上の空に、一番星が煌めいていた。
「……変ですね」
青空が広がっているはずの場所に、薄い膜のような靄が張りついている。
涼も視線を上げた。
「揺れてる?」
空気の層がゆらいで、上空を舞う風が不吉にざわめいている。
突然、山全体が重い唸り声を上げた。
「え?」ユナが振り向く。
尾根の上部から白い壁が崩れ落ちてきた。雪と岩と氷が混ざった塊が、斜面を丸ごと飲み込みながら迫ってくる。
「地滑りだ! 走れ!」
四人はボートを捨て、岩場を駆けだした。
だが逃げる先にも、雪煙の壁が迫ってくる。
「こっちです!」
スニルが岩の裂け目を指差した。
「飛び込め!」
四人が暗闇に滑り込んだ直後、外の世界が轟音で塗りつぶされた。
地鳴りが頭蓋骨を揺らす。天井から岩塊が落下し、入り口を容赦なく塞いでいく。
「もっと奥へ!!」
スニルの叫び声で四人はさらに走った。
背後でルートが一つずつ潰れる音が響く。
やがて、振動が止んだ。
スニルがヘッドライトを点ける。光の筋が舞い上がる土煙を切り裂いた。
「皆さん、無事ですか?」
他の三人も続けてライトを点灯した。細い光が闇を照らす。
「入り口は……完全に埋まったな」
涼が壁に手をつき、荒い息を吐く。
「奥へ進むしかないようです」
スニルが先頭に立ち、空気が流れる方角へ歩き出した。
十メートルほど進むと、洞窟の様相が一変した。
氷の下に、直線に削られた痕跡がある。
「……これ、掘削跡だ」
真田が指で氷をなぞった。
さらに進むと、鉄骨やボルトや配管が見えてきた。
「事故で放棄された水力発電計画の導水トンネルのようです」
スニルがライトで奥を照らした。闇はどこまでも深く続いている。
「……これが山の裏側まで抜けていれば……徒歩二日の行程を、半日に短縮できます。出口はサレリ村に続く旧道の近くのはずです」
四人は顔を見合わせた。
「地獄に仏とはこのことか」
涼が薄く笑った。
「行こう」
四人は体を寄せ合い、闇の中を進んだ。
コツン、コツン……
足音が反響する。だが、何かがおかしい。
水滴が天井から落ちる音。自分たちの呼吸。それ以外は何もない——はず。
「……なぁ」
涼が立ち止まった。背筋に氷を押し当てられたような悪寒が走る。
「足音、多くないか?」
涼は後方を振り返ったが、ライトの先に、暗闇が広がっているだけだ。
「反響にしてはおかしいですね」
真田が掠れた声で返事をする。
天井から、ザラッと砂が落ちてきた。
全員が息を呑んでライトを上に向ける。
何もない。ただの天井……
その闇の奥から——声が聞こえた。
『今のうちに渡れ!』
四人が息を呑む。
聞き覚えのある声だった。
『だめっ! 靴が!』
「なに?この声……」
ユナが幽霊でも見たように顔を引き攣らせる。
『クソッ、硬てぇ!』
『もういい、私を置いて逃げて!』
『置いてけるかよ!』
吊り橋での会話が、トンネルの暗闇の中で反復されている。
『今のうちに渡れ!』
『だめっ! 靴が!』
『クソッ、硬てぇ!』
『もういい、私を置いて逃げて!』
『置いてけるかよ!』
——これって、私たちの……
ユナが震える声で呟く。
「私たちは死ななかった」
だから——
涼が続ける。
「未来が歪んで」
真田が顔面蒼白で呻いた。
「死んでいたはずの“影”が漏れ出した……!?」
理解した瞬間、四人の全身が総毛立った。
「僕たちは、射殺される未来を書き換えた。でも——書き換えられた未来は消えたわけじゃない。重ね合わせの状態で残留する」
「残留って——」
壁面が蠢いた。
壁から、黒い染みのような影が剥がれ落ち、のたうちながら、輪郭が焼け焦げた人の形になる。
——ニュース映像で見た黒焦げの死体。
影が口を裂き、耳をつんざくようなノイズの悲鳴をあげ、ユナに向かって手を伸ばしてくる。
「ユナ!」
涼が叫ぶ。
しかしユナの足が動かない。恐怖が神経を凍りつかせていた。
影の手が、ユナの足元の闇に触れる。
「いやぁ!」
ユナの身体がよろめく。
「引き摺り込まれたら終わりだ!『未実現の未来』と融合して、量子の窪みに落ちる!」
影の手が、じわじわとユナの足に迫る。
「どうすればいいんだ?」涼が叫んだ。
真田は考えた。
暗闘の中で、頭だけが高速で回転している。
「ライトを当てて」
ユナが震える手でライトを影に向けた。
スニルも強力なビームライトを照射した。
光に撃たれた影が——ぴたりと静止する。
輪郭が薄くなり、焼け焦げた手が凍りつく。
「効いてます」
スニルが叫ぶ。
「観測されている間は、未来が固定されるはずです。あいつらは“固定される未来”に進めない」
安堵したのも束の間、壁や天井や氷の下から、黒い染みのような影が次々に剥がれ落ち始める。
「逃げろ!」
四人は走った。
「後ろは俺がやる!」
涼が後方をライトで薙ぎ払い、光の届かない角度から伸びてくる影を照らす。
スニルは先頭で道を切り開く。
ユナと真田がその間を走る。
前方に、微かな光の粒が見えた。
「出口です!」
スニルが叫ぶ。
背後から、黒焦げの影たちが津波のように押し寄せてくる。
壁を滑り、天井を這い、四人の現在と未来の境界を侵食するように追ってくる。
「来んなぁ!」
涼が叫び、ライトを乱暴に振りかざす。
壁に当たった光で影がわずかに遅れる。
出口まであと数メートル。
「ユナ、行け!」
涼が叫んでユナを押し出す。
スニルと真田も外へ転げ出る。
涼が飛び出そうとした時、影の手が足首を掴んだ。
視界がぐにゃりと歪む。暗闇が涼の身体に染み込んでくる。
「涼!」
ユナが叫び、涼の腕を掴んだ。
涼の指先は、今までで一番透けていた。
真田とスニルも加勢し、必死で引っ張る。
影の手は紙のように薄いのに、凄まじい力で涼を闇に引きずる。
「離せ!」
涼はライトを影の顔に、ゼロ距離で突きつけた。
ジュッ! と音がして影が霧散する。
その反動で、涼は外の世界へ弾き出された。
直後、トンネルは轟音とともに崩落した。
暗闇の奥から、影たちの断末魔のような反響が遅れて届き——消えた。
四人は草むらに大の字になって倒れ込み、荒い息を繰り返した。
誰も言葉を発せない。
見上げると、夕映えの光がヒマラヤの山々を赤く染め、宝石のように美しい光景が透明な風の中に佇んでいる。
「……ここは?」
ユナが体を起こす。
「タムダンダ村の近くです」
スニルが遠くの集落の灯りを指差した。
「予想してたサレリ村ではありませんが……結果的に大幅なショートカットになりました」
涼は泥だらけの顔を拭い、笑った
「死神のトンネルを抜けて近道とはな」
涼の指先の透明感は変わっていない。だが足首に——影に掴まれた場所に、かすかな痺れが残っていた。そこだけ、肌の色が薄い。
涼はそれを誰にも言わなかった。
「行こう」涼は立ち上がった。「まだ歩ける」
真田も透けた手で眼鏡を直し、立ち上がる。
ユナも立ち上がり、西の空を見た。
タイムリミットまであと六日。
渓谷の頭上の空に、一番星が煌めいていた。
