The Everest Protocol(ジ・エベレスト・プロトコル)

 しばらく誰も喋らなかった。

 ボートが水を切る音だけが、静かに繰り返される。
 今度は真田が語り始めた。
「これ……パティシエの修行してたお店で、お別れ会の時みんなからもらったんです」
 真田は胸元のペンダントに触れた。
「帰国して神戸に自分のお店を開いた時は、希望が輝いていました」
 膝の上で手を組み、透けかけた指先を見つめる。
「でも仲間に裏切られて、店を失って。人と話すのが怖くなって……僕は、この山へ死のうと思って来たんです」
 ユナが目を丸くした。涼も真田を見た。
「世界で一番静かな場所で、静かに消えたかった」
 川面の光が、真田の眼鏡に反射する。
「でも——不思議なんです」真田はゆっくりと顔を上げた。「今、身体が消え始めているのに、怖いと感じている。消えたくないと思っている」
 白銀のヒマラヤの風が、真田の頬を撫でる。
「皮肉なもんですね。死にたくて来た山で、生きたいと思っている。今は、この意味不明な方程式を解きたくて仕方がありません。勝手に僕たちの終わりを計算したAIに、一泡吹かせてやりたいと思っている」  
 その横顔には、死に場所を探す暗い影はなかった。
「さなだっち……」
 涼はニヤリと笑い、真田の肩を叩いた。
「おかえり、パティシエ」
 真田は面食らったように涼を見て——それから、初めて、声を出して笑った。

 雲の切れ間から、信じられないほど青い空が覗いている。

「ユナの親父さんの時計、俺が紗良から受け取ったQRコード、そしてさなだっちのペンダント」涼は三人のアイテムを順に見た。
「偶然じゃねぇな。俺たちは選ばれたのか、それともラウルの掌の上で踊らされてるだけか」
「あなたは『計算になかった』って言われてたけどね」
 ユナがからかうような目で涼を見る。
「きっと、紗良さんの代理ね」
「どっちでもいい」涼が力強く言った。
「紗良が命懸けで遺した答えがそこにあるなら地獄の果てでも行ってやる」
 涼が立ち上がった。ボートが揺れる。
「パパが関わっていたなら、私も行く。フランスへ行って、真実を確かめる」
 ユナが続く。
「僕も行きます」真田がペンダントを握り直した。「今度は、逃げるためじゃない」

「では、覚悟は決まりましたね」
 
 それまで黙ってオールを漕いでいたスニルが、振り返ってニカッと白い歯を見せた。
「ここから先は過酷ですよ。まずは徒歩でタムダンダ村まで丸二日。そこから車でカトマンズまで一日。計三日の強行軍です」
「三日もかよ……」  
 涼は辟易したが、すぐに指先のノイズを見て表情を引き締めた。  

 タイムリミットまで、あと六日と数時間。  
 体は刻一刻と、この世界から消え始めている。

「何があっても行ってやる」
 涼は透けかけた右手を握りしめた。
「人類と——俺たち自身を、取り戻しにな」